悲しみは生きている1
「美波さん? いやあ、分からないかな。いまテスト期間でしょ? 部活ないからさ……」
いささか申し訳なさそうに頭を掻いた伊藤先輩は、わざわざ三年生の教室までやって来た僕を見て驚いていた。
彼女の回答に、そうですか、と端的に反応する。やはり収穫はなかった。
清が学校を休んでいるらしい。週明けからずっとだ。
土曜日あんなことがあって、さすがにすぐ切り替えられるほど僕は丈夫ではなかった。次の週の水曜日、ようやく重い腰を上げて彼女のクラスへ赴いてみれば、清は欠席だとの情報を得た。
一応こうして伊藤先輩にも話を聞いてみたけれど、結局何も分からずじまいである。
あの日、純は清を追いかけて帰ってこなかった。後から「悪い。帰る」と簡素なメッセージが送られてきただけだ。
清が学校に来ていないと知り、純と連絡を取ろうと試みたものの、電話でも文章でも「俺から話せることは何もない」の一点張りだった。
彼女はなぜ来ないのか。いつまで休むつもりなのか。
テストが終わればまもなく夏休みに入る。そうすれば、なおさら会うことは難しい。
そもそも、僕は彼女に会って何を言えばいいのだろう。
「えーっ、シホ、振られたってマジ?」
三年生の教室は二階、二年生の教室は三階だ。自分の教室へ戻ろうと階段をのぼりきり、角を曲がる直前に、女子生徒の声が上がった。特に気にせずそのまま曲がろうとして、視界に入った「彼女」を認識した瞬間、たまらず引き返す。
『犬飼くんのことが好きです。付き合って下さい!』
多分、一か月ほど前のことだ。放課後、校舎裏で僕にそう告げた彼女が目の前にいる。
すぐに隠れたので、向こうは僕に気が付いていないようだった。そのことに安堵しつつ、こんなところでその話をしないでくれ、と切実に頼みたい。
休み時間が終わるまで、あと五分とちょっと。チャイムが鳴れば彼女たちも教室へ戻るだろう。引き返して遠い階段に行くよりも、ここで待っていた方がいい。
「振られたっていうか、私が勝手に告白しただけっていうか……」
「でも、『うん』とは言ってくれなかったわけでしょー? シホぐらい可愛くてもだめって、犬飼くん鉄壁だね」
「あはは……まあかっこいいし、彼女いそうだよね」
勝手に鉄壁呼ばわりされ、何とも言い難い気持ちになっていた時だった。
「彼女はいないっぽいけどー、それをいいことにつきまとってる子はいるらしいよ?」
心臓の周りが嫌な脈を伴って動いた。ぞわりと裏を這うような、そんな感覚だ。
「ええ、なに? ストーカーってこと?」
「いやいや、そんなやばいのじゃなくてさ……帰りに待ち伏せしたり放課後つきまとったりしてる子がいるって聞いたことあるの」
汗が滲んで喉が渇く。もしかしなくてもそれは――清のことなのではないか。
一人静かに焦る僕とは裏腹、彼女たちの話は進む。
「犬飼くんって女子の先輩に人気じゃん。そのつきまとってる子が一年生みたいでー、三年の先輩に目ぇつけられたんだって」
「えー……可哀想っていうか、自業自得? なのかな……?」
「ま、あくまで聞いただけだし分かんないけど。だって本当だったらやばいよ、がちでいじめられてるっぽい話だったもん」
本当だったらやばいって何だ。悠長に話している場合なのか。火のない所に煙は立たない、だったら清は――
「ねえ。その先輩って、誰か分かる?」
目の前の肩に手を掛けていた。口からはそんな言葉が出た。
瞳を真ん丸に見開いた彼女たちが、どこか怯えたような様子で固まる。
「お願いだから、知ってること全部教えて欲しい。大事な話なんだ」
***
もうそろそろ梅雨明けだろうか。外の匂いがほんの少しだけ変わってきたような気がする。
昨日、純に電話をかけた。何度かけたって同じだ、俺から話せることはない、そう繰り返す彼に、僕は初めて反論した。
『話を聞きたいんじゃない。僕から、話したいことがある』
だから直接会えないかと頼んだ。純ではなく、清に。
了承してもらえるまで引かないつもりだったけれど、彼は「分かった」とだけ呟いて、家の住所を送ってきた。
電車を降りて傘をさす。土曜日だからか、街中は人通りが多い。地図アプリを立ち上げ、目的地へ急いだ。
「“美波”」
十五分ほど歩いた。送られた住所に該当する家の表札を確認して、間違いないと胸を撫で下ろす。立派な一軒家だ。
インターホンを押すまでに、三十秒かかったかもしれない。深呼吸をして人差し指を押し込む――寸前、がちゃりとドアが開く。
「うわっ……びっくりした、やっぱりお前か。全然入ってこねーから泥棒かと思ったわ」
「……悪かったな」
「まあ、入れよ」
促されるままに、中へ入るとする。
靴を脱いでいると、純が「悪いんだけど」と切り出した。
「清、お前に会いたくねえって。何回か説得したけど、無理なもんは無理らしいわ」
正直なところ、それは予想の範囲内だ。むしろ昨日の時点で彼がすんなり頷いたのが不思議なくらいである。
「そういうことだから、お前の話は俺が聞く。できる限り、清には伝えるけど」
「うん。分かった」
ひとまず納得しておくことにして、僕は聞き分けの良い返事を寄越した。
通されたのはリビングで、両親は出掛けているらしい。二階の部屋に清がいるとのことだった。
四人掛けテーブルで純と向かい合う形で座る。彼がグラスを二つ置いて、僕を見やった。
「烏龍茶で良かったか?」
「ああ……うん、ありがとう」
ギンガムチェックのコースター。それと同じ柄の布でつくられたケースがティッシュ箱を覆っている。
彼の背後にあるキッチンのカウンターには家族写真が飾られており、この家の空気が温かいのは明白だった。
「で? 話したいことって何だよ。お前に次期サークル長を任せたいって話か」
僕ら高校生組がテスト期間だということもあって、「なないろ」は今日と来週が休みになっている。昨日、純に電話をしたとき真っ先に言われたのはそのことだった。
「それは昨日断っただろ」
「言っとくけど、拒否権ないからな。俺が卒業したら必然的にお前が最年長なんだから」
頼むわ、と軽く言い捨てた彼に、わざとらしく音を立てて烏龍茶を一口飲む。やや力強くグラスを置いた拍子に、たん、と底が鳴った。
「純。――単刀直入に言う」
からりと、氷の溶ける音がした。重く湿った空気に似つかわしくない、軽やかな音だった。
「清が、いじめられてる」




