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雨を集めて3



「招待状?」


「そうだよ! さやかちゃんにあげるの。わたるくんじゃなくて、私たちから言ったら、来てくれるかもしれないでしょ」



 得意げに人差し指を立てた女の子が、画用紙を半分に折り、クレヨンで「しょうたいじょう」と綴った。



「えーっと……つぎの土よう日、プレゼントをわたしたいので、ぜったいに来てください」


「プレゼント?」


「わたるくんが用意しないとだよ! 仲直りする時はね、ごめんなさいって言って、その子の好きなものあげたほうがいいよ」



 全然女の子の気持ち分かってないんだから、といったニュアンスで僕にアドバイスを寄越してくる彼女たちに、弁明する気力はない。とりあえず頷いておくことにする。


 チューリップや蝶々、リボン、ドレス等々。空いたスペースに描き足されていくイラストは脈絡こそないけれど、随分と賑やかだ。

 清はそれだけ子供たちに必要とされている存在で、いい加減にきちんと会って話さなければいけない、というのは日に日に強く感じていた。



「できた! じゅんくーん、これさやかちゃんにわたしてー!」


「わたるくんからって言っちゃダメだよ! わたしたちが書いたんだもん!」



 そうだよー、と追随する子供たちの頭を、純が一つひとつ撫でていく。



「分かった分かった。渡しておくから、まずそこらへん片付けてなー」



 彼の指示に素直に従って散らばっていく、小さい背中。そこから視線を戻せば、純が手招きしつつ僕を呼んでいた。



「……なに?」


「お前、清と喧嘩ってマジな話か?」



 怒っている、というわけではなさそうだ。至って落ち着いたトーンで問いかけられ、首を縦に振――ろうとして、やめた。



「分からない」


「は?」


「だから、分からないんだよ。喧嘩ってほど言い合ったわけじゃないし、でもあれから清には多分避けられてる」



 その理由も、分からない。僕は何一つとして分からなかった。


 正直に申告すると、純が戸惑った様子で頬を掻く。



「あー……まあ、俺も実を言うと何も分かんねえんだわ。こないだからちょっと変だとは思ってたけど、元気だから大丈夫ーって、ずっとそればっかりでな」



 少し引きつった笑みで大丈夫と繰り返す彼女の姿は容易に想像できる。純にさえその調子なのだから、なおさら僕とは話したくないのだろう。


 明確に線引きをされたのは、清が僕に絵を見せた日だ。その前から予兆があったけれど、変化といえば、彼女が僕のスケッチに付き合うようになったこと。

 分からない。それの一体何が問題なのだろうか。



「とにかくこれ、清に渡しておく。うまいこと言っとくからさ、ちゃんと二人で話せよ」



 ひらひらと「しょうたいじょう」を掲げた彼に、今度は躊躇なく首を縦に振る。


 近くに散在している画用紙を拾い、彼女の絵を思い出した。青くて鮮やかで眩しい絵だ。


 窓の外は雨が降り続けている。清は、泣いていないだろうか。





 ***





 子供たちからの「ぜったい」を、さすがに断ることはできなかったようだ。


 次の週の土曜日、清は福祉センターへやって来た。といっても、既に一人で集会室にいた僕に、純から連絡が入っただけの話である。



『いま清と一緒に向かってる』


『よく連れ出せたね』


『今日はお前が来ないって嘘ついた』



 そんな具合にメッセージのやり取りをしていると、テンポよく続いていた彼からの返信が途絶えた。数分経ってから、着いた、とだけ送られてくる。



『準備いいか?』


『何の準備だよ』


『心に決まってんだろ』



 机の上に伏せて置いた画用紙を指先でなぞり、息を吐く。


 心の準備はとうに終わっていた。否、この一週間は心の準備をする時間でもあった。


 清へのプレゼントとして、僕は絵を描くことを選んだ。それは僕の絵を見たいと言い続けてきた彼女への贈り物であったし、僕は僕のために絵を描くべきだと言った彼女への抵抗である。


 僕は彼女のことを全然分かっていなかった。彼女だって、僕のことを全然分かっていない。


 僕がもう一度絵を描くと決めたのは、自分のためなどではないのだ。そもそも彼女と出会わなければ、彼女が僕の絵を見たいと言わなければ、絶対にあり得なかった。

 僕に筆を執らせたのは君だ。だから僕は君のために絵を描く。それだけは譲れないし譲らない。



『いいよ。入ってきて』



 そう入力して、送信ボタンを押す。すぐに既読はついた。

 同時にドアの向こうから話し声が聞こえて、恐らくあの兄妹だろうと見当をつける。お兄ちゃんは、だの、いいから、だの、断片的に単語が飛び交っていた。


 ドアノブが回る。そのまま開いたドアの先にいた彼女と視線がかち合う。



「え――うわっ」



 僕の姿を捉えるなり目を見開いた清は、突然こちらに二、三歩よろめいた。純が後ろから彼女の背中を押したのだろう。



「ちょっと、お兄ちゃん!?」


「航としっかり話して来いよ。分かったな」



 無情に閉じられた扉を前にして、清が途方に暮れているのが伝わってくる。


 今日の彼女は水色のスカートに緑のブラウスと、見慣れない格好をしていた。どことなく違和感がある、といえばいいのだろうか。単にいつもとは少しテイストが違うだけ、と言われてしまえばそれまでかもしれない。


 こちらに背を向けたまま立ち尽くす彼女に、努めて穏やかな口調で呼びかけた。



「清。騙してごめん」



 びくりと僅かに跳ねた華奢な肩を、静かに見つめる。返事はなかったので、更に続けた。



「どうしても君と話したかった。話さなきゃいけないと思った。とりあえず、こっち向いてくれない?」



 返答がなければ、清が振り返ることもない。


 本当なら、なぜ彼女がこうなってしまったのかを冷静に話し合うつもりだった。その上で僕の絵を手渡すことを想定していたのである。


 仕方ないけれど、けしかけるしかなさそうだ。



「……清のために、描いてきたんだけど。見てもくれないの」



 ぴくり、と。今度は僅かに彼女の首が動いた。数秒の間をおいて、ゆっくりこちらを振り向くようにその頭が角度を変える。効果はあったみたいだ。


 恐る恐る僕に視線を投げて、清は口を開いた。



「また、嘘ついたんですか?」


「は?」


「だって、絵ないじゃないですか」


「ここにある。こっち来て、自分でめくって」



 僕の目の前にある机を指さし、彼女に促す。


 逡巡していたようだけれど、清は大人しくこちらへ歩いてきた。机を挟んで真正面から向き合う。

 やっぱり彼女の表情は冴えないし、瞳もきちんと捉えているはずなのに、どこか合わない。



「いい、ですか?」



 怯えた声が僕に問う。



「うん」



 清の指先は、怖がっていた。高揚や興奮とは種類の異なる震えだ。

 僕には見つめることしかできない。自分が描いたものを彼女がどう受け止めるか、任せるほかにどうしようもない。


 彼女が懸命に画用紙の端を掴む。そして、裏返した。


 息を吞む音がする。自分のものか相手のものかは判断がつかない。多分、両方だ。


 彼女が僕の絵を食い入るように眺めている。僕は、彼女の睫毛を見ていた。



「……私、ですか?」



 弱々しい問いに答えるより先、清が俯く。



「私ですよね。……そう、ですよね」



 声が出なかった。だから、心の中で「そうだ」と答えた。


 清が描いた海は、船は、僕だった。どこまでも青くて眩しい、僕だった。

 だから僕も彼女を描こうと決めた。


 彼女は清々しくて清らかで、名前の通りの人間だ。彼女を何かにたとえるとするなら、それは水以外にない。

 水たまりの中、青く眩しく笑う彼女の構図を思いついたのは、雨の帰り道に傘をさして一人、清のことを考えていた時だった。



「嬉しいです。すごく……すごく、嬉しいです」



 それなら、どうして悲しそうでやるせない顔をしているんだ。

 彼女は眉根を寄せ、瞳を潤ませる。細い指で僕の描いた自分自身をなぞる。



「本当に、嬉しいんです……嬉しくて……それなのに、」



 呼吸が乱れて嗚咽交じりになっていく清の話し声を、ただ聞いていた。

 涙が一滴、水たまりに吸い込まれていく。そこだけじわりと滲み、水彩画独特の揺らぎが生まれる。



「こんな状態で航先輩の絵なんて、見たくなかった……」



 彼女は、間違いなく、そう言った。

 あれほどまでに切望した僕の絵を、しつこくせがんだ僕の絵を、見たくない、と。


 俄かに信じ難く、言葉を失う。しっかりと傷ついている自分がいた。


 泣きじゃくった清が顔を上げ、僕を視界に入れた途端、くしゃくしゃな表情を更に歪める。きっと僕も負けないくらい酷い顔をしていたことだろう。



「……ごめんなさい」



 踵を返して部屋を出ていく彼女を、止めることなんてできなかった。

 純の焦ったような声が響いた後、足音が遠ざかる。


 あっという間に一人となった空間で、自分の絵を見下ろした。

 彼女の涙が染み入った部分だけが濃くなっている。それは絵の中の清が泣いているようにも見えた。


 僕が描きたかったのは笑顔の彼女だ。僕が見たかったのは、笑顔の彼女だ。

 泣かせたかったんじゃない。清が笑ってくれれば、僕はそれだけで良かったのだ。


 窓の外はひたすらに雨が降り続けている。僕は、清を泣かせてしまった。



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