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雨を集めて2

 


「これは……海?」



 水平線へ向かって、船が進んでいく。荒れてもいない、波も立っていない、ひたすらに穏やかな海だ。それなのに、キャンバスの中央に描かれた船の道のりは果てしなく遠く感じられた。


 ああ、やっぱり、彼女の絵には水が流れている。


 写真のように正確なわけではない。ピカソのように飛び抜けて独創的なわけでもない。

 だけれど、全く、抜け出せない。彼女の世界から、描く絵から。


 太陽の光が射している。水面にきらめいて揺れている。その光は全部、白い。



「“航”」



 たった三音、頭上に落とされた彼女の声に顔を上げた。



「これは、海を(わた)る船です。――あなたです」



 初めから決めていた台詞のように、その言葉には一切の迷いがなかった。彼女の真っ直ぐな瞳に貫かれる。



「あなたの描いた天使の絵を見て、すぐに気付きました。この人にとってとても大切な存在なんだって」



 ついさっきまで僕が眺めていた壁。かつて僕の絵があった空間に視線を移して、清が打ち明ける。



「あなたのしたことは、大勢の人には理解してもらえないかもしれません。それでも、私はあなたの絵に救われた。あなたが絵を描いてくれたから、誰かを好きでいてくれたから、私はここにいるんです」



 あまりに眩しくて、あまりに痛い。痛いくらいに眩しい。

 目を細めたくなる。けれども、細めてはいけない。逸らすわけにも、ましてや閉じるわけにもいかない。


 見つめ返す。一音一句、絶対に聞き逃さないように、一瞬一秒、絶対に見逃さないように。

 僕は、彼女と向き合いたかった。



「だから、私も絵を描きます。この世界を愛します。私の大切なものはあなただって――航先輩だって、どうしても残しておきたかった」



 清の口角が、緩やかに上がる。


 一切の不純物を取り除いたかのような、きめの細かい言葉だった。大切、という意味を、その響きを噛み締める。


 信じる、信じないの問題ではないのだ。信じたい。僕は、彼女を信じたい。


 優しい気持ちになりたい時、人はこうやって息をするのだと、身をもって知った。



「清」



 喉が震える。声が震える。

 体の芯は煮えたぎるように熱いのに、握り締めて開いた指先は柔らかな温かみを伴っていた。



「触ってもいい?」



 キャンバスへ手を伸ばして問えば、彼女が頷く。


 水面を静かになぞって、船の通った跡を確かめる。僅かな水飛沫も、反射する光の筋も、一つひとつ丁寧に紡がれていた。くっきりと輪郭の取れたタッチは、彼女を体現している。


 それでいて、ひどく透き通っているのだ。

 スケッチを見ているだけでは分からなかった、彼女の色の使い方。グラデーションが異様に上手い。遠くの方にある海水と雲は溶け切って、何色と形容すれば良いのだろう。雨を集めて絵の具にすれば、こんな色になるのかもしれない。



「綺麗だ」



 伝えようと思って口にしたというよりも、自然と零れていた。それでも、伝えたいと思った。

 だからもう一度、今度は彼女の顔を見て告げる。



「すごく、綺麗だ」



 僕がそう言った途端、清はぐっと唇を噛んだ。数秒、自分の中に言葉を落とし込むように瞼を閉じて、また開いた瞳が僕を映す。彼女の口元は、必死に笑おうとして歪んでいた。


 最近彼女の元気がなかったのは、僕に絵を見せることへの緊張だったのだろうか。もしそうなのだとしたら、もっと解放感に満ちた表情をしてもいいはずだ。



「航先輩。私、この高校に来て、あなたに会えて、良かったです」



 声色が違う。彼女は感情を包み隠さず生きているはずなのに、今の彼女からはどの感情も受け取ることができなかった。

 強いて言うならば、そこにあるのは取り繕った笑顔だけだ。



「航先輩が私のために絵を描くって、そう言ってくれただけで十分です」


「……なに、どういう意味」



 冷え切っていく。指先から熱が逃げて、途方もなく遠くへ行ってしまう。



「もう、いいんです。航先輩は私のためじゃなくて、自分のために絵を描くべきですから」


「もういいって……なに勝手に決めてるの? 大体、急にそんなこと――」


「だって」



 明確に僕の反論を遮り、彼女は決然と告げた。



「だって、最初に言いましたよね。この絵を描き終わったら、もう航先輩の邪魔はしないって」





 ***





 次の日、放課後の下駄箱に清はいなかった。

 大抵いつも彼女の方がここへ降りてくるのは早くて、気が付けば階段を駆け下りるのが習慣になっていた。


 どうやら昨日の発言は本気だったらしい。



『描き上がったらもう僕のとこには来ない?』


『その絵を描き終えたら、もう航先輩の邪魔はしませんよ』



 もちろん、分かっていた。最初からそういう約束で、僕らは時間を共有したのだ。

 分かっている――本当に、そうだろうか。


 煩わしいとしか思えなかった彼女に振り回され、自分の世界を様々な角度から眺めるようになった。出会うはずのなかった人、取り戻せるはずのなかった感情、その全ては他でもなく、彼女が僕に与えたものだ。


 認める。僕はもう随分前から、彼女が隣にいることに心地よさを覚えてしまっていた。


 あれほど何度も僕を大切だと語ったくせに、ここまで呆気なく去るのか。それが君の「大切」なのか。



「……時効だろ」



 あんな約束、とっくのとうに忘れていた。一緒にいるための期限なんて必要ない間柄になれたと思っていたのは、僕の方だけだったようだ。


 傘をさす。透明なビニールの向こうで、雨粒が弾けた。





 ***





 清が積極的に僕を避けていると感じたのは、更に数日後のことだ。


 休み時間、一年生の教室を訪ねてみても彼女の姿は見当たらなかったし、彼女と同じクラスの人に声を掛けても曖昧に濁されるだけだった。僕の顔を見るなり、示し合わせたようにうろたえる彼女のクラスメートの様子からして、「航先輩が来たら私のことは知らないって言っておいて」とでも伝えられているのだろう。


 会いに来ないというのはまだ分かるにしろ、まさかここまで徹底的に逃げ回られるとは思っていなかった。

 会いたくない、という意思表示なのだろうか。どっちみち、いま無理やり追いかけるのは得策ではない。


 その週の土曜日。「なないろ」の集まりにも当然と言うべきか、彼女はいなかった。



「じゅんくん、今日さやかちゃんいないの?」



 気落ちしたトーンで放たれたその質問に、耳をそばだててしまう。

 純は「ああ」と軽く頷いてから続けた。



「前から学校の友達と遊びに行く約束してたんだと。どーしてもずらせないって言ってた」


「ふうん……」


「はは、そんな顔するなって。来週は来るよ」



 この時点では、純も本当にそう思っていたのだろう。

 ただ結論としては、次の週も彼女が現れることはなかった。







「さやかちゃん来ないねえ……」


「具合わるいのかなあ」


「でもでも、元気だーって、じゅんくん言ってたよ」



 暦は七月を教えていた。


 清にはあれから一度も会っていない。

 彼女が連続でサークルを休むのは珍しいらしく、子供たちの会話の内容は半分が清のことだった。


 純は彼女が来ない理由を「ちょっと忙しいから」と大雑把な言葉で繰り返すだけだ。



「ねえねえわたるくん、さやかちゃんとおんなじ学校なんでしょー?」


「さやかちゃん何で来ないの?」


「わたるくんなんにも知らないー?」



 服を引っ張られ、次々とクエスチョンが飛んでくる。


 僕は迷った。何も知らないといえば知らないし、だけれど何となく、彼女の行動を変えたのは自分が原因のような気もする。その原因が分からないから困っている、とも言うが。


 ねえねえ、とひたすらに呼び縋ってくる小さい手を眺めて、僕は口を開いた。



「清と、喧嘩した」


「ええっ!?」



 すぐ近くにいた子だけではなく、周りにいた子までが驚いて寄ってきた。

 喧嘩、というワードチョイスは少し間違えたかもしれない。しかし、小さい子相手に適切な説明が思い浮かばなかったのだ。



「わたるくんとさやかちゃんが?」


「けんかしたのー!?」


「なんでなんで!」



 弾丸のごとく繰り出される言葉に面食らいつつも、脳内で懸命に答えを模索する。



「……価値観の違い?」


「ぶっ」



 僕が答えた途端、背後から吹き出すような笑い声が聞こえてきた。片手で顔を押さえ肩を小刻みに揺らしているのは、他でもなく純である。



「かちかんってなに?」


「わかんなーい」



 不満を零す子供たちだったけれど、喧嘩の理由に関してはさほど興味がなかったようだ。とにかく「早く仲直りしないと駄目」の一点張りで、なぜか全て僕のせいになっていた。



「ちゃんと話して謝んないとだめだよー」


「いや……学校でもここでも会えないし」


「わたるくんのこと嫌いになっちゃったんじゃない? それか、すっごく怒ってる!」



 その可能性は僕だって考えた。彼女が何に対して怒りを覚えたのか、呆れかえったのか。どれだけ思案しても、これといったことは思い当たらないのだ。


 黙り込んだ僕に、しょうがないなあ、と幼い呟きが落ちる。



「じゃあ、私たちが『しょうたいじょう』書いてあげるね!」



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