些細なイレギュラー2
「美波さん? ああ、そうそう。いい子だよね」
美術室――の隣の、準備室。
窓を開けて「いい天気だぁ」などと呑気な感想を述べる彼女は、美術部の現部長だ。
「伊藤先輩、その子に僕のこと話しました?」
「えー、まあ、うん。だってすっごい無垢な瞳で聞かれたもんだからさぁ……」
美波清、と名乗った彼女は、どうやら学校説明会で美術室を通りかかった際、僕の絵を見つけたらしい。
去年の文化祭に向けて描いたものだ。結局、僕は文化祭の前に部を去ったのだけれども。
「もしかして、何かまずかった?」
顔だけ振り返り、伊藤先輩が問うてくる。
「いや、それより……僕の絵、掲示したんですね」
もう部員じゃない人間が描いた絵なのに。と、そこまでは口に出さなかった。
自分の知らないところで、知らない人に影響を少なからず及ぼしている。その事実にどこかもどかしくもむず痒い気持ちになった。
「うーん……うん。迷ったんだけどね。やっぱり、犬飼くんの絵は外せなかったよ。みんなもいいよって言ってくれたし」
「……そうですか」
「気を悪くしたなら謝るよ。でも、実際に君の絵を見てうちに入りたいって言ってくれた人がいるからね。美波さんもその一人」
あっ、でもね、と付け足した彼女が、弁解するかのように顔をしかめる。
「別に何でもかんでも話したわけじゃないよ。ただ、申し訳ないけど、犬飼くんはもう部にいないって伝えただけ。どうしても会いたいって言うもんだから、クラスは教えちゃったけど」
そのせいで後味の悪い思いをすることになったのだけれど、それは今わざわざ言うことでもない。
伊藤先輩は「それから」と視線を宙に投げる。
「部員の誰も、君に敵わなかった。同期も先輩も。天才、なんて簡単に言いたくないけどさ、君はそういう類いのものだったよ。――って、これは私の勝手な主観だけど、そういうことは言わせてもらったね、その子に」
「全然普通に話してるじゃないですか」
「いやあ、ごめんごめん」
謝罪を繰り返すわりに、先程から言動が伴っていない。
小さく息を吐き、僕は踵を返した。
「あれ、帰るの?」
「はい。他の人が来る前に」
特に、顔を合わせたくない人物がいる。その人に会わないためにも、こうして準備室で密やかに、部長へコンタクトを取りに来たのだ。
「ねえ、犬飼くん。君はもう、本当にここへは戻る気ないの?」
ドアに手を掛けた刹那、背後から比較的明るいトーンで聞かれる。
「私はまあ、どうして君がやめちゃったのかよく知らないし、だから無理に戻っておいでとも言えないのが歯痒いんだけど……でも、君の絵に惹かれてる人も、原動力になってる人も、沢山いる」
それから彼女は、続けた。
「もったいないよ。せっかく才能があるのに」
ああ、この人も同じだ。
もったいない。その言葉に責任を全て押し付けて、片付けようとする。
どうして君がやめちゃったのかよく知らないし――だったら、適当に踏み込んでこないで欲しい。
知らない。分からない。それはあらゆる努力を放棄して自分を正当化するための、一番便利な凶器だ。
「……戻りませんよ。そのつもりでやめたんですから」
上手く表情を取り繕えている自信がなかったから、振り返ることはしない。口調だけは一丁前に穏やかだった。
『先輩は、どうして美術部をやめてしまったんですか?』
どいつもこいつも何なんだ。僕はお前らのために部活をしていたわけじゃないし、絵を描いていたわけじゃない。僕がやめようがどうしようが関係ない。
荒んだ心境で開けたドアは建てつけが悪く、不格好な音を立てる。それが苛立ちを助長した。
***
どれだけ綺麗事や偽善を並べたって価値がない。それに価値があると言い張るのは、この世界の本当の汚さに今まで触れることなく生きてこられた者だけだ。
金がなければ生活できないし、人望がなければ社会から見放される。
「航? 帰ったの? おかえり」
夕方、家の玄関で靴を脱いでいた僕に、奥から声が飛んでくる。
そのまま足音が近付いてきたかと思えば、トートバッグ片手に薄いカーディガンを羽織った母が現れた。
「今日の晩ご飯はナポリタンね! 置いといたから」
「うん」
「じゃあ行ってきます」
僕の横をすり抜け、スニーカーを引っかけた母が外へ出て行った。その後ろ姿を数秒確認してから、ため息をつく。
着替えてリビングに入ると、テーブルの上にはラップのかかった皿が一つ。
その横に小さいメモが添えられていた。急いで書いたのだろう。猫のイラストと共に、「温めて食べてね」と吹き出しがついている。
……忙しいなら、わざわざこんなことしなくてもいいのに。
この家には自分と母しか住んでいない。
両親は随分と前に離婚した。原因は父親の浮気で、それも一度や二度のことではなかった。多分、そういう病気なんだろう。そうでないとおかしい。
しばらく見逃していた母も馬鹿だと思うけれど、僕に初めて「どうして父さんと一緒にいるの?」と聞かれた後、へらへらと「それが愛なのだよ」と宣った時は、本当にどうかしていると思った。
こんなに裏切られて、弄ばれて、それが愛だというのなら、これほど滑稽なこともないだろう。
父親のことは嫌いだった。だから離婚も勝手にすればいいと思ったし、会えなくなることもどうでも良かった。
ただ唯一困ったのは、そのせいで生活が苦しくなることだ。
もともとあいつは金を稼いでくるだけの存在意義なのだから、いなくなったところで家の空気は変わらない。だけれど、口座の中身はそうもいかない。
母は昼も夜も働きに出るようになった。――僕は、人への媚び方を覚えた。
欲しい物があれば強請ればいい。無いものは借りればいい。だって、そうしないと生きていけないのだから。
いくら申し訳ないと罪悪感を抱いたところで、それが何のメリットになるのだろう。謝ったって一円も貰えないのに。
みんな、勘違いをしている。自分の立場が上だと思い込んで、頼まれて「あげる」と胸を張るのだ。でもそれは違う。
そうやって無意識のうちに人を見下している奴らの手綱は、いつだって僕が握っているのだ。
『犬飼くん、好きです!』
当然だ。好かれるように振舞っているんだから。
『お前はほんとに可愛いやつだな~』
当たり前だ。相手が気持ち良くなるような言葉をあげているんだから。
好意も恋慕も、向けられるたびに心臓が冷たくなっていくだけだった。そして、そんな自分に吐き気がした。
この目も、見ている世界も。汚れきった全てが、僕は大嫌いだった。