君の知らない色1
握り締めた拳に汗が滲む。拳だけではない。額にもじんわりと浮かんでいるのが分かった。
美術室と記されたドアが、目の前に立ちはだかっている。大して分厚くもないそれに物怖じしてしまうのは、自分の気持ちの問題だ。
数回深呼吸をすればだいぶ落ち着いた。
スライド式のドアを開け、中に足を踏み入れる。
「……犬飼くん!?」
真っ先に声を上げたのは部長だった。突然の訪問者に驚いたのだろう、無理もない。僕は今日、美術室に来ることを誰にも話していないのだ。
白先輩と会ってから、四日が過ぎていた。その間、美波さんからは何のコンタクトもなく、僕は一人ずっと考えていた。
自分はこれからどうするべきか。絵を描くのか、描かないのか。
僕の訪問に驚いたのはもちろん部長だけではなく、今この空間にいる部員全員だ。表情からそれが見て取れる。
「ど、どうしたのいきなり……」
作業の手を止め、部長が言いつつこちらに近付いてきた。そしてふと思い当たったのか、もしかして、と呟く。
「犬飼くん。もう一度、美術部に?」
期待のこもった眼差しだった。僅かに明るくなった彼女の声色を聞き、それでも僕は伝えなければならない。
「いえ、違います。僕がもう美術部に戻ることはありません」
きっぱりと告げて首を振れば、部長は怪訝な面持ちで黙り込む。
美術室の後方には部員の絵が貼られており、そこには去年僕が描いた「天使」の絵もあった。
机の間を縫うようにして歩いていく。その天使の前で立ち止まり、じっと目を凝らす。
『航先輩の絵を初めて見た時、見えないはずの色が見えたんです』
そんな馬鹿な話があるだろうか。未だに信じられない。
けれども、あの時の美波さんが嘘をついているとは思えなかった。そもそも、彼女は生産性のない嘘をつくようなタイプではないだろう。
どんなに見つめても、目を細めても、目の前の天使はただくすんでいた。
自分が最後に見た時とは少し色味が変わっているような気がしなくもない――が、だからといって僕が鮮明に見ることができないはずの赤色を、特別綺麗に認識できるわけでもなかった。
否、僕は赤が嫌いだ。だから、この絵を描いた時、赤を使ったはずはない。僕の苦手な暖色を使うことなく、寒色で描いたはずだった。そのおかげで、絵の仕上がりは一切の濁りも曇りもなく、少なくとも僕の目には映っていたのだ。
――じゃあ、どうしてこの絵はくすんでいる?
「犬飼くん、な、何して……」
答えは簡単だ。「誰かが手を加えたから」、それ以外にあり得ない。
絵の端を左手で押さえつけ、右手で力一杯上から下へ。
びりびりと紙の繊維が離散する音が、鼓膜を揺らした。大袈裟な音を立てた割に呆気なく破られてしまった画用紙は、もはやただのゴミと化している。
『私は、航先輩の絵を見たいです。どうしても、もう一度見たいんです』
ああ、見せてあげるよ。こんなにくすんでしまったまがいものなんかじゃなくて、他でもない僕が、僕だけが描いた絵を。
『さ、や、か、です! 覚えて下さいね』
目を閉じる。頭の中で繰り返す。何度も、彼女の名前が鮮やかに浮かんでくる。
「――清」
名は体を表す。清々しく清らかな響きだ。今はもう、ちゃんとそう思う。
その名前を呼んで、振り返った。彼女の――清の瞳が、大きく震えている。
「僕はこれから、君のために絵を描く。今度は誰の手も加えない、僕の絵だ」
きっと、好きなだけでは駄目だった。僕が自分のために絵を描くことは、もうないだろう。
それでもいい。それで、いい。彼女が僕の絵を求めてくれるから、僕はもう一度、筆を執ろうと決めたのだ。
「だから、ちゃんと見ててよ。君の知らない色は、もっとたくさんある」
僕の知らない色だって、世界だって、彼女が気付かせてくれた。それなら僕にでも描ける。彼女の知らない世界をいくらでも。
沈黙が落ちる。張り詰めた静けさではない。嵐の後の静けさのような、穏やかな沈黙が広がっていた。
つと視線をずらし、白先輩と目が合う。僕の顔を見て、彼女は優しく笑った。
それだけで、全てが許された気がしてしまう。決して許されたわけではない。過去は消えないし、あやまちを忘れてはいけない。傷つけたことをしっかりと抱えて、歩いていかなければならないのだ。
頭を下げる。それから、もう戻らないと決めた美術室を後にした。
「航先輩っ……!」
放課後の廊下に、僕を呼ぶ声が響き渡った。上擦っているし、震えている。多分、泣いているだろう。そして彼女は、透き通った清廉な涙を流すのだ。
慌てたような足音が聞こえて、後ろを振り向く。
やっぱり、清は、泣いていた。
「待って、下さい……もう戻らないって、どういうことですか、先輩、描くって、私のために描いてくれるって、」
「とりあえず息整えたら?」
「だ、だって、航先輩が出て行っちゃうから……!」
膝に手をつき肩で息をしながら、彼女が必死に訴えかけてくる。
完全に足を止めた僕に安心したのか、清はゆっくりと姿勢を戻して自身の頬を擦った。
「あの、航先輩」
「さっき言った通り、美術部には戻らない。それが僕のけじめだから。でも、絵は描くよ。君が見たいって言ったからね」
この数日間、悩んで出した結論だ。
忘れるのではなくて、ここからまた始める。僕は、彼女のために絵を描く。ある種、それが自分のためであるのかもしれなかった。
「君が白先輩に頼んだんでしょ。僕と話せって」
余計なことをしてくれるなよ、と内心毒づいてしまった自分がいたのも事実だった。もちろんそれは最初のことであって、今は話すことができて良かったと思っている。
「……はい。勝手なことしてごめんなさい」
清が目を伏せ、謝罪を口にした。
退部する前、僕が最後に描いた絵について、部長に尋ねたのだという。
自分の中では既に完成しているつもりだったその絵に手を加えたのは、白先輩だったらしい。かつての部長が彼女に仕上げを頼んだそうだ。以前、僕が一番お世話になっていたのは間違いなく白先輩であったし、それは頷ける。
僕の色覚では完璧だったけれど、他の人からしたら未完成に見えた。そういうことだ。白先輩は主に暖色の絵の具で色味を付け足したのだろう。くすんで見えたわけだ。
「白先輩なら何か知ってるのかもしれないと思って、航先輩のことを聞いたんです。初めはあんまり話したくないって断られちゃったんですけど、何度かお願いして教えてもらって……」
「僕の絵がもう一度見たいから、だっけ」
彼女のしつこさには、白先輩も折れたに違いない。
僕の言葉に、清は「それももちろんそうなんですけど」と苦笑する。
「航先輩のこと、もっとちゃんと知りたいと思ったんです。航先輩自身のことを、私が知りたかったんです」
真っ直ぐとぶつけられた願望が、心臓に深く突き刺さる。それは、痛いくらい眩しくて純真な「好き」だ。
――好意も恋慕も、向けられるたびに心臓が冷たくなっていくだけだった。
当然だ。好かれるように振舞っているんだから。当たり前だ。相手が気持ち良くなるような言葉をあげているんだから。
違う。違ったんだ。少なくとも、いま目の前で微笑む彼女に、僕は彼女の望むような言葉も仕草もあげられたことなんてない。
それでも、彼女は僕を優しいと言う。
「……ありがとう」
唇が動いた。喉から空気が震えて、音となって溢れた。
左胸に手を当てる。心臓の温度なんて測れないけれど、きっと温かいのだと思う。
彼女は返答の代わりにもう一度その瞳を潤ませて、くしゃりと笑った。




