愛おしそうに、苦しそうに3
「美波さんにね、お願いされたんだ。犬飼くんと会って欲しいって」
会場の片隅。壁際に二人並んで、先にそう切り出したのは白先輩の方だった。
当の美波さんはやや遠くで純と話している。こちらに顔を向けないのは、気を遣っているつもりなのだろうか。
「……そう、だったんですね」
やっとの思いで絞り出した自分の声は、情けないほど不安定だった。
俯きがちな白先輩の横顔を盗み見る。うん、と彼女が小さく頷いた拍子に、その柔らかそうな横髪が揺れる。
最後に白先輩と話したのは、放課後の美術室。それも半年以上前のことだ。
だけれど、水に流すにしては短すぎる期間のような気もするし、そもそも水に流すかどうかは僕が決めることではない。
「白先輩」
ともかく、ずっと彼女に伝えられていなかったことを、今ここで清算しなければならないのは確かだ。
「本当に、すみませんでした。あなたを怖がらせて、傷つけて」
腰を折り、深々と頭を下げる。
一ミリも濁っていない。心の底から思っている。僕は、彼女に謝れなかったことを、あの日から悔やみ続けていたのだと実感した。
「それから、今日僕に会いに来てくれて、ありがとうございます」
いくら白先輩が優しい人だからといって、僕に対して良い印象は持っていないはずだ。
ここへ来ない選択肢は用意されていた。それでもこうして顔を合わせて、言葉を交わすことを選んでくれた。それだけで十分だ。
「……本当は、すごく迷ったんだ。正直、気まずいなあって思ったし、犬飼くんのこと、よく分からないし」
恐らく迷ったというよりも、悩んだという方が近かったのだろう。彼女の話し方からは、そんな空気が漂っていた。
ゆっくりと顔を上げた僕に、白先輩が続ける。
「でも、美波さんがどうしてもって。私が来るまでずっと待ってるって……一生懸命、泣きそうな顔で言うから」
そう告げた彼女の眉間が、ぎゅっと寄っている。こちらもこちらで、どことなく泣き出してしまいそうな顔だ。
「犬飼くん。もう絵描いてないって、ほんと?」
「それは……」
「犬飼くんの絵が見たいんだって。私からも説得してくれませんかって、頼まれちゃったよ」
その時の美波さんの様子が、不思議と手に取るように分かった。
きっと強引で感情的で、筋道立てた説明なんてありはしない。突拍子もないし、いっそ抉り取るかのように、彼女は僕を、そして誰かを突き動かしていく。
「……もしかして、私の、せい?」
「違います!」
即座に否定し、違います、ともう一度念を押す。
絵から離れたのは、自分の中でのけじめだった。あのとき退部を選んだのも――ましてやあの日の出来事を白先輩のせいだなんて思うわけがない。全部自分で決めたことだ。
僕にとって絵なんてその程度のもので、本当に好きでやっている人からしたら、とんでもない冒涜だろう。
「ただの手段だったんです。あなたがいたから僕は絵を描きました。白先輩はいつも、きちんとアドバイスをくれる人だったから」
上手いから教えることなんて何もない、だなんて、他の人のように投げやりではなかった。
律儀に答えてくれて、助言をしてくれて、その時間だけは、僕が白先輩を独り占めできた。絵という共通のフィルターを持ち、コミュニケーションを図る大切な時間だったのだ。
「僕にはもう、描く意味がないんです。理由も」
これでは結局、白先輩のせいだと言っているようなものかもしれない。
弁解をするべきか考えあぐねていると、彼女が口を開いた。
「意味や理由がはっきりしてる人なんて、そんなにいないんじゃないかな。私だって友達につられて入部しただけだし、やめる理由がないから続けてるだけだよ」
そこだけ切り取ってしまえば、やる気がない部員の言葉にしか聞こえないだろう。もちろん彼女は、僕が知る限りでは真面目で努力家だった。
「……確かにそうですね。でも白先輩は、絵が好きだから続けてるんじゃないですか? 他の人だって」
「犬飼くんは、絵が好きじゃないの?」
「好きでもないし、嫌いでもないです」
白先輩が黙り込む。それから、「嘘だ」と呟いた。
「それは嘘だよ。だって、絵を描いてる時の犬飼くんは、別人みたいだもん」
彼女の瞳には、真理を照らす光が宿っている。白先輩は僕に「嘘だ」と反論したけれど、彼女の言葉に嘘は見受けられない。
とはいえ、そんなことを言われたのは初めてだった。
「みんなが犬飼くんのことをすごいって言うのはね、絵が上手だからっていうのもそうだけど……描いてる時の犬飼くんが、すごくて。オーラっていうのかな。一度集中すると、声掛けても全然振り返ってくれないの。自分だけの世界に入っちゃったみたいに」
「……ほんとに言ってます?」
「全部本当だよ。それで、筆を置いたら急にいつもの犬飼くんになるの。二人いるのかなって、最初は思ったくらい」
いつかを思い出しているのだろうか。白先輩は目を細め、懐かしそうな声色で教えてくれた。
「これで好きじゃないなんて言ったら、怒られるよ。美術部のみんなは、犬飼くんの絵にずっと憧れてるから。……ううん、憧れてるっていうより、嫉妬、かも」
犬飼くんは、絵が好きなんだよ。
そう付け足して、彼女は今日初めて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「理由って、それだけじゃだめかな?」
いいのだろうか。分からない。
一時の感情に左右されて自分がこの人を傷つけたことは事実だし、無償の愛なんてこの世には存在しないし、だから人は――僕は、全ての言動に理由をつけたかった。
『俺、字汚いし寝てばっかだけど、これからはなるべくちゃんとノート取るからさ。分かんないとこあったら聞いて』
『目の前に困った人がいたから助けたんです』
『損得勘定で生きるのは、苦しいからな』
裏の見えない善意は不安になる。純粋な親切が必ずしも正しいとは限らない。
好きだと思うこと、あるいは衝動に蓋をしないこと。
僕がもう一度それを認めるのは、過去のあやまちを繰り返すようなものなのではないだろうか。
「私、犬飼くんが私の絵を好きだって言ってくれて、嬉しかったよ」
逡巡している僕の気配を感じたのか、白先輩は唐突に告げた。
「誰かと比べて特別上手にできることとかないし、いつもみんなに合わせてばっかりだし……でも、犬飼くんが褒めてくれた時、少しだけ自信持てたんだ。私はもしかしたら、絵が得意なのかもしれないなって」
「白先輩は、もっと自信持つべきです」
思わず食い気味に口を挟んだ僕に、「ありがとう」と彼女が頬を緩める。
「そうやって、誰かのために好きって伝えられるんだもん。犬飼くんは、自分のこと、もっと好きになれるよ。絵だって、何だって」
あの日、彼女にしてしまったことは間違っていた。それでも、彼女に伝えた「好き」はきっと、何の躊躇いもなく濁りもなく、本物だった。
自分の中にも綺麗なままの感情はあって、一つずつ、丁寧に拾い上げたのは――
『私は、航先輩の絵を見たいです。どうしても、もう一度見たいんです』
何一つ、夢中になれたことなんてなかった。平坦で色褪せた僕の日常に、美波さんはたった一滴、透き通る水を落とした。彼女は初めて、僕越しに僕の絵だけを見て笑った。
夢中になりたいかもしれなかった。美波さんが必死に追いかける僕の絵を、僕は、もうおざなりにしない、したくないと、思っているのかもしれなかった。
そうだ。僕は嬉しかった。
白先輩が僕に褒められて嬉しかったと言ったように、僕だって、美波さんに褒められて嬉しかったのだ。
こんなに簡単なことを理解するのに、どれだけ時間がかかったのだろう。
「……もし、犬飼くんがまた美術部に戻ってきてくれたら、みんな喜ぶと思う。そのことだけは忘れないでね」
寄りかかっていた壁から背中を離し、白先輩は静かに歩き出した。
あの日、天使は死んだ。やっぱり誰しも、綺麗なだけではいられないと確信した。
それでも、いま僕に慈悲を与えた彼女は「綺麗」という以外、何と言い表せば良いのだろう。
遠ざかる背中を眺めながら、ゆっくり息を吐く。
今日、僕はようやく、自分のためだけに呼吸をしている、そんな気がした。




