愛おしそうに、苦しそうに2
白先輩本人に確認した。付き合っているというのはデマで、本当にただの噂だったらしい。
それなのに、彼女は相手の男の肩を持つばかりで、僕の忠告に全く耳を貸してくれなかった。あの男がどんなに汚らわしくて最低なのか力説しても、実際に傷つけられても。
ましてや、泣きながら僕に怒鳴ったのだ。
「どうしてそんなこと言うの……酷いよ。犬飼くん、何にも分かってない!」
ああ、そうだ、僕には分からなかった。白先輩がどうしてそこまであいつのことを庇うのか、到底理解できなかった。
でもそれは、至極簡単なことだったのだ。
「先輩には僕しかいないんです! お願いだから、僕だけを見て下さい……」
覚えている。放課後の美術室、白先輩と二人。
紛れもなく、「懇願」だった。あの日、計算も外聞も何もかも放り投げて彼女にぶつけた叫びは、ただの欲望でしかなかった。
僕以外の人のことを愛おしそうに、苦しそうに話しながら涙を流す白先輩に耐えきれず、ひたすらに喚いた。そして気付きたくないことに気付いていた。
『航には分からないかもしれないけどねえ、それが愛なのだよ』
母が父に持っていた感情。いま白先輩が持っている感情。きっと違わない。それは恋情という、自分自身でも制御の難しい熱だ。
そしてたった今、僕が彼女に対して抱いているこの感情だって。
「……犬飼くんが欲しいのは、私じゃない」
それまで弱々しく揺れていたはずの目の前の瞳が、不意に温度をなくした。掴んだ手がするりと離れていく。
「犬飼くんが欲しいのは、『綺麗で純粋な私』だよ。でもそれは私じゃない」
だから、ごめんね。
白先輩の静かな謝罪が落ちる。
この時、この瞬間、僕の天使は死んだ。あっさりと羽を折って、飛び降りてしまった。
呆然と彼女の顔を見つめる。
沈黙の中、荒々しい音を立てて突然開いたドアから入ってきたのは、白先輩の友人でもある美術部の先輩だった。
「はあ……良かった……」
間に合った、と零したその先輩は、膝に手をついて呼吸を整えている。それからすぐに姿勢を戻してこちらまで歩いてくると、彼女は机に一枚の紙を叩きつけ、鋭い視線で僕を射抜いた。
「ここですぐに書いて提出して。今なら部長に上手く言っておいてあげるから」
プリントに目を向ければ、そこには「退部届」と印字されている。じわじわと首を絞められているような、心臓が凍っていくような心地がした。
「……どうして鍵を」
鍵を、かけたはずなのに。白先輩が逃げ出してしまわないように、誰にも邪魔されないように。わざわざ部長に根回しして人払いまで済んでいたのに、どうして。
「先生に頼んでスペアキー借りたわよ。今日は美術室使えないって突然部長が言い出すから変だと思ったけど……犬飼くんの様子もおかしかったし、見に来て正解だった」
「僕がおかしい? 何を言ってるんです。僕はただ、白先輩を……」
「四の五の言わずに書きなさい!」
怒声が響き渡った。思わず口を噤んだ僕に、相手が言い募る。
「羊のこと好きでも何でもいいけど、泣かせてんじゃないわよ! 見て分かんないの? おかしいよ。あんたが何言ったって絶対におかしい。大事ならこんなに怯えた顔させないでしょう」
白先輩を振り返り――途端、ざっと血の気が引いた。
彼女の目からは次から次へと涙が溢れ出ている。それだけじゃない。表情は明らかに強張っていて、小さい体が微かに震えていた。
全身から伝わる、僕に対しての嫌悪と恐怖。
僕は、――僕は、彼女に何て言った?
『もう邪魔な虫は全て排除しましたよ。先輩に近付く邪な奴はいない。何を憂うことがあるんです?』
『先輩。他の奴らは全員、嘘しかつきませんよ。自分をよく見せるために、平気で嘘をつく。僕にしましょう? 信じていいのは僕だけです』
『先輩を穢すものは全て塵屑です。こんなに綺麗で尊い先輩を守るのは、当然の務めでしょう?』
日に日に怯えの色が増していった白先輩の瞳を、僕は確かに見ていたはずだった。その小さな変化さえも純真で、守りたいと思っていたはずだった。
彼女をここまで追い詰めてしまったのは僕で、ここまで怖がらせてしまったのも間違いなく、僕自身だ。
自分勝手な恋情で傷つけた。傷つけてしまった。
白先輩の涙が、あの日の母の涙と重なる。今の僕は、父親と何ら変わりない――そう気付いた時、気持ち悪くて吐き気がした。
「なに黙って突っ立ってるの。早く書いて」
咎められると同時、頬に痛みを感じる。どうやら引っ叩かれたらしい。
一気に沈んでいた思考から現実へ戻ってきた。力が抜けてしまい、僕はそのまま緩慢に床に座り込んだ。
「羊。出てていいよ」
「カナちゃん……」
友人の名を呼ぶ白先輩の声が震えている。
その声の主が美術室から出ていったのを目視すると、カナちゃん、と親し気な音で呼ばれていた西本先輩が浅く息を吐いた。
机の上に置き去りだったプリントを手に取り、彼女が僕の目の前でしゃがみ込む。
「……何であんたがそんな顔するかな」
渋い表情で呟き、西本先輩は自身のブレザーからボールペンを抜き出した。それをこちらへ向かって差し出してきたものの、僕が逡巡しているうちに、ため息をついて床に置いてしまう。
「最近、羊がずっと元気なかったの気付いてた?」
もちろん今なら即座に頷ける。だけれど、僕は今の今まで、それをきちんと理解できていなかった。まるで何かに取り憑かれたかのように、自分の意見を突き通すことで頭がいっぱいになっていたのだ。
「全部が全部、犬飼くんのせいってわけじゃないけど。まあ、その感じだと、反省してるってことでいいの?」
反省だなんて可愛いものではない。後悔に近い。
唇を噛んで、自身の腕をきつく掴む。ようやく一度首を縦に振った僕に、彼女は少しだけ表情を和らげた。
「急にしおらしくなるのやめてよ。……結構本気で叩いちゃったからさ、後でちゃんと冷やしなね」
ふと見た西本先輩の手の平が真っ赤で、叩く方も痛みを伴うのだと、当たり前のことを遅ればせながら思う。
「……すみませんでした」
自然と口から出た謝罪は、「それ、誰あて?」と指摘を受けた。
「羊に向けてだったら、伝言とかしてあげないからね。そういうのは、ちゃんと本人に顔つき合わせて言わないとだめ」
「……はい」
「でも、私はもう正直あんたを羊に会わせたくない。理性的に話せると思えない。今の犬飼くんだったら若干望みあるけど、また暴走しないとも限らないし」
正論を述べた西本先輩が、退部届に視線を落とす。
「私にやめさせる権限はないよ。さっきは私も焦ってたから強硬手段取ったけど、最終的に決めるのは犬飼くん自身」
その言葉を最後に、彼女は美術室を後にした。
大丈夫、大丈夫だよ、と廊下から西本先輩の宥めるような声が僅かに聞こえる。白先輩を落ち着かせるためだろう。
それを耳にした時、固く決めた。僕はもう絶対に関わるべきではないと感じた。せめてその線引きくらいは間違えたくなかったし、自分は父親とは違うと納得したかった。
後日、退部届を持って現れた僕に、部長は当然のごとく理由を尋ねてきた。
嘘をつくのも本当のことを言うのも苦くて、逃げるように帰ったのが、美術室での最後の記憶だ。




