愛おしそうに、苦しそうに1
綺麗なものは無条件に好きだった。それは宝石のように有形のものに対しても、感情のように無形のものに対しても言えることだ。
僕にとって綺麗なものは昔から「母」そのものだったし、汚いものは「父」と相場が決まっていて、今でも覆っていない。
「父さんは?」
小学生の頃は、まだ希望を持てていたと思う。
夕飯時を過ぎ、布団に潜る時間。帰ってこない父親の行方を、僕は毎日懲りずに問いかけていた。
そして母もまた、毎日懲りずに同じ返事を寄越す。
「航、もう遅いから早く寝なさい」
振り返った母の、目の下の隈。気丈に見せかけ苦々しく上がった口元。
それを見てしまうといつも何も言えなくなって、ただ頷くしかなかった。
どうして帰ってこないのか。そんなの、本当はずっと前から知っている。
父はもう母に興味はないし、もちろん僕のことなんて見向きもしない。その理由が他所に女をつくっているから――というのは、さすがに十歳になるまではいまいち理解できなかったけれど。
「どうして父さんと一緒にいるの?」
そう問いかけたのは、なんてことない、いつも通りの日のことだった。いや、その日は授業参観があって、少なからず羨ましかったのだ。友達の両親が。
「父さんは、母さんのこと……」
好きじゃないのに。
そこまで口走ろうとして、母の悲しげな微笑みが目に入る。誤魔化すように精一杯笑って見せた母が、僕の頭を撫でた。
「航には分からないかもしれないけどねえ、それが愛なのだよ」
「……愛?」
「いつかきっと、分かるようになるよ。でも、そうだねえ……」
頭の上に乗った手の動きが止まる。母の肩が、震えている。
「ちゃんと愛してあげられなくて、ごめんね……」
頬を伝って顎先で揺れる母の涙は、きらきらと光っていた。その表情は確かに悲しいと訴えているのに、いま説かれているのは「愛」だという。
悔しかった。苦しかった。でも、どうしようもなかった。
それからほどなくして両親は離婚したけれど、むしろ父には以後会えないと分かり切った方が気は楽だった。母が苦々しい笑顔を浮かべることも、歯切れ悪く僕の質問をかわすことも、もうない。
嫌いだ。父なんて、あいつなんて、大嫌いだ。
そう思い始めたのがいつだったか、そもそも思い込もうとしていたのか、今となっては曖昧だ。だけれど、父親を憎む以外に、僕は果たしてどうするのが正解だったのだろう。
***
「大丈夫?」
白先輩に出会ったのは、高校に入学してすぐのことだった。
人気のない放課後の廊下でうずくまる女子生徒は、恐らく体調が悪かったのだろう。白先輩は酷く心配そうにその背中をさすりながら、懸命に声をかけ続けていた。
僕がそこに通りかかったのは、本当に偶然だ。
どこか痛いの? 気分が悪い? と、あたふた質問する彼女の姿を数秒黙って見つめていたところで、白先輩の視線がふとこちらを捉える。
「あっ……ごめん、そこの君!」
はっきりとした口調だったけれど、少し弱気な声だなと思った。真っ直ぐで人の良さそうな雰囲気が滲み出ている。
彼女はそのまま切羽詰まった様子で、僕に向かって告げた。
「お願い! 今すぐ保健の先生呼んできてもらえないかな……?」
瞬間、心臓をぐっと圧迫されたかのような感覚に襲われて、息が詰まる。
お願い――彼女は今、確かにそう言った。僕に乞うた。自分のためではなく他人のために、こうも躊躇なく主導権をこちらに渡すのか。
計算尽くで無感動に、媚びて這って掌握してきた人間関係。僕のそれは、彼女の綺麗さの前では実に滑稽で陳腐な代物だった。
「はい。分かりました」
頷いて踵を返す。
綺麗なものは無条件に好きだった。信じきるに相応しいから。嫌いなあいつから、最も遠いところにあるから。絶対に僕を裏切らない、揺るぎないものが欲しかったから。
純粋な興味だ。僕は白先輩を追いかけて美術部に入り、彼女にたくさん話しかけた。
何を考えて行動しているのか、どう感じてどう伝えるのか。白先輩はどういうフィルターをもって世界と接しているのか、知りたかった。
彼女にも僕と同等に穢い部分があるのではないかと、少しだけ期待していたのかもしれない。つつけばどこかでぼろが出る。なのに――
綺麗、という第一印象は、いくら話しても崩れなかった。
誰にでも優しくて平等で、まるで女神のような人。
外見のことを言っているわけじゃない。白先輩より美人だとか可愛いだとか褒めそやされている女子は、腐るほどいた。
違うのだ。白先輩は、そういう次元とは全く違う。
ゆっくり毛布で包んでくれるような、柔らかい温かさだ。誰かのために平気で自分を犠牲にできるような、高尚な人だ。
正直、美術なんてどうでも良かった。白先輩が吹奏楽部だったらそこに入っていただろうし、テニス部だったら僕も同じくラケットを握っただろう。
何の感慨もなく描いた僕の絵を、周りは褒めちぎった。別に嬉しくも何ともなかった。
「アドバイスなら部長に貰った方がいいよ」
白先輩と話す口実が欲しくて、僕はいつも彼女に「アドバイスを下さい」とくっついて回った。
その度に、白先輩は決まってそう返してくる。
「僕、白先輩の絵が好きなんです」
それ以外、適切な表現が思い浮かばない。好き、と口に出してから、むず痒くて体がじんわりと熱くなる。
特別上手いとか下手とか、技術的な観点ではなく、彼女の描く絵は、とても綺麗に見えて仕方がなかった。
清廉で純粋。感情の波が穏やかで、この人には欲があるんだろうかと不思議に思う。――だから、
「白さん、カミヤくんと付き合ってるらしいよ」
そんな噂を耳にした時、頭を殴られたような衝撃を受けた。
カミヤ、というのは当時、白先輩と同じクラスだった男子生徒だ。素行が悪いと有名で、女子をとっかえひっかえして遊んでいるという話も聞いた。
そう、まさに、父親のような男だった。
やっぱり、どこにだってクズはいる。
ガラスは割られるのがセオリーだし、ドミノは倒すまでがゴール。綺麗なものは、汚さずにいられない。
僕の両親はそうやってバラバラになった。母を守るのは、綺麗なものを綺麗なまま守るのは、僕の務めであり義務だ。
「――白先輩を穢す奴は、例え誰であろうと許さない」




