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純粋で無垢な光3

 


 パンフレットが一枚、床に舞い落ちる。

 僕の足元に滑って着地したそれを拾い上げ、今のやんちゃ集団の中の誰かのものだろうか、とすぐに見当はついた。


 追いかける気力はなかったので、一番後ろにいる車椅子の少年に声をかけることにする。



「ねえ、君」



 僕の呼びかけに、振り返る背中はなかった。聞こえなかったんだろうか、あるいは「君」だと抽象的すぎたかもしれない。



「ねえ。そこの、茶色の服着た君」



 そう丁寧に言い直し、僅かに声のボリュームを上げる。

 仕方なく追いかけ、なおも振り返らない彼の肩に手をかけると、少年の瞳が僕を捉えた。



「え、おれ?」



 戸惑いの色が拭えない彼の様子に、こちらも面食らう。

 すると、先を走っていた少年たちのうち、一人が口を開いた。



「おにーさん、ナオトが着てるの、それ茶色じゃなくて赤ですけどー!」



 元気な声だった。それこそ、会場中に響き渡ったんじゃないかと思うくらい、純粋無垢で何の他意もない言葉だった。


 だからこそ、僕もすんなりと言えてしまったのかもしれない。



「ああ、ごめん。僕、色がちゃんと見えないから」



 平然と告げた自分の声に、自分で驚いた。

 酸素を吸って二酸化炭素を吐く、それと同等なまでの当然さを含んで、僕は自らの弱みをさらけ出していた。否、僕にとってこの事実は呼吸をするのと同じだ。生まれてからずっと、これが当たり前なのだ。


 それを隠し通そうとするのは、自然の摂理に逆らっている。だから今までずっと、どこかで嚙み合わない歯車が生じていたのだろう。


 僕の発言に、少年たちの表情が曇ったのが分かった。



「タ、タイガ、おまえ、謝った方がいいよ」



 弱々しい語調で真っ先に訴えたのは、猫背の少年だ。

 タイガ、と呼ばれた彼は、いかにも気が強そうで、この集団のリーダーといったところだろう。



「はぁ? 何で? おれ、ほんとのこと言っただけだし!」


「でも……」



 空気が険悪になり始めそうなところで、僕は「いいよ」と彼らの会話を遮った。



「別に謝らなくていい。君の言う通り、君は事実を言っただけだ」


「え……」


「自分が悪いと思っていないのに謝る必要はない」



 それは、今日最初に出くわした少女にも投げかけたはずの主張だった。ぴょこぴょこと跳ねるツインテールの毛先を思い起こしていた時、まさにその声の主が現れる。



「ちょっと、タイガくん! わたるお兄ちゃんに何してるの!」



 背後から元気いっぱいの叱り声が飛んできたかと思えば、少年たちは「げっ、ユイだぁ」と顔をしかめた。まるで口うるさい母親に見つかったかのような仕草である。



「タイガ、おまえ、ユイとけんか中じゃなかった?」


「戦争だよ、まじでユイ、怒ったらこえーもん」


「ぶはは。ふーふ漫才ってやつじゃないの?」


「それ言うなら、めおと漫才でしょ」


「めおとってなに?」


「だからー、結婚ってこと!」


「はあ!? おれとユイがそんなわけないし!」



 一気に騒がしくなった彼らの真ん前で、ユイという名の母が腕を組んだ。



「ユイ、聞いてたんだからね。ちゃんと謝りなよ、わたるお兄ちゃんに!」


「はぁあ? ユイには関係ねーだろ! このにーちゃんだって謝んなくていいって言ったし! てか、ユイ、何でこのにーちゃんのこと知ってんの」


「関係あるもん。わたるお兄ちゃんに、タイガくんとけんかしたって言ったもん。ユイ、絶対絶対謝んない! タイガくんが謝るまで、許さないから!」



 タイガが僕を振り向く。どこかやさぐれたような、それでいて不安げな彼の顔つきに、我慢できず眉根を寄せてしまった。……小学生のロマンスに巻き込まれるのは御免だ。



「謝りたくないなら、謝らなくていいんじゃない」



 今一度そう繰り返した僕に、タイガは分かりやすくばつの悪そうな顔をして、それから。



「…………ごめん」


「え? なに?」


「だから! ごめんって!」



 むっとしたままの頬も鑑みると、及第点、といったところだろうか。

 タイガの吠えるような謝罪に、ユイは頷いて右手を差し出した。



「いいよ。仲直り、しよ」


「……ん」



 彼らが手を結んだ途端、ひゅー! と冷やかす音が聞こえ、夫婦――といったら怒られるかもしれない――が野次馬を追いかける。


 結局しっかり巻き込まれただけだった、とため息をついて立ち去ろうとした時、袖を引かれた。



「あの、」



 振り返り、合わない視線。随分と下から見上げてくる彼は、車椅子の少年だった。



「さっき、おれのこと服の色で呼んでくれて、ありがとうございました」



 予想外の感謝に、返す言葉を失う。黙り込む僕に構わず、彼は笑った。



「大体の人は、おれのこと、『車椅子の』って言うから」



 ああ、そうだ。彼を呼び止める時、僕だってそう口走りそうになった。何のためらいもなく、服の色で呼ぶことを選べたわけじゃない。きっと美波さんなら、一切の迷いなく選べたのだろう。人を傷つけない言葉を。



「おーい、ナオト! 行くぞー!」



 奥からの呼びかけに、彼が「分かったー!」と声を張る。



「じゃあ、ありがとうございました」



 礼儀正しく頭を下げた少年の腕が、車輪を回す。


 遠ざかっていく背中を眺めていたら、唐突にガシリと頭を掴まれた。そのまま髪を掻き乱され、慌てて払う。



「……何だよ」



 僕の睨みに物怖じしない相手は、案の定一個上の「先輩」で、彼はなぜか上機嫌だった。



「いーや? なんつうかまあ、お前が子供に好かれる理由分かったかもしんないわ」


「好かれてない」


「素直すぎるからじゃねえかな、多分」



 聞いてんのかよ、人の話。

 鬱陶しい、という念を込めて精一杯白けた視線を送るも、彼はどこ吹く風である。



「わたるお兄ちゃんか~、ウケるな」


「は?」


「お前、全然兄ちゃんってキャラじゃないのに」


「シスコンのあんたに言われたくないんだけど」



 僕が反抗した瞬間、彼は散々撫でまわしていた僕の頭から手を離した。



「あんたじゃなくて、純、な」



 お前には特別に呼び捨て許可してやるよ、と頬を緩めた彼が、いつかの彼女と重なる。



『あんた、じゃないですよ。私は、美波清です』


「……ほんと、兄妹そっくりだわ」



 どんなに疎み合っても、笑い合っても、繋がっていくもの。だからといって必ずしも明るい未来が保証されているわけではなくて、いま明るく見えるのは、彼らが時間をかけて築いた光だ。


 何だよそれ、と嬉しそうに笑う彼は、本当にシスコンだと思う。



「お、帰ってきたんじゃねえの」



 純の向ける視線の先には、美波さんの姿があった。

 強張った表情で歩いてくる彼女に、違和感を覚える。


 美波さんの後ろに続いて、こちらへ近づいてくる人影が二つ。その人物の顔を認識した刹那――絶句した。



「一緒にいるのって、清の友達か?」



 すぐそばで聞こえる質問にも、反応する余裕はなかった。


 全身から血の気が引く。指先が震えて、強く拳を握る。

 逃げたい、逃げ出してしまいたい。確かにそう思うのに、両足は根が生えたように地面から離れなかった。


 視線すら逸らせないまま、彼女(・・)が僕の目の前で立ち止まる。伏せっていた真ん丸の瞳がゆっくりと僕を映して、遠慮がちに、心許なく揺れた。



「犬飼くん。久しぶり、だね」



 柔らかく紡がれた僕の名前に、嫌悪の色は見当たらない。それにひどく安心して、同じくらい動揺していた。



「……(つくも)先輩、どうして」



 どうして、彼女がここにいるのだろう。

 もう二度と顔を合わせないのだと思っていた。否、合わせるべきではないと、思っていた。


 気弱な先輩が眉尻を下げる。何一つ変わっていない。素朴で優しい表情をたたえて、彼女は告げた。



「犬飼くんに、会いに来たよ」



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