純粋で無垢な光2
今日のイベントでは、まず最初に合唱サークルの演奏が披露されることになっている。
曲目は「Believe」。小学生の時に大体の人が、一度と言わず三度は歌う曲だ。
「今日のために、みんなでいっぱい練習しました。歌と一緒に、手話にも注目して聴いて下さると嬉しいです」
緊張しているのか、やや硬い表情で挨拶をした少年が頭を下げる。
指揮者が壇上に登り手を振り上げれば、ピアノの前奏が場内に流れ始めた。
聞き慣れた音の並びとメロディー。けれども彼らは必死に手を動かして、口だけではなく体で歌っていた。
目一杯大きく動いている少女がいれば、自信なさげに腕や指を動かしている少年もいる。
ふと隣の気配が揺れたような気がして視線をずらすと、美波さんが自身の胸の前で小さく手を動かしていた。それが目の前の少年少女と同じ動きだというのを、すぐに理解する。
彼女の横顔はその時、随分と大人びて見えた。
「手話、分かるんだ」
演奏が終わった後、そう聞いた僕に、美波さんがはにかむ。
「見てたんですか? こっそりやってたのに」
「別に堂々とやればいいんじゃない」
「小学生の時に授業でこの曲の手話だけ習ったんです。普通の会話とかはできないですよ。あ、自己紹介ならできます」
張りきった様子で声を弾ませ、彼女は僕に向き直った。
「私は、み、な、み、さ、や、か、です」
一文字ずつ手の形を変えて、紡がれる名前。よどみなくすんなりとできてしまうあたり、小学生の時に習ったきりではなく、幾度か使う機会があったのだろう。
「五十音ぜんぶ頑張って覚えたんですよね~。航先輩の名前も分かりますよ! ええと、」
わ、た、る。
呟きながら、美波さんが僕の三音を手で表す。
「もう一回やって」
「えー……と、……わ、た、る」
「僕のじゃなくて」
「はい?」
首を捻る彼女に、「君の名前」と急かした。自分の名前を繰り返されるのは何となくむず痒かったからだ。一音一音、大切なものみたいに発音しないで欲しい。
彼女のことを、時折高校生に化けた小学生なんじゃないかと思う節がある。それくらい残酷で無垢な光を伴って、美波さんは生きているような気がするのだ。
「み、な、み、さ、や、か、です。覚えました?」
「……六つは多いから、最後の三つだけにして」
「最後の三つって、」
僕の放った言葉をなぞり、彼女が分かりやすく表情を明るくする。
それを直視する気力はなくて、視線を逸らした。
「えへへ、分かりました。さ、や、か、です! 覚えて下さいね」
みなみ、の方が覚える形は二つで済むのに、後半三つを選んだのは、彼女を表す音として「清」が何よりも相応しいと認めざるを得なかったせいだ。
躊躇なく口に出して呼ぶ勇気は、まだなかった。
何度か彼女の手の動きを観察していると、背後から「おい」と声が掛かる。
「いつまでじゃれてんだ。もう開場してんだからな」
「ちょっと話してただけじゃん、お兄ちゃんのケチ~」
言い合う兄妹を漠然と眺め、小さく息を吐く。
そんな僕に、美波さんはあっさりと告げた。
「じゃあ、私はちょっと離脱するので! お兄ちゃん、航先輩、よろしくお願いします」
は、と気の抜けた音が自分の口から漏れる。
そんなことは今の今まで一ミリも聞いていない。僕を誘っておいて、一体どこへ行こうというのか。
引き留めようにも、彼女は最初から予定していたかのようなスムーズさで踵を返した。
彼女の兄も別段咎めるわけでもなく、その背中を見送っている。妹の後ろ姿から僕へと視線を移した彼と、目が合った。
先に逸らすのも負けな気がするし、かといってこのままでいるのも気まずい。大体、彼と二人きりにされて何を話せばいいのかも皆目見当がつかないのだ。
「……悪いな」
沈黙を破ったのは向こうだった。
何について謝られたのか分からず言葉に詰まっていると、彼が続ける。
「今日、どうしてもお前をここに連れて来たいって清が言ってたんだよ。理由は聞いても教えてもらえなかったけど」
それは少々意外だ。
これまでの経緯がどうであれ、美波さんと彼は良好な関係を築いている。何でも喋り合う仲なのだろうと思っていたけれど、今回は例外らしい。
「俺の頼み、聞いてくれてありがとな」
『清の傍にいてやってくれないか』
まだ一か月も経っていないのに、随分と遠い日の記憶のように感じる。だけれど、彼の「頼み」を忘れてはいなかった。
「別に、あんたに言われたからそうしてるわけじゃない」
嘘でも見栄でもなく、本音だ。彼に頼まれたからその通り従っている、という単純なことではなくて、もっと複雑な結論である。
美波さんの押しが強いから、というのも一つの理由だし、彼女が僕の絵を求めているから、というのもまた一つ。それでも、結局突き放さなかったのは、僕自身が美波さんの描く絵に興味を持ってしまっているからかもしれない。
「そうか」
相手の望んでいる回答を寄越したつもりはないのに、彼はどことなく納得した顔つきだった。それが少し気に食わなくて、意図せず唇を噛む。
「メリットはあったか?」
俯いた僕に、彼が問う。
『それをして、僕に何のメリットがあるんだよ』
あの日、そう文句を垂れた。
美波さんといることに、何かメリットを見つけた――だから彼女といることを選んだ。と、彼は思っているのだろう。僕の発言を踏まえれば、そう考えるのは当然というべきか。
『理由なんていちいち考えます?』
『メリットがあるから行動を起こすんだよ』
彼女との会話を脳内で反芻する。
人の考えなんてそう簡単には変わらない。僕が以前彼女に告げた意見も、未だに自分の中で息をしている。
頭では十二分に理解しているはずだった。だけれど、だったら、僕の行動はどういう理由付けをすればいいのだろう。
彼女を怒鳴った廊下。紙切れに書かれた住所を辿ってしまった休日。咄嗟にさらった赤のクレヨン。
ともすれば全部デメリットしかなかったんじゃないのか。あれはどう言葉を尽くしたって、「衝動」という二文字以外の何物でもなかった。
「……メリットは、ない」
以前彼が僕に告げたのと、一語一句違わぬ文字列が口から漏れる。
「もうどうでもいい。そもそも、メリットなんて期待する方が馬鹿だった」
この兄妹に僕の価値観なんて通じないのだ。彼らも彼らで、平然と僕に自らの価値観を押し付けてくる。
どちらが正しいか白黒つけようとすることは、本当に無駄で不毛だ。馬鹿馬鹿しい。どちらも正しくないし、間違ってもいないのだから。
何を信じたいか、信じようとするか、の違いである。
「ああ、それでいいよ。お前はそれでいい」
赤子をあやすような口調で、彼が言う。
「損得勘定で生きるのは、苦しいからな」
なぜ、と聞き返すには、あまりにも確信に満ちた感想だった。
彼の表情は苦笑ともとれるし、泣き顔ともとれる。もちろん、涙なんて一滴も零れていなかったけれど。
返答に困るのは何度目だろうか。彼と話しているときは、常に困っているような気もする。
そういえば、美波さんはどこへ何をしに行ったのか、と質問を投げようとした時だった。
「うははっ、待て待て、待てってー!」
ばたばたと大きな足音を立て、目の前を通過していく男子小学生が数名。それに続いたのは、きっと彼らと同じ年代であろう一人の車椅子の少年だった。




