純粋で無垢な光1
「あ! さやかちゃんと、じゅんくんだ!」
こちらに駆け寄ってきた少女が、嬉しそうに顔を綻ばせる。
視線を合わせるようにしゃがみ込んだ美波さんは、いつも以上に柔らかい声で受け答えた。
「ユイちゃん、こんにちはー。お母さんと来たの?」
「そうだよ!」
と、兄妹の後ろにいる僕に気が付いた少女が、途端に目を見開く。
「あ、お兄ちゃんも、こんにちは!」
『お兄ちゃん、ユイと友達になってくれる?』
髪を二つにくくった女の子。スイミーの絵を描いて、友達に変だと言われた女の子。
わざわざ小指を結んで約束までしてしまった日のことを、よく覚えている。
「あのね、ユイね、学校でみんなに言ったの。変って言われるのやだって、ちゃんと言ったよ。そしたらね、アユミちゃんとカヨちゃんはごめんねって謝ってくれたけど、タイガくんは『だって変じゃん』って言うの! だから、ユイ、怒ったよ。でね、けんかしちゃった」
幼くて拙い言葉で、目の前の少女は懸命に伝えようとしていた。焦ったように次の言葉を探して口を動かし、手をきつく握りしめている。
「うん」
美波さんの隣にしゃがみ込み、僕はゆったりと相槌を打った。
話を聞こうとしている意思を受け取って安堵したのか、小さな肩から力が抜ける。
「先生にも、お母さんにも、謝って仲直りしなさいって言われちゃった。ユイ、謝らなきゃだめ?」
怒っていい、と助言した僕に報告しに来ただけかと思っていたけれど、どうやら更なる助言を求めているようだ。少し不安げにこちらを窺っている。
僕より先に口を開いたのは美波さんだった。
「うーん、そうだねえ……お互いにごめんなさいって言って、仲直りした方が……」
「謝らなくていい」
彼女の意見を投げ捨て、僕はそう言い切った。
「君は何も悪くない。悪いことはしてない。だから、相手が謝ってくるのを待てばいい」
「わ、航先輩……」
美波さんのやや慌てた声が聞こえたけれど、発言を撤回する気はなかった。
大体、自分が悪いと思ってもいないのに謝罪をするなんて、それこそ意味のない行為だと思う。
「もー、それは航先輩の持論じゃないですか! ユイちゃんは小学生なんですから、きちんと道徳的なことを……」
「お兄ちゃん、わたるっていうの?」
ぱちくりと目を瞬かせた少女の、あどけない問いが落ちる。
そうだけど、と返した僕に、相手は満足そうだった。
「わたるお兄ちゃん、ありがとう!」
「え、ユイちゃん……!」
踵を返したツインテールが、用は済んだとばかりに去っていく。
それを数秒黙って見送っていると、「もう!」と隣から声が上がった。
「どうするんですか、今後のユイちゃんの人格形成に影響を与えたら!」
「そんなの僕には関係ないんだけど」
「大ありですよ! 既に専属アドバイザーじゃないですか!」
勝手にそんなものに任命されては困る。眉根を寄せた僕に、負けじと美波さんも頬を膨らませていた。
「とりあえず、お前ら二人とも立て。時間ねーんだから、とっとと行くぞ」
頭上から降ってきたのは、美波さんの兄の声だ。
彼の呼びかけに立ち上がり、小さく息を吐く。
みどりのつどい、と表記されたチラシが貼ってある入口を抜け、会場に入った。
『今週末、福祉イベントがあるんです。それに「なないろ」もサークル単位で参加することになったんですけど、人手が足りなくて。航先輩、ついてきてもらえませんか?』
事の発端は美波さんのそんな発言だ。
土曜日曜の二日間にわたって開催されるらしいそのイベントは、街中の市民センターが舞台だった。
ものづくり体験やちょっとしたゲームの他、実際に車椅子に乗ったり点字の本を読んだり、そういう体験ができるという。絵画展示という形で「なないろ」は参加するそうだ。
開場前に訪れたのは、準備のためである。
とはいえ、それぞれの団体の持ち場の準備だけであって、そもそもの会場設営は既に完了した後のようだった。
折れ曲がることのないようにここまで持ち運んできた絵を、美波さんが取り出す。
「はい、これ」
躊躇なく差し出されたそれを条件反射的に受け取ってしまってから、彼女を見やった。
「え?」
「私、画鋲を渡すので、航先輩が貼ってくれませんか?」
「何で僕が……」
「だって私じゃ一番上まで届かないんですもん」
威張るように主張されても。誇ることでも何でもないのに、なぜそんなに自信たっぷりなのか。
年長者である彼女の兄に視線を送ったけれど、素知らぬ顔で無視された。仕方ないので引き受けることにする。
特にテーマは決めず、自由に描かれたものがほとんどだった。
構成員の七割が小学生である「なないろ」の絵画コーナーは、伸び伸びとしていて少々眩しい。
「……美波さんは?」
全ての画用紙を貼り終えて一息つきがてら、質問を投げる。
僕の意図をはかりかねてか、彼女は首を捻った。
「何がですか?」
「美波さんの絵はないの?」
小学生の絵は何となく分かる。恐れも何もない力強さが随所に滲んでいるからだ。ルールに捕らわれない、否、知らないのだろう。
中学生になると周りと自分の差異を気にし始めて、落ち着いた線やタッチが増える。
一つひとつの絵を観察しながら貼っていたけれど、彼女の絵は見当たらなかった。
「どうして……分かったんですか」
やや細い声だった。彼女の瞳は大きく見開かれていて、純粋な驚きが読み取れる。
「いつもスケッチに付き合ってるんだから、分かるでしょ。美波さんの描く線の流れくらい覚えてる」
彼女とのスケッチ特訓も、もう十回を数えた。まだまだ観察力は足りないにしろ、最近だと初歩的な指摘は少なく済むようになってきたところだ。
とにかく彼女は線を紡ぐのが遅くて、それは逆に丁寧であるともいう。勢いで描く、感覚で描く、といったことは絶対にしないくせに、彼女のスケッチは全く写実的ではなかった。それなのに、なぜか納得できてしまう。
彼女は僕とは違う特別なフィルターを持っていて、それを通して僕らの知らない対象物の本当の姿を、鉛筆一本から生み出しているかのごとく。整然と、そうなるのが当たり前のように、水が流れるように描くのだ。
このギャラリーの中に、水は流れていない。
美波さんは呆然と僕の顔を見つめていた。彼女の目が光を取り込んで揺れている。
「……あは、びっくりしました。まさか航先輩がそんなこと言うなんて」
目尻が親しげに歪む。に、と口角を上げて、彼女が自身の頭を叩いた。
「いやぁ、実は美術部の方のアクリル画制作でいっぱいいっぱいなんですよね! 本当は私も今日のために何か描きたかったんですけど」
最近スケッチばかりで忘れかけていたけれど、そもそも彼女からは「絵をみて欲しい」と依頼されてからが始まりなのだった。
ああ、そういうこと、と適当に返して、僕は言い募る。
「そろそろ題材決めて下書き始めないとまずいんじゃないの。特に美波さんの場合、作業時間が人の倍はかかりそうだから」
「あ、それに関してはご心配なく! 実はもう何を描こうか決めてあるんです」
「……へえ」
意外だった。あれもいい、これもいい、などと言って延々と悩んでいそうな印象を勝手に抱いていたからだ。
確かに思い返せば、彼女はアイスの味を選ぶのも服を決めるのも、さほど時間をかけていなかった。決断は早い方らしい。
安心して下さい、と前置きした美波さんは、続けて述べた。
「その絵を描き終えたら、もう航先輩の邪魔はしませんよ」
周囲の話し声が大きくなる。否、彼女との間に沈黙が落ちたのだと、すぐに気が付いた。
絵を描き終えるまで。彼女と僕は、そういう刹那的な契約を交わした。むしろそれを望んだのは僕の方である。
この短期間で様々なことがあったとはいえ、忘れかけていた自分に驚いた。夏も秋も、その先の冬も――彼女なら「紅葉狩り行きませんか? まあ私たち、赤い葉っぱ全然見えませんけど!」と宣うところまで容易に想像できてしまう。
「……そうだったね」
本来はそのはずなのだ。自分に言い聞かせるように、彼女の言葉に頷く。
「何の絵を書くの?」
彼女の真っ直ぐな視線に怯えている。本心を覗かれているような気がしてしまう。そんなわけはないのに。
自分から投げた問いは止まった空気を誤魔化しているようで、そのことに少し歯痒さを覚えた。
「ふふ。秘密です」
「は?」
「航先輩には一番に見てもらいたいので、待ってて下さいね!」
悪戯っぽく唇の前で人差し指を立てた美波さんは、「もうそろそろ開場ですよ」と話を畳んでしまった。




