依然として青い3
それから、彼女と過ごす時間が圧倒的に増えた。
美術部は水曜日、「なないろ」は土曜日。両方に所属している美波さんは、週に二日、その活動に当てている。
学校がある日は、必ずと言っていいほど僕を連れてスケッチの練習へ赴く。つまり週に四日は彼女と顔を合わせている状態だ。
「だから、この程度でいいやじゃなくて、ちゃんと対象を観察しろって言ってるんだけど」
「やってますよ! 私なりに真面目に!」
「いや足りない。全っ然分かってない。いいから、ちょっと貸して」
む、と頬を膨らませた美波さんが、渋々といった様子で僕にスケッチブックと鉛筆を手渡してくる。
彼女のスケッチの隣。空いたスペースに鉛筆の先を滑らせた。
ピンク、だろうか。大きめの花びらが沢山ついた、ボリュームのある一輪花。近くに咲いているこの花を、彼女は描こうとしているようだ。
「カーネーション、可愛いですよね。私、一番好きかもしれないです」
黙々と作業を進める僕を横目に、彼女が呟く。
「あ、そういえばこないだ母の日でしたけど、航先輩は何かしました? 私はそれこそ、カーネーションを渡したんです」
母の日――ああ、そんなものもあったな、という感覚だった。確かにCMでは盛んにチョコレートやカレーを勧められていたような気がする。
「いや……別に、何も」
「ええっ、そうなんですか? でも来月は父の日ですし、名誉挽回のチャンスですよ!」
悪くない。彼女に悪気はない。
一度大きく息を吐く。
「……父親、いないから」
わざわざ言うほどのことでもなかったはずだ。彼女にそれを話したところで、この場の空気を乱すだけだろう。
案の定、僕が告げた途端、彼女との間に沈黙が落ちた。
どこかで鳥がさえずっている。葉と葉がぶつかって揺れる音も聞こえる。誤魔化すように、僕も鉛筆を動かした。
「はい」
出来上がったスケッチを、彼女に受け渡す。
美波さんの目が僅かに左右に振れて、それから遠慮がちに口を開いた。
「……綺麗です。航先輩の、カーネーション」
「まあ君よりはね」
「あの、」
「別にいいよ。いなくなったのはだいぶ前だから」
何となく、彼女に気を遣われるのは嫌だった。
妙な空気感が壁となって、縮まらない距離になる。それを放っておけば何重にもなり、きっと元には戻れない。
だから今、脆いうちに壊しておこうと思った。
「僕は父親のことが嫌いだし、悲しくも何ともない。あんまりいい思い出もないし」
本当のことだ。そもそもあいつとの記憶なんてさほど多くない。むしろ、もう顔を合わせなくて済むとせいせいした。
ただ、この目だけは。あいつの遺伝子を受け継いで、正しい色が分からなくなったこの目は、永遠に僕からあいつの気配を忘れさせてはくれない。
「……君には悪いけど、僕は色覚異常を特別だなんて思わない。忌々しいよ。捨てられるなら捨てたいし、替えられるなら替えたい」
あいつのせいで、僕の世界はくすんでいる。汚れている。
現実を知る度に、自分の中にはあの男の血が流れているのだと実感して吐き気がする。
「あいつさえいなければ、僕は――」
「私の父、色盲なんです」
特別強い声ではなかった。それでも明確に僕の言葉を遮った彼女が、前を向いたまま続ける。
「私は父の色盲を受け継ぎました。お兄ちゃんは……兄は全然何ともないのに、どうして私だけなんだろうって、ずっと、本当は兄のこと、好きになれなくて」
懐っこく兄を呼んでいた彼女の声を思い出す。
心の奥底にしまわれた、淀みや穢れ。誰にでもある感情。あるはずの感情。彼女のような人間にはないのだろうと――僕が勝手に、決めつけていた感情。
「兄のことも、父のことも嫌いになってしまいそうでした。でもちゃんと知識をつけて分かったんです。父親だけが色覚異常の場合、子供にそれが現れることはないって」
彼女の発言に、息が詰まる。
どういうことだ。彼女の母親もまた色覚異常だったということか?
いや、僕の母は至って正常な色覚の持ち主であるはずだ。じゃあ彼女が言っているのは、一体。
「保因者って、聞いたことありますか。原因となる遺伝子を持っていながら、発症していない人のことです。私の母はそれだったんです」
日本人女性の十人に一人はいるという。
そして保因者の女性と、色覚異常の男性。両者の間にできた子供は、50%の確率で色覚異常となる。
「母が保因者でないと、私がこうなるはずはなかった。……だから、父だけを恨むことはできません。私は、誰のことも嫌いになりたくありません」
航先輩、と。彼女が僕の名前を口にする。
「あなたの目は、あなたのものです。親の遺伝子を引き継いでいるのはもちろんですけど……でも、この心臓が私だけを動かしているように、この目だって、私のためだけにありますから」
僕のためだけにある目。彼女の言うことが本当なら、僕の目は心臓かもしれない。
今この瞬間も、僕を生かすために瞬きを繰り返している。何度瞬きをしたって景色は変わらないけれど、空だけは依然として青いままだ。
この場で僕と彼女が唯一、きっと同じように見えているもの。
「空が、青いですね」
彼女の音が穏やかに落ちる。
雲の流れを辿っていた視線をゆっくりと戻せば、彼女が僕につられるようにして空を見上げていた。
「私たちの見ている世界って、……視界って、キャンバスみたいだなって思いませんか」
唐突に問いかけられても意味が分からなかった。
僕が答えを迷っている間に、美波さんは次の言葉を紡ぐ。
「航先輩の絵を見た時、未完成だったキャンバスに絵の具が広がっていくような感じがして……私の目は、全然途中だったんだって思いました。これで終わりじゃない。これからいくらでも描き足していけるんだって」
彼女はやっぱり、よく分からないたとえをする。まるで自分の目が芸術作品であるかのように、自分が芸術家であるかのように。
治らない。治らないのだ。先天性のものは、この先一生治ることはない。死ぬまで抱えていくしかない。
「みんなが見ているのは、元から全部の絵の具が揃った虹色のキャンバスかもしれないですけど、私だって、誰だって自分のキャンバスを持っているから……それがある限り、何度でも描き直せる。だって、私は見えたんです。航先輩の絵が、色が」
彼女が嘘を言っているようには見えないにせよ、理解できるかどうかはまた別の話であった。
僕の絵を見た瞬間、色覚を取り戻したとでも言うのだろうか。あり得るはずはないし、そんな話を聞いたこともない。
「航先輩が美術部をやめたのは、目のせい……ですか?」
もしそうだと言ったら、彼女はどうするのだろう。もしそうだったとしたら、どれ程ましだっただろう。
『見て分かんないの? おかしいよ。あんたが何言ったって絶対におかしい』
僕はもう、戻らない。戻るべきではないし、戻る資格もないのだ。
この世界が汚れているわけでも、僕の見ている世界が汚れているわけでもない。本当に汚れているのは、僕自身だ。
そんなことは分かっている。分かっていながら、ひたすらに抗った。深い泥沼の底で、絶対に自分では手に入れられない綺麗さを求めていた。
清く正しく生きること。僕にはできないこと。
強く焦がれて、妄信して――最後には、全て壊した。
「……違うよ」
彼女の追及から逃れるようにして立ち上がる。
怖いと思った。彼女に知られるのが、知られてしまうのが。それによってどんな顔をされるのかも分からなかった。
彼女は、――美波さんは、きっと綺麗な人間であるだろうから。




