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依然として青い1

 


 天気は変わらない。今日は一日中晴れだろう。


 福祉センターの向かいには、申し訳程度の遊具が設置された公園があった。それでも連休というだけあってか、親子連れで賑わっている。


 帰る、とだけ伝えて部屋を出た僕を追いかけてきたのは、美波さんだった。

 少し話がしたいという彼女の要望に、二人で公園のベンチに腰を下ろす。



「ごめんなさい」



 彼女の第一声は謝罪だった。それに答えないままでいると、美波さんが続けて話し出す。



「不快な思いをさせてしまいましたよね。デリケートな問題なのに、軽率でした」



 確かに、誰が聞いているかも分からない教室の入り口であの話をされたのは、未だに根に持っている。けれども彼女の境遇を知ってしまった今、一方的に怒りをぶつけるのも違うような気がしていた。


 この瞬間、僕が抱いている感情こそが「同情」なのではないかと、苦い発見が脳裏をよぎる。



「……こんなこと言ったら怒られるかもしれないですけど、私、ちょっと嬉しかったんです。航先輩は絶対に手の内を明かしてくれないじゃないですか。でもあの時は、本当に少しだけ、航先輩に近づけた気がしたので」



 いわゆる親近感。それは僕の方だって、感じなかったと言えば嘘になる。

 純粋に共通点を見つけたからなのか、やはり同情からのものなのかは、はっきりと決めきれない。ただ、傷の舐め合いをする気は毛頭なかった。



「君は自分のことを障害者だと思ってるの?」



 僕の問いかけに、彼女が言葉を呑み込んだ気配がした。


 彼女の兄と話をしてから、ずっと気にかかっていたことだ。

 色が見えない。見え方が他の人と違う。色盲や色弱と聞くと、障害というワードに結び付きやすいのは分かっている。

 しかし事実だけを述べるなら、色覚異常は障害者手帳の対象ではない。



「……違うとは、言えないです」



 美波さんの口から発されたのはそんな言葉だった。彼女らしくない、歯切れの悪い口調である。



「もちろん、差別的な意味ではないですよ。ユイちゃんに言った通り、私の目は特別なんだと思ってます。でも、生活していて困ることはありますし、これを障害だと感じることも沢山あります」



 いつものような強引さは、そこにない。軽く突けば倒れてしまいそうな儚さをもって、彼女は懸命に音を紡いでいる。



「私にとって障害っていうのは、自分の乗り越えていくべき壁なんです。この先ずっと、付き合っていくパートナーです。だから、悪い言葉なんかじゃない」



 愛しい響きなのだと、彼女は言う。抱き締めていくべき痛みなのだと、受け入れている。



「でも、その言葉でいい思いをしない人もいる。それは分かってます。人それぞれですから……本当に、ごめんなさい」



 改めて僕の方に体を向け、美波さんが頭を下げた。

 それに頷いても、頷かなくても、不正解であるような気がしてならない。この謝罪を認めるということは、彼女が今まで築いてきた考えを否定することと等しいと思った。


 常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう――アインシュタインだって、そう遺しているのだ。

 彼女の常識、僕の当たり前。きっとどちらだって正しくないし、一つの偏見にすぎない。


 だけれど、たとえそうであっても、僕は彼女の偏見をもう少しだけ眺めていたいと思った。



「……もういいよ。そこまで引き摺るほど、僕も性格悪くないから」



 平然と淀みなく伝えられれば良かったのに、頬が引き攣る。それとなく和解を申し出たつもりだった。

 美波さんは苦笑しながらも、「そうでしたね」と正面を見つめ直す。



「兄から聞いたんですよね。私のこと」


「言っとくけど、僕が聞き出したわけじゃないから」


「分かってます。すみませんでした、兄が失礼なことを……」



 あのとき掴まれた胸倉に視線を落とせば、それがもはや随分と前のことのように感じられた。


 ありがとうございます、と唐突に礼を述べた彼女に、意図せず眉をひそめる。



「さっきは助かりました。私、赤が分からないので」



 ごく自然と付け加えられた理由に、一瞬言葉を失う。

 彼女の中の当たり前に、今ようやくきちんと触れたのだと思った。言葉として告げられ理解していたつもりでも、まだ消化しきれていないのだろう。



「色盲って聞いたけど」


「はい、遺伝的なものです。ユイちゃんも同じで……普段は明るくていい子なんですよ。だから色々おしゃべりしてみたんですけど、私の言葉じゃいまいち元気でなかったみたいですね」



 恐らく八つ当たりにも似たものだったのではないだろうか。美波さんの言葉があの子に届いていないとは思えなかったし、唯一の共感者として弱音を吐きたかったのかもしれない。



「航先輩のさっきの言葉、私まで元気もらっちゃいました。私、薄っぺらいことしか言えなかったなあって……」



 乾いた笑みを浮かべ、彼女が語尾を弱める。

 今日はずっと、そんな顔を見てばかりだ。



「薄っぺらくても、それを欲してる人はいるんじゃない」



 そう言った僕の方こそ、薄っぺらい意見を述べているのかもしれないけれど。やっぱり、彼女には図々しくて強気な方が合っていると思った。



「少なくともあの子には君の言葉が必要だったでしょ。僕は別に、薄っぺらいとも思わなかった」



 返答がない。訝しんで彼女の方に目をやると、視線が交わる。



「航先輩は、やっぱり優しいですね」


「は?」


「ユイちゃんにも伝わったんだと思います。だからあんなこと言ったんだろうなあ」



 彼女の凪いだ瞳が、ぼんやりと遠くを見つめるように揺れた。



『お兄ちゃん、ユイと友達になってくれる?』



 了承するのが一番丸く収まるだろうと思ったから首を縦に振ったのに、その子は小指を差し出してきた。約束、という単語まで引っ張り出して。



『またここに来てね。約束だよ』



 厄介事が、更に厄介を招いた。それでも小指を結んだのは、確かに自分の意思だった。



「航先輩。私たちと一緒に、『なないろ』で活動しませんか」



 きっと彼女ならそう言うんだろうと、どこかで予想はしていたことだった。最初からそのつもりで僕を呼んだのだろう。



「……しない」


「どうしてですか?」



 どうして? 簡単なことだ。

 別段何かに打ち込もうとする必要なんてないし、その何かが「絵」なのだとしたら、余計に。僕にはもう絵を描く理由が見当たらなかった。



「したくないと思ったから。それだけ」



 本当に、それだけなのだ。

 そこまでして縋るほど、僕は芸術に心酔なんてしていなかった。夢中でもなかった。たまたま他の人より上手くできた、それだけだ。


 僕の端的な回答に、美波さんが黙り込む。彼女はしばらく逡巡するように唇を動かした後、意を決したように告げた。



「じゃあ、私が――私が航先輩に、もう一度絵を描きたいって思ってもらえるように努力します」



 ぴんと伸びた背筋。意思の固さを示すかのごとくつり上がった眉尻。


 やっぱり、僕には彼女がさっぱり分からない。理解できない。

 どうしてそこまで僕にこだわるのか。構ってくるのか。それは最早うざったいという感情を通り越して、シンプルな疑問として胸中に鎮座していた。



「……僕が、そんなこと望んでないって言っても?」


「はい。だって、私が航先輩の絵を見たいので」



 あまりにもきっぱりと言い切るものだから、何だそれは、と悪態をつきたくなった。

 何なんだよ、本当に。暴論すぎるだろう。強引とか勝手とか、そんな熟語で片付けられる範疇を超えている。



「あんたさ……何なの。僕につきまとって楽しい?」



 どうしてこうも彼女に振り回されているのだろう。言動の制御が効かないのだろう。

 ハンドルを握っているのは僕のはずだ。いつだって、誰にだって、自分が優位になるように努力してきたはずだ。


 見え透いた嘘も、本音も、読み解くのは得意だった。下心や虚栄心を隠しながら笑顔で近付いてくる奴らに、僕の内側までを侵食させるわけには絶対にいかない。隙間を埋め、鍵をかけ、僕は僕を守り続けた。


 それなのに、いま目の前にいる彼女はどうだ。

 自分の欲を隠そうともしない。真正面からガラスを素手で割りに来る。そのせいで怪我を負ったら、きっと図々しく僕に手当を頼むんだろう。


 何なんだよ、本当に。何なんだ。



「あんた、じゃないですよ。私は、美波清です」



 呑気な訂正を入れ、彼女が声を明るくする。それから僅かな沈黙を経て、美波さんは再び口を開いた。



「航先輩の絵を初めて見た時、見えないはずの色が見えたんです。原因とか理由は未だに分からないんですけど……」



 澄んだ瞳が、真っ直ぐに空を見上げる。



「不思議でした。感動した。この世界にはこんなに沢山の色があるんだって。もう目が離せなくて、それからずっと、この絵を描いた人に会ってみたいって、それだけでした」



 そう語る彼女の横顔から目が離せなくなっていたのは、僕も同じだった。

 僕のことを――否、僕の絵のことを話す時、彼女はいつも別人のような顔をする。それは故人の冥福を祈るかのような穏やかさでもあるし、恋人を待ち侘びているかのような愛しさと切なさでもあるのだ。



「絵を見て泣くなんて、あの時が生まれて初めてです。世界はまだこんなに瑞々しいって、教えてくれたのは航先輩ですよ」



 忘れたんですか、とでも言いたげな口調だった。空からゆっくりと視線をこちらに移した彼女の目は潤んでいて、周りの空気も風も何もかも、清らかに流れている。


 彼女の目からも今、涙が流れている。



「私は、航先輩の絵を見たいです。どうしても、もう一度見たいんです」



 これほどまでに鮮烈で純粋な願望を、僕は他に知らなかった。

 きっと、嬉し涙でも悲し涙でもない。湧き上がった自然水のごとく、さも当然のように、彼女の涙は流れる。流れ続ける。



「……僕の絵は、くすんでるよ」



 そもそも見える世界がくすんでいるのだから、そこから生まれる世界だってくすんでいるに決まっている。



「いいんです。航先輩の世界を、私に教えて下さい」



 泣きながら彼女が頬を緩める。その乞いは、相変わらず有無を言わせぬものだった。


 僕のくすんだ世界に、その日から明確に彼女が加わった。



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