些細なイレギュラー1
世界史の授業は嫌いだ。
カタカナばかりで人名や国家名が覚えにくいとか、暗記が苦手だからとか、そんなありふれた理由じゃない。
「えー、では今日はここまでにします。重要な部分なので、各自きちんと復習しておいて下さい……」
教壇でぼそぼそと喋る声に、僕は今日も苛立つ。
世界史を担当している教師が嫌いだ。
皺のついたシャツを着て、ただでさえそこまで高くない身長は、猫背のせいで更に低く見える。
その教師が教室から出て行くと同時、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「ねえ、ショータ。ノート見して」
前の席に座るクラスメートの背中を叩く。
こちらを振り返ったショータが、わざとらしく「ええ?」と眉をひそめた。
「航、お前また寝てたのかよ」
その問いに頷いて、両手を合わせる。お願い、と頼み込んだ僕に、相手は満更でもなさそうだった。
このやり取りも、もう少しで十を数えることになるだろう。
「まあいいけどさあ……何でいっつも俺なんだよ。綺麗にノート取ってるやつの方がいいだろ」
言いつつノートを渡してきた彼に軽く礼を述べて、自分のノートを広げる。
「そうだよ。次から私のノート貸そうか?」
隣からそんな提案が飛んできた。
青のマーカーペンを片手に、僕は緩く首を振る。いかにも申し訳なさそうに、それでいて有無を言わせないように。
「大丈夫。田中さんには迷惑かけられないから」
「おいおい、俺には迷惑かけてもいいのかよ」
「ショータだって古典の時間寝てるじゃん。その分の板書、誰のおかげだと思ってんの」
「わーかったよ。いいから早く写せって」
僕に抗議しても勝ち目はないと早々に悟ったらしい。ショータは諦めた口調で言い合いの土俵から降りた。
自分のノートには、とっくのとうに今日の板書がほとんど写されている。ショータのものと見比べて、所々にマーカーペンで印をつけていくだけだ。
字が丁寧だとか、書き方のバランスだとか、そんなものは僕にとってどうでもいい。重要なのは「色」だ。
ショータがいつも使っているペンは、とても見やすい。前に一度だけ他の人のノートを借りたことがあったけれど、その人のペンではどこが「赤色のチョーク」で書かれた部分なのか分からなかった。
世界史の授業が嫌いだ。世界史を担当している教師が嫌いだ。――否、正確に言えば、その教師の板書が苦手だ。
いわゆる、色弱というものらしい。
生まれてからずっと、この世界にある色のうち、一部が自分には見ることができなかった。
自分が周りと違う世界を見ていると気が付いたのは、小学生の時だ。
図工の時間に、水彩絵の具で学校から見える景色を描くという授業内容だった。
郵便ポストとその後ろに立つ木。その二つを同じ色の絵の具で塗り潰した僕に、みんなが変な顔をしていた。
当時の担任が親に伝えたのだろう。その後すぐに病院へ行って検査を受けた。
色覚異常。それが、医者から告げられた単語だ。
「助かった、ありがとう」
ノートの背で前の背中を突けば、持ち主は「もう終わったん?」と目を丸くする。
四限目が終わった教室内は騒がしい。机や椅子を移動させる音が空間を占める。
朝に買ったペットボトルの蓋を開けて、水分補給をしていた時だった。
「――犬飼航って人、いますか?」
澄んだ声が自分の名前を探していた。大してボリュームがあったわけでもなく、それでいて一音一音、はっきりと輪郭をなぞるような波長。
僕が思わず入口の方へ視線を投げたのと、声の主に話しかけられていたクラスメートが振り向いたのは同時だった。
「あ、犬飼くん。なんか呼ばれてるよ」
そう声をかけられて椅子を引いた僕に、ショータが「何? 告白?」と茶化してくる。
まあ、十中八九そうだろう。
僕はそこそこ異性に好かれる方らしく、高校に入学してからこういったことは今までも何度かあった。だから、別段驚くこともない。
とはいえ、そんなことは微塵も口に出すつもりはないけれど。
「さあ……何だろう。相手の子、見覚えないんだけどなあ」
「悪いなあ、お前。そんな知らない子にまで惚れられてんの?」
「そういうんじゃないって」
あくまで戸惑ったような表情をつくるのは忘れない。
立ち上がってドア付近まで歩いていくと、僕を呼んだ女子生徒はじっとこちらを見つめて口を開く。
「あなたが、犬飼航さんですか?」
胸下まである長い髪が真っ直ぐ垂れていた。僕よりも頭一つ分は小さい背が、姿勢よくピンと伸びている。
「そうだけど……」
歯切れ悪く答えた僕に、彼女は途端、目を輝かせる。二重瞼を何度もぱちぱちと瞬かせ、良かった、とその唇が動いた。
「ずっと会いたかったんです。私、入学してからずっと――」
「ちょ、ちょっと待って」
まさか突然切り出されるとは思わず、焦ってしまった。つと周囲の様子を窺えば、好奇の視線が突き刺さる。
「場所変えよう。ここだと落ち着かないから」
渋々こちらからそんな提案を投げかけ、彼女が頷く。ほっとした。
廊下に出て突き当たりまで進んでから、非常階段の近くで足を止める。遠くの喧騒は聞こえるものの、人気はほとんどない。
「あの、急に呼び出してごめんなさい。でも、どうしても会いたくて」
目の前の彼女は僕と向かい合うなり、丁寧に頭を下げてそう告げた。耳にかかっていた髪が、はらはらと一束ずつ前に落ちていく。
「私、一年の美波清っていいます」
自己紹介をした彼女に、やっぱり一年生か、と内心腑に落ちた。
ブレザーもスカートも皺一つなく、まだ着始めてから日が浅いのだろう。化粧っけのない素朴な顔立ちも、第一ボタンまでしっかり留めてあるところも、入学してまだ間もないという事実を物語っている。
「それで、あの……」
と、言い淀む相手の様子に、やっぱり告白か、とこの短時間で二度目の納得を得た。
正直、彼女のことは一切知らないし、見たこともない。答えは自分の中で決まりきっているからこそ、早くしてくれないだろうかと気が急く。
「先輩は、どうして美術部をやめてしまったんですか?」
耳を疑った。それくらい、動揺した。
今まで自分の目を信じられたことなんてなかったけれど、聴覚を訝しんだことなんて一度もない。それにもかかわらず、いま彼女が放った言葉の意味を、即座には理解できなかった。
「すみません。本当に、突然こんなこと……でも私、犬飼先輩の絵を見て、この高校に来ようって決めたんです。だから、先輩がもう美術部にいないって聞いて、びっくりして……」
何か急激に自分の中で体温が下がっていくような心地がした。
彼女が喋っていることもいまいち頭に入ってこない。気を抜いたら立っているのもままならなくなりそうで、強く拳を握る。
「もう、絵は描かないんですか?」
なんの悪意もない、無邪気な質問だ。だからこそ、深く痛く抉ってくるものがある。
「そんなの、君には関係ないことじゃない?」
ようやく喉から絞り出した声は、随分と冷ややかだった。それに自分で気が付いて、少し焦る。
彼女は傷ついた素振りもなく、ただ漠然と驚いたような、そんな顔をしていた。
らしくない。僕はいつだって人に好かれるために全神経を張り巡らせてきた。
たった一言、見知らぬ女の子に尋ねられたくらいで、態度を崩すようなことがあってはいけない。
「……ごめん。僕、もう戻るから」
これ以上、心の林を掻き分けて入って来られるわけにはいかなかった。
一方的に会話を切り上げ、彼女に背を向ける。追い縋る足音は、聞こえなかった。