TS転生したが、親友を好きになってしまった。男女の関係になっていっぱい尽くしたが、裏で気持ち悪いって思われてた。
すっかり天高くまで登った太陽の日差しが枕元まで光を送り込んできて、あまりのまぶしさに目を覚ました奏多は身体を起こし、首を振る。
奏多は身体に一切の衣類を身に付けていない。
おまけに昨日の情事の跡があちこちに残っている。
奏多の身体は美しい女の姿をしている。
この世界で女として生まれ過ごして17年にもなるが、自らの身体を見下ろすと真っ先に目に飛び込んでくる大きなおっぱいなどが自分の持ち物であることを考えると、未だに時折、得も言われぬ嫌悪感に背筋がぞぞぞっとなる。
奏多は転生前は男だったのだ。
「うええぇ。何時だよ……。」奏多は頭を振って、隣で寝ている康介を見る。
康介は転生前の日本で親友だった男で、今は……。
なんだろう? どう言い表していいかわからない。
少なくとも康介は転生時に性別が入れ替わる事がなかったから、男であることだけは間違いない。
また、昨日さんざん男女の睦み事をした相手であることも間違いない。
ただ関係性を問われると、なんと説明していいかわからずに奏多はもにょもにょとなってしまうのだ。
前世からの親友? 今は恋人? ただの身体だけの関係? 友情はまだあるのか? あるいはただ強いオスにすがるだけのメスの関係?
もやもやした感情が渦巻いてなんだか腹が立ってきた奏多は、康介の頭をぺちんと叩くと、「先に起きるぞー」と声を掛けてベッドから降りる。
そこらに転がった衣類を拾い上げて身に付けていると、後ろから裸の男が抱きついてきた。
目が覚めた康介が後ろから襲い掛かってきたのだ。
「止めろバカ! 俺は腹が減ったから、うおっ!」
抗議の言葉は康介の強引な力によって掻き消される。今の奏多の身体は女だから、男の力で押さえつけられると奏多は逆らえない。
奏多はそのまま引きずられるようにしてベッドに押し戻される。
そのまま後は言われるがまま、なされるがままとなる。
今の奏多は康介に逆らえない。
逆らえないまま、いびつな関係のまま、ここまで来てしまった。
修学旅行中のバスが事故を起こして全員が死亡、その後なぜか異世界で赤子となって転生していた……らしき記憶のようなものがぼんやりと残っている。
康介と奏多はたまたま同じ村の3軒隣で同じ日に産声を上げ、幼年期のうちに誰も知らないはずの日本語でぶつくさ言っている相手にお互いに気付き、「お前、康介か?」「奏多じゃねーか!」と二人で意気投合、その直後に「奏多お前女になってるじゃねーか!」「うるせぇっ! そういうおめーは不細工な顔のままじゃねーか!」と二人で爆笑した。
それから二人はいつでもどこでも一緒で、枝を1本づつそれぞれ持って裏山に乗り込んでいってワイルドボアの子供に追っかけられたり、果樹園に忍び込んで実り始めた果物を盗んで「異世界のりんごすっぺーっ!」などと言っているうちに大人に見つかってしこたま怒られたり、時折魔物退治にやってくる冒険者にあこがれてまとわりついて最初はウザがられたが最後は根負けした冒険者達に剣や魔法の基礎を教わったり、まあそんな子供時代を送った。
それで名前についても、本来は親がテキトーにつけた名前が二人にあったはずだが、二人がお互いに「カナタ」「コースケ」と呼び合うので周りもそういうものだと認識するようになり、そのまま「コースケ」「カナタ」が二人の名前になっていた。
もともと日本でもお互いぴったり息があっていたが、異世界に来てからは絶好調で、二人して「コースケが、」「カナタが、」いればなんでもできると二人して息まいていた。
大人達の目は冷ややかではあったが。
関係が大きく変わった最初が、奏多の生理であった。
いつものように「遊びにいこーぜ!」と乗り込んでくる康介に対し、奏多の母親が「今日は無理だから」とすげなく追い返し、腹を立てた康介がこっそり乗り込んできて、奏多のその惨状にびっくりとしたところから変化が始まる。
ただでさえ文化レベルの低い異世界の、どうしようもないくらい田舎の開拓村に生理用品なんてご立派なものがあるはずもなく、むき出しの股間に簡単なあて布をした程度の奏多の股からはだらだらと血が流れだしているように見えた。
「うおっ! 奏多! 大丈夫か!」びっくりしてオロオロとなる康介。
「うっせばか! 生理だよ! 始まっちまったんだよ! ……じろじろ見るな!」
この時の奏多は自分の身体がどうしようもなく男とは違うことに激しい動揺を覚えていたのだが、対する康介は違っていたようであった。
奏多は気付いてしまった。康介が食い入るように自分の股間を見つめていることに。
奏多もかつては男だった人間だ。康介が何を思っているのか一発で分かってしまった。
康介は奏多に欲情していたのだ。
奏多は背筋がぞぞぞっとなった。
それでまあ、奏多としてはとにかく自分の中の女を見せないよう、だましだましで距離を置きつつ、今まで通りの関係を続けようとしたのだが、それは2年と持たなかった。
ある年の秋まつりの夜、旅芸人の奏でる陽気な音楽が夜の帳が降りた後も流れ続け、この日ばかりはあちこちに大きなかがり火が夜通し焚かれ、男も女も老いも若きも踊りあい、無礼講で酒もふるまわれ、ほろ酔い気分の奏多は康介に押し倒された。
「てめーふざけんなっ!」蹴り飛ばそうとする奏多。このころはまだ二次成長期が早くに始まった奏多の方が背も高かったし力も変わらなかったから、追い返すくらいのことは簡単にできるはず、であった。
「なあ、いいだろカナタ。俺、こんな顔だし、7男だし、モテねーし、このままじゃ一生童貞だよ。前世も童貞だったのに異世界でも童貞だよ。お前くらいしかやらせてくれるやついねーんだよ。頼むよ。」
「ふざけんな知らねーよ! 俺は男だぞ! そりゃ身体はこんなんになっちまったけど、もともと男で、お前の親友だぞ! 親友にお前、そういうことすんのかよ!」
「親友ならやらせろよ!」康介まさかの逆切れであった。
康介はさらに畳みかけるようにしてこんなことを言い出す。
「だいたいてめーは童貞じゃねーじゃねーか!」
「はあっ?」奏多も語気が荒くなる。「いや、俺だって一度も……。」
「嘘つけっ!」康介は怒りに顔を真っ赤にする。
「お前あんとき俺が童貞だって話したら俺もだとか言ってたけど、実際には中学んときに付き合ってた彼女いたって話じゃねーか! お前と同じヤナ中行ってたやつから聞いてんだよ! 1年近く付き合ってたんだろ!? やってねーわけねーじゃねーか!」
「あああー……。」言われて奏多はドキリとした。
確かに中学3年の時1年ほどミホコという女と付き合っていた。確かに何回かすることした。けどあのミホコという女はセックスした直後からすさまじく生意気な女に豹変して、やれアレを買ってこいだのどこどこに連れて行けだの、チャットの返事は20秒以内に返せだの同じ高校を受けろだの、まあいろいろうるさくなり、キレた奏多が別れ話をすると、なぜか学校中にクズ男だといううわさが流れ、奏多にとっての中学3年の最後はさんざんであった。
あの女とのセックスなど数えるほどしかしていない。おまけに今思い返せばあいつは初めて―とか言いつつも処女じゃなかったし、やってる最中もすごく適当な感じだった。全然ヤラせてくれないくせに、注文だけはやたら多い女であった。
あの女との思い出をなかったことにしたかった奏多はだから、康介が童貞カミングアウトした時に被せて乗っかってしまったのだ。
確かに康介に嘘をついていた。奏多に罪悪感がないでもない。
いやだからってそれ今の状況と関係なくね?
奏多はそのように思ったが、どうも康介の言い分は違うようだった。
「ふざけんなカナタ! おめーは俺に嘘ついてたんじゃねーか! 親友と言いつつおめーは童貞のふりをして、童貞の俺を陰であざ笑ってたんじゃねーか! てめーは人の皮をかぶった悪魔だ! 俺が童貞特有のセックスしたい病に取りつかれていた時、おめーは陰で笑ってたんだろうがっ!」
「笑ってねーよ!」なんだこいつの言い分は滅茶苦茶じゃねーかと奏多は思ったが、
「じゃあなんで嘘ついたんだよ! 馬鹿にしてたんじゃねーのかよ!」等と涙ながらに訴えられると、なんとも返事がしづらくなってしまった。
「いや、馬鹿にしてたわけじゃねーけど、嘘ついてたことは謝るよ。けど俺も一応事情があって……。」
奏多の話を康介は最後まで聞いてくれなかった。
「頼むっ!」人の話を遮るようにして土下座をする康介。「悪いと思うのなら頼むっ! 一回でいいからヤラせてくれ! 1回だけでいいから! 俺に男の夢を見させてくれ!」
えええええっ。
奏多は心の中で大きなため息をついた。
ついたがしかし、結局その日、二人は童貞と処女を失った。
泣きながら土下座する康介があまりにも情けなすぎたのと、正直女の身体のセックスがどんなものか一回くらいは試してみたかったという奏多自身の馬鹿げた興味のためだった。
また、妊娠の心配がない事も大きかった。
こんな田舎村には避妊の薬などはなかったが、奏多には村によく来てくれる冒険者パーティのお姉様たちが分けてくれていたのだ。子供が出来ては仕事にならない冒険者のお姉様がたには避妊の薬は必須なのである。なんでも冒険者ギルドで積極的に配っているので、お姉様がたとしては在庫は潤沢なようであった。
「カナタちゃんすっごいかわいいから、万一大変なことになりそうな時、これがあった方が絶対いいと思う。」うんうんと頷くお姉様たち。
いやいやねーよ、万一なんてねーよ、だいたい俺、男だし。その時の奏多は思っていたのだがここはお姉様がたに先見の明があったという事なのだろう。
それでともかく、一回くらいならまあいいかとついつい身体を許してしまったカナタであった。
「めっちゃ痛てーっ!」
実際のところはろくなものではなかったが。
二人が数え年で12歳になった秋の夜、水車小屋の裏の空き地での出来事であった。
遠くの方ではかがり火の向こうで芸人一座の音楽がかすかな音となって鳴り伝わり、近くの草むらでは秋の虫が盛大に合唱をしていた。
結局のところ二人の関係は1回で終わるはずもなかった。
なにやら機会があるごとに土下座されて、どうにも情けなすぎる親友の顔についつい絆され、4回、7回と肌を重ね合う二人。
3回目あたりから奏多自身も楽しめるようになってしまったのがどうにもよろしくない原因の一つではあったが、それ以上によくないのが、とにかくセックスを求める康介に対し、ちょっと我がままなお願いをすると面白いようになんでも聞いてくれる事に奏多が気付いてしまった事情がある。
生理が辛いんで畑仕事かわってくれねーか。隣村の親戚が一家で遊びに来ることになって、ワイルドボアが一頭必要なんだ。次の行商人が来るまでに金になるタリア石を山ほど集めたいんだけど。
康介は全部叶えてくれた。むろん奏多も手伝いはしたが、面倒くさがりのあの康介が積極的に動いてくれて、最初のうち奏多としてはお姫様気分であった。
セックスやりたいだけの中学生パワーすげーっ!
そのしばらくのち、
セックス餌に男にあれこれ注文つけて、ミホコと俺、やってることかわんねーっ!
すごく落ち込んだ。
それでこれはよくないなと、せめて康介のためになるお願いをしようと始めたのが、魔法の特訓だった。
「魔法がちゃんと使えるようになったら、ご褒美にエロい事してやるよ。」
「マジで!?」目をまんまるにして飛び上がるほどに喜ぶ康介。
恐らくこれが決定的なターニングポイントであったのだと、のちの奏多は思い返すことが出来る。
この世界では女性の方が魔力適性が高く、高位の魔導士などは殆ど女性が占める。
例えば冒険者稼業においては女性の存在はとても重要で、攻撃、回復、補助などの強力な魔法を駆使する女性冒険者が加わって初めていっぱしのパーティを名乗ることができるようになる、といった風潮であった。
ところが奏多に限っては魔法の適性がほとんどなかった。僅かに強化系の魔法に適性があったから、頑張ってそれを伸ばして、冒険者となった今では大剣を振り回したり大楯を構えたりもしてみたが、いかんせん力仕事については基礎能力の高い男性に分がある。
頑張って力をつけてみても出来ることなど限られているのが現状だった。
対する康介は男ながら土魔法に高い適性を示した。
魔法に熱心であれこれ練習していた奏多に対し、どうやら剣士になりたかったらしい康介は最初は冒険者のお姉様たちの魔法レッスンにおざなりな態度だったが、セックスを餌に魔法の訓練を始めたところ、これが恐ろしいほどにめきめきと力をつける結果となり、1年と経たないうちにいっぱしの土魔法使いにジョブチェンジしてしまった。
そうしたら康介は村の英雄になってしまったのだ。
そもそも田舎村では土魔法が使えることは開拓の強力な武器になると大変重宝され、ましてや魔法使いといった肩書きを持てるほどの実力があればこれは三顧の礼を持ってでも迎え入れられるべき特別な存在だった。
康介がちょっと魔法を唱えれば、大の男が4人がかりでも取り除けない巨大な岩がするすると崩れ落ちて砂利に変わったり、がっしり根付いてテコでも動かない大きな切り株が吐き出されるように脇へ移動したり、固くて鍬も入らない台地がふかふかの耕作地へと生まれ変わったり、なにより遠くにあってとても引き込めなかった川の水が地形変動であっという間に村の中央まで水を運ぶようになったり。
それで康介も例にもれず大変ちやほやされることになった。
ろくに野良仕事も手伝わず遊びまわるごく潰しの農家の7男が、突如として村の重鎮として迎え入れられることになったのだ。
奏多は知っている。村の女達は目の色を変えて康介に色目を使い出し、その中でも見た目の良い何人かと康介は実際に関係を持つようになったことを。
だが康介は適度に女をつまみ食いしつつ、必ず最後は奏多のもとに戻ってきて、「なあ、ヤラせてくれよーっ」とねだってくるのだった。
理由は簡単だった。
奏多は自分でもびっくりするくらいの美少女に育っていた。
鏡なんてありもしない辺境のド田舎村でも、奇麗に澄んだ水ならあちこちにいくらでもある。
何気なく覗き込む村はずれの貯水池に映る自分の顔を見るたびに、奏多自身もびっくりするほどの美少女がこちらを見つめ返してくるのだ。
誰だお前は!? ……あ、俺か。
おまけに身体もなんだかおっぱいが大きく育ったり、えらい色白だったり、顔がすごくちっさかったり、手足が異様に長かったり、腰が異様にくびれていたりと、まったくお前は誰なんだ、いや俺か状態の奏多であった。
だから康介が必ず自分のもとへ帰ってくるのは当然のことだろうと、そう奏多は考えるようになっていった。
優越感があった。
それに、奏多には自信があった。なんの知識もない田舎村の女達が男を喜ばせようとしてもできることなどたかが知れている。
一度、奏多が美少女に育つまでは村一番と呼ばれていた奥さん(旦那も子供もいる)が康介を誘って家畜小屋に消える後をついて二人の様子を覗き見してしまったが、まあ単純で分かりやすい行為の連続で、途中から康介が飽きてきている様子がはっきりと伺えた。
対する奏多は性の情報が氾濫していた日本の知識があり、おまけにかつての男子高校生としての記憶から、男がどういったものに喜びを覚えるかを身をもって知っている。
だから、ふらふらよその女へと目移りしそうな康介をうまく誘い、自分のもとに呼び戻すことなんて簡単だった。
これなら勝てる、奏多はそう考えた。じっさいその通りになった。
なんだか楽しくなっている自分がいた。
「魔法の特訓のために身体を餌にしているだけだ。」そんな風に言い訳しつつ、ずぶずぶと康介との肉体関係は続いていた。
結果として康介の魔法はちょっとしたものに育っていたから、ただの言い訳とも言えない状況ではあった。
この時点ですでに奏多の心はそれまでのものとは大きく変わってしまっていた。
恐らくこの時にはもうすでに康介の事を……。
性自認が男から女へと変わったのもこのころのことだった。
奏多は自分が心も体も女になったことを自覚した。
不思議と悪い気はしなかった。
さて、そんなこんなでいっぱしの土魔法使いとしての才能を開花させ、すっかり村にからめとられそうになっていた康介は、一時は村長の娘との結婚話まで出たそうだが、とにかく冒険者になりたいという強い意志があり、奏多と二人、半ば家出するように村を飛び出し、辺境伯領の領都に転がり込んできた経緯があった。
二人が数えで15歳の春の事であった。春麦が青々と育ちつつあるのどかな田舎村の夜を駆けるように抜け出しての一幕であった。
そのころから二人の関係は奏多が康介に依存するようないびつなものへと変化してゆく。
冒険者になっても康介の土魔法は強力で、休息時や戦闘時のの簡易拠点生成や戦闘中の地形操作による妨害工作など、様々に活用してめきめきと力をつけていった。
それで基本は康介と奏多は二人きりのパーティで、よそのパーティにスポット参戦するような形であちこち渡り歩くような活動の仕方をしていたが、康介はあちこちで大人気となり、引っ張りだこであった。
後になって少しだけ悔しいのは、魔法の使い道についてあれこれ考えたのは主に奏多の方だったのに、いざ実際に皆の前で魔法を使ってみせるのが康介なので、康介ばかりがちやほやされ、奏多はほとんどおまけ扱いとなっていったところである。
けどまあ奏多としては仕方がないところもあった。そもそも奏多が使えるのはどこまでいっても簡単な生活魔法と肉体強化の魔法のみで、戦闘では次第に足手まといになっていった。
だから荷物持ちだの食事の用意だの道具の準備だのといった仕事ばかりが奏多の役割となっていった。
また、奏多は一般的な女性に比べて生理痛が重く、避妊の薬に生理を抑える効果があっても、月に何日かはどうしても冒険に出られない日があることも問題となった。
例えば2週間程度のちょっとした遠征の際、奏多が生理を計算したところ自分は参加できないといったことが多々あった。
そんな場合、康介が一人で参加してきて、それで全然問題なく帰ってきたりする事が度々あると奏多の存在意義はどんどん損なわれていくことになった。
そんな奏多が唯一武器に出来るもの、それが自らの美しさと身体、更にはセックスの技術だった。
奏多はそれらの全てを総動員して、懸命に康介を引き止めようと努力を重ね、どうしようもないくらいずぶずぶの依存関係となっていくのに時間はかからなかった。
ライバルが多いのも奏多にとって辛い事だった。
領都はそれなりに栄えている10万人都市で、この世界で10万人とはこれは相当の数なのだ。
美しい女、着飾った女、性の技術に長けた女、奏多のライバルはそこら中にいた。
そして、力をつけ少しづつ名を上げてゆく康介には、次第に多くの女が群がるようになっていった。
奏多はいっそう努力した。康介を誘うため、冒険の際にも太ももや腹などの露出の多い衣装を無理して着こなしてみたり、康介の求めにはどんな場所でも応じたり。
酒場で皆に見せつけるようにして奏多の肩を抱く康介にしなだれかかる様にして自分が彼のものであることをアピールしてみたり。
まるで娼婦じゃないか。奏多は自分に吐き気がするほどだったが、それでも康介の寵愛を失う事の方がよっぽど恐ろしかったのだ。
「やっぱりカナタが一番だぜ。」時折そんな事を康介が言ってくれるだけで、どんな無茶も頑張れる気持ちになれた。
そんなふうにして、領都での冒険者生活が2年にもなろうとしているある日、彼女が冒険者ギルドにやってきた。
『日本語わかるひと募集中! 長谷部あやか』
彼女は胸元にそんな文字をでかでかと書き記したチュニックを見せびらかすようにしてギルドの扉を割って入ってきた。
それを見た瞬間、奏多と康介は二人して大爆笑した。
高校時代のクラスの同級生、長谷部あやかの事は二人ともよく覚えていたからだ。
お調子者でヘラヘラ笑い、男子にも積極的に話しかけてくる面白い女。長い髪をポニーテールにして、ゆらゆら揺らしながらやってくるその様は、顔つきも体つきも身長も髪の色もまるで別人なのに、かつての同級生長谷部あやかそのままであったからだ。
すぐさま二人して声を掛けた。
「ハセベじゃねーかっ! 何してんだよ!」
「おまえまんまじゃねーか! なんだよその日本語!」
「おおおおおっ!」嬉しそうに声を上げる長谷部あやか。「ってか二人とも誰と誰?」
二人が前世の名前を名乗ると「えええええっ!」と長谷部あやかは声を上げた。
「あんたらコースケとカナタかーっ! 二人とも顔も体もちげーのに、まんまコースケとカナタそのものじゃんっ! やっぱ転生しても地は変わんないよねーっ! ってかカナタそのカッコ……。女? 女になってる!?」
「ああそうだよ! 何でか俺は女だよっ! どうなってるんだよ異世界転生! ふざけんじゃねーって感じだよ!」
それから一挙に打ち解けて、3人は夜遅くまでギルドの酒場でぐだぐだと馬鹿話を語り合った。
長谷部あやかは王都から来た事、王都にはほかにも何人かバス事故に巻き込まれて転生した同級生がいる事、さらにそのうちの何人かはもうこの世にはいない事、長谷部あやかは他にも同級生が転生していないか気になりこうして一人旅に出ることにした事、それで最初に出会ったのが奏多と康介だったこと、などなどなど。
長谷部あやかは強力な召喚術師として転生したそうで、今は一人だが複数の魔獣を召喚、使役する事で女の一人旅を悠々自適でここまでやってきたとの話だった。
対する康介は名の知れた土魔法使いとして活躍中の辺境伯領での冒険譚のあれこれを面白おかしく話し、長谷部あやかはすっかり興味を持ったようで「へーっ!」とか「すげーっ!」とか関心の声を連発していた。
奏多は大して話すことがない。奏多はひたすら聞き役に徹することとなった。
そうしたら康介と長谷部あやかが意気投合してしまい、「あたしも辺境の冒険者やってみたいーっ!」「よーし迷宮いくか。今行くか。」と二人して外へ飛び出そうとするのを奏多が止め、ともかく明日にしようと三人で宿に止まって、そのまま翌日からゴブリン退治だの薬草摘みだの迷宮探索だのにあちこち駆けずり回る日々となった。
長谷部あやかはどうやら辺境の冒険者稼業がよっぽど面白かったらしい。
「これぞ異世界! これぞ冒険!」等と声を荒げ、いつの間にか居ついて奏多たちは3人パーティとなり、あっという間に数か月が経った。
「おめー同級生探しはいいのかよっ!?」奏多がツッコんでみたものの、「いーよめんどくさい。ちょっと思いついてみただけだし。冒険者の方がよっぽど楽しいし。」等といった返事があり、ああこいつは考えなしでお調子者の長谷部あやかそのものなのだなと奏多はがっくり来たのだった。
そんなお調子者の長谷部あやかではあったが、召喚術師としてのその実力は一級であった。
ダイヤウルフを呼び出してその背に乗って、歩いて一日の距離を数時間で駆け抜けてみせたり、キラービーの群れを召喚してゴブリンを蹂躙してみせたり、更にはドライアドを呼びつけて皆に回復の術を掛けさせたりと、移動に攻守に補助に回復にと、縦横無尽の活躍を見せた。
康介の土魔法との相性も良く、康介が拠点を作り長谷部あやかが召喚獣達を要所に配置すれば負けなしとなった。
それで奏多は益々立つ瀬がなくなり、康介を性的に楽しませることが唯一の存在意義であるような惨めな気持ちになりつつあった。
ところでそんな奏多と康介の関係は、初めのうちは長谷部あやかには秘密であった。
けれどもやりたい盛りの17歳の康介が我慢できるはずもなく、次第に長谷部あやかの目を盗んでいたる所で求められるようになり、ついにある日、長谷部あやかにバレてしまった。
「ふーん。」長谷部あやかの第一声は冷ややかなものであった。
「二人って実は、そういう関係だったんだ。ふーん。」
康介は「まあね。」とさして気にならない様子で簡単な返事だったが、奏多にとっては心臓のドキドキが止まらない思いだった。奏多は長谷部あやかに知られたくなかったのだ。
かつての親友と男女の仲になっていて、あまつさえ奏多は康介の事を……。
だから奏多は泣きそうになってしまい、逃げるようにしてその場を立ち去った。
幸いにしてその日の依頼は村を襲うコボルトの群れを数日かけて防衛する任務の初日で、村のすぐそばの森の前で野営をしていたところだったから、奏多は一人村の宿に飛び込んでそのまま休んでしまってもさほど迷惑にはならなかった。
翌日、長谷部あやかには少しばかり嫌味を言われたが。
それでその後の奏多はといえば、3人で冒険をするようなことがあっても、奏多は長谷部あやかのいる前では康介の誘いを断るようになっていった。
それどころか奏多は、誰の目でも、他人が近くにいると感じるだけで康介とセックスすることが出来なくなっていた。
奏多は自分がとてもみすぼらしい行為をしており、それを人に見られることはとても恐ろしい事なのではないか? そんな考えがこびり付くようになっていた。
康介と二人きりであると分かればもちろんいくらでも求めに応じるが、外で人目があるところでは奏多は得も言われぬ不安を覚えるようになり、身体がすくんでしまうようになっていたのだ。
そんなふうに奏多の心境が変わっていったある夜の事だった。
この頃の康介は夜になると一人でどこかへふらりと出かけることが多くなっていたから、奏多自身も夕食を食べようと思ったら適当な酒場なり食堂なり屋台なりを一人で探して食事をするようになっていた。
正直奏多としては夜に一人で食事をすること自体が億劫になっており、最近は夕食を食べないことも多くなっていたのが、その日はどうにもお腹がすいて、それでとにかく適当な食堂兼酒場のような店に駆け込んだのだった。
とりあえずのありあわせを注文してふと当たりを見渡すと、見慣れた康介と長谷部あやかが向き合っている姿が目に入った。
それなりに近くの席ではあったが、互いの椅子の角度の問題からか、二人は奏多に気付いていないようだった。
奏多は声を掛けようかと戸惑ったが、二人の会話が聞こえてきて、そんな気持ちは一瞬で消し飛んだ。
「カナタくんってあれ、コースケから見てどうなの?」
「んー? そうだなーっ。」
奏多は思わず顔を伏せ、それからそおっと振り返るようにして、二人の会話にそば耳を立てた。
「正直よくわかんねーんだよなぁ。まあ、最初は親友だと思ってたんだけどさーっ」
「ってか二人は恋人ってわけじゃないの?」
「恋人っ!?」びっくりした声になる康介。「ちげぇちげぇ! それはねーよ。だってあいつはカナタだぜ? ガキの頃から知ってるカナタだぜ? 何で恋人とかって話になるんだよ?」
「だってカナタがコースケ見る目、どう見ても女の目だよ? あたしも何度か嫉妬されたし。」
「あーっ……」唸り声を上げる康介。「あれやっぱそうなのか。なんかちょいちょい気持ち悪い感じすんなーって思ってたけど、あれやっぱそうだったんか。」
「いや、どう見てもそうでしょ。何で気付かないかなーっ。」
「いや、だってさぁ。」康介がぼやくように呟き出す。「もともとそんなつもりなかったんだって。昔からの親友でお互い全部分かってるわけだし、それが異世界に生まれてみたらカナタのやつスゲー美少女になっちゃって。親友なんだしちょっとヤラせてくれよってノリだったんだけど、割とあいつも頼めば断れない性格だからなんかフツーにヤラせてくれて、そしたらあいつも俺も思いのほか楽しくて、親友同士でバカやってるってそんなつもりだったんだよ。そしたらなんか、あいつヘンな感じになってきて。ちょいちょいヘンな目で見るようになってきて。最近じゃいつもヘンな目で見るようになってきて。
なんだか気持ちわりぃなーって。なんかそんな感じ?」
「うわーサイテー。」長谷部あやかが非難の声を上げる。「することやっといて、気持ち悪いとか言っちゃうんだ。サイテー。」
「いやだってあいつ、滅茶滅茶エロいんだもん。すげー気持ちいいんだもん。多分あいつもセックス好きなんだろうな。それですげえ気持ちよくしてくれるから、それはそれで楽しいからいいんだよ。
それだけでお互い充分だったはずなのに、なんかちょっとづつ気持ち悪いオーラ出すようになってきて。
いや待てよおまえカナタだろ? なに気持ち悪くなってんだよ? 二人でバカしてる感じでいいじゃねーか? なんなんだよ。気持ちわりーの止めてくれよ。いつものカナタに戻ってくれよ。……なんかそんな感じ?」
「サイテー。サイテー。」長谷部あやかがはやし立てる。
「いやだってカナタだぜ? ガキの頃から知ってるカナタだぜ? カナタがなんか女みたいな態度取られたってそりゃなんか気持ち悪いって。
これがハセベなら別にいいんだよ。だってお前女だし。ハセベが女っぽくなっても俺は全然気になんねーよ。でもカナタは無理だよ。だってあいつは俺の中では男だし。」
「へーっ?」ここで長谷部あやかの声色が甘ったるいものに代わる。「あたしだったら別にいいんだ? へーっ?」
「まあね。」さらりと返事をする康介。
ここから先の二人の会話について、奏多は知らない。
奏多はその場にいられなくなり、逃げるように店を飛び出していたからだ。
そこから先どこをどう歩いたのか覚えていない。
奏多はいつの間にか、領都の端を流れる川のほとりでぼんやりと水面に映る月を眺めていた。
さっきっからどうも月がぼやけてよく見えない。異世界の月が二つあったりするのはよく聞く話だが、ぼやけてはっきりしないのはどういった異世界ルールがあるのだろう?
奏多がぼんやりとそんな事を考えていると、背後から声を掛けられた。
「どうした? カナタ。泣いているじゃないか?」
奏多はびくりとなった。恐る恐る顔を上げる。
何度か冒険を共にしたことがある先輩のジャンだった。それなりに整った顔立ちでちゃんとすればモテそうなものなのに、ひょうきんな性格が災いしてかお笑い要員としてすっかりギルド内で定着してしまい、みんなからのいじられ役に徹しているひょろっとした斥候職の男であった。
この男は四六時中馬鹿な事しか言わないが、娯楽の少ないこんな辺境領の冒険者ギルドではちょっとでも笑えることがあればみんなゲラゲラと笑い出す。だからジャンはそれなりにみんなからは好かれていた。女にはモテなかったが。
康介などは文化レベルが低いなどと言って嫌って近寄らないようにしており、それに付き合って奏多も関わらないようにしていたのだが、奏多自身はジャンに対して特に嫌な気持ちはなかった。奏多は日本で男子高校生をやっていた昔から、ちょっとでもバカっぽい事があるとゲラゲラ笑える質だったのだ。
それでいつもはおバカなジャンが心配そうに声を掛けてくるものだからちょっとだけおかしくなってしまい、涙を流すのもやめて返事をした。
「別に、なんでもねぇよ、ジャン。ちょっと目にゴミが入っただけだ。大したことねぇからほっといてくれ。」
「惚れた女の事なんだから、放っておけるわけねーだろうが。」ジャンはちょっと腹を立てた様子でそう言うと、ドカッと奏多の横に腰を下ろした。
なんだこいつ。今俺の事、惚れた女とか言いやがったのか?
奏多は混乱した頭で思わずまじまじとジャンの顔を見てしまう。
「なんだよカナタ。オレの顔に何かついているかよ?」むすっとした顔のまま奏多を見つめ返してくるジャン。
「いやお前、さっき俺に惚れてるみたいなこと言いやがったから。何の冗談だと思って。」
「冗談じゃねぇよ。マジで一目惚れだ。初めてお前を見た2年前からずっと俺はお前に惚れっぱなしだ。」真面目な顔でそう返事をするジャン。
「詰まんねーよ。もうちょっと面白い事言えよ。」
「うるせぇっ!」ジャンは完全に怒り出す。思わずびくりとなってしまう奏多。
「本気で惚れてるんだ! 惚れた女が泣いてるから心配して声かけてるんだ! 冗談なんかじゃねえ! 頼むから信じてくれ。オレはお前を笑わせたいんじゃねえっ! 心配になったから力になりたくて声かけてるんだ! 頼むから信じてくれ!」
「お、おうっ。」思わず居住まいを正す奏多。考えてみればこんなふうに誰かから面と向かって好きだなどと言われること自体が初めてなのだ。
実は今とんでもない状況になっているのではないかと思い返し、奏多は胸がドキドキとなってしまう。
そうしたらジャンがふっと笑ってから、真剣な顔になってこう尋ねてきた。
「コースケと何かあったのか?」
「ああ。」奏多としてはそう答えるしかない。
「そうか……。」そう呟いてから前へ向きなおし、無言になってしまうジャン。奏多はそんなジャンの横顔をそっと横から覗き見してみる。
金髪碧眼で面長のシュッとした顔立ち。こうして黙っている様子を見ると、どこかお貴族様の落とし胤と言われてもおかしくない美男子ではある。
口を開かなければよい男なのだ。
奏多は先ほどから心臓のドキドキが止まらない。
前を向いたままのジャンが口を開く。
「いきなり好きだなんて言ってごめんな。オレはお前に自分の気持ちを伝えるつもりはなかったんだ。コースケと良い仲なのはみんな知ってたからな。オレだって諦めて違う女を探そうと思ったさ。
けどカナタとコースケの関係はちょっとおかしかったからな。カナタはコースケにベタ惚れなのに、コースケはまるで気付いていない様子というか。
何やら男友達を相手にしているみたいないい加減な扱いというか。
どうもちぐはぐで、どうしても気になってしまって、それでいつまでたってもカナタの事が気になり続けて。
どうしてコースケはカナタを女として見てやらないんだって。こんなに可愛い女の子なのに、ちゃんと相手をしてやらないんだって。
オレならちゃんと、カナタを女の子として扱ってやるのにって。
二人を見るたびにそんな事ばかり考えてしまって、それでオレは今でもカナタの事をあきらめきれないんだ。」
奏多は自分の心臓がバクバク言っているその音が耳障りで仕方がない。
ジャンはそんな奏多に顔を向けてきた。いつも馬鹿な事しか言わないはずの男の真剣な表情に、奏多思わず目を逸らしてしまった。
「改めてはっきり言わせてくれ。オレは初めてお前を見たときからずっと好きだった。今も好きだ。だから泣いているカナタを見て放っておけなかった。それだけなんだ。」
「お、おうっ」奏多は顔を逸らしたまま何とか返事をする。自分でも分かるくらいに顔に血が上っており、多分きっと顔がゆでだこみたいになっていることだろう。
「だから迷惑じゃなければ何か力になりたいと思っている。下心はない……とは言い切れないが、自制する自信はある。2年間我慢し続けてきたくらいだからな。どうだ? 何かオレに出来ることはないか?」
「何もねーよ。今この瞬間にそばにいてくれただけで……。充分だ。」それは偽らざる奏多の本心だった。ジャンがいま隣に座ってくれて、告白までしてくれて、そしたら先ほどまでの沈みきった奏多の心は、今ではすっかり晴れ上がっていたのだ。
康介が今まで奏多をどう思っていたのか、そんなことに落ち込んでいた自分が馬鹿らしくなったのだ。
だから本当に充分だった。充分に奏多の心は満ち足りた。
けれどもジャンは納得がいかないようだった。
「なあカナタ。その、こんな誘いをするのもどうかとも思うんだが、良ければ一緒に旅に出ないか?」
「はあっ?」奏多は思わず聞き返してしまう。
「いやその。カナタはコースケと少し距離を置いた方がいいんじゃないかと思ったんだ。コースケはしょっちゅうカナタ抜きであちこち出回っているけれど、カナタは自分から一人でどこかへ行くようなことはしたことないだろう? たまにはカナタの方からコースケと離れないと、どこかコースケに舐められてしまっているんじゃないか?」
「言ってくれるじゃねーか。」むすっとした顔になる奏多。腹が立ったのはジャンの言っていることが的を得ていたからだ。確かに村を飛び出して領都に来たあの時からずっと、康介の後をついて回るばかりだった。
金魚の糞みたいにぞろぞろ後をついてくことしかできない自分に嫌気がさしていたところでもあった。
そんな奏多の心を知らずか、オロオロとなったジャンが慌てて取り繕うような言葉を連ねる。
「いやその。うちの実家はちょいと評判の傷薬を作っているんだが、いつもこの時期にこれを売る行商に出る親戚のおばさんがいてな。一か月ほど山奥の村々を回る旅なんだが、オレが毎年親戚枠で護衛を買って出ているんだ。比較的安全な道順で、まあちょっとした観光気分が味わえる気楽な旅なんだ。
良ければ一緒にどうかと思って……。」
「お前それ、俺と仲良くなってあわよくばエロい事しようって魂胆丸見えじゃねーか。」奏多はジャンにジト目を送ってやる。
ますます焦った様子のジャン。目の端には涙まで溜めている。
「いやその。そりゃあ下心がないといえば嘘になるが、ちゃんと紳士的に接する。なんならギルドに誓約書を提出してもいい。
その、まあ良ければって程度の話なんだ。軽い程度に聞き流してくれていいんだ。」
「軽い話の割にはやけに必死じゃねーか。思いっきり下心あるじゃねーか。」更に突っ込む奏多に今にも泣き出しそうになるジャン。
そんなジャンの様子に奏多は吹き出してしまった。
必死な様子のジャンの顔が、夏祭りの夜にヤラせてくれと土下座して頼み込んで来たあの日の康介の顔とそっくり同じだったからだ。
先ほどの康介も言っていたじゃないか。「あいつは頼めば断れない性格だ」って。確かにその通りだ。こんなふうに涙目になって頼み込まれたら、奏多はなんだか断り切れないのだ。
「分かったよジャン。せめてもの情けだ。ちょっと考えてみてやるよ。いつ出発なんだ? それまでに考えて返事してやるよ。」
「その。」泣きそうな顔が変わらないジャン。「出発は明日の朝なんだ。」
「はえーな!」
なんだか馬鹿らしくなってしまった奏多はそのまますっくと立ちあがる。
「明日じゃさすがに考える時間もねーな。まあ今回は機会がなかったってことで。まあでもジャンのおかげで気が晴れたぜ。ありがとな! じゃあな!」
そう言って追いすがるジャンを振り払い、定宿へと帰路につく奏多。
心はすっかり良い気分であったが、部屋に戻って一気にトーンダウンした。
部屋は真っ暗で、康介はまだ帰っていなかった。
シンと静まり返った部屋の中で、奏多は気付いてしまった。恐らく今日、康介はこの宿には帰ってこない。
康介は長谷部あやかと二人で違う宿に一晩泊まり、この部屋には戻ってこない。
女の勘という奴だろうか。どういう訳だかそういったことが分かってしまった。
奏多は自分の勘を疑うようにして、頑張って数時間ほど起きていたがやはり康介が帰ってくる気配はなかった。
だから奏多は大急ぎで荷造りして、そのまま部屋を飛び出して、行商などが朝に集まる南門の前へと深夜のうちから陣取って、そのままうとうととなりつつも日が昇るころに現れたジャンと行商の中年女に片手を上げて挨拶をした。
「よっ! 気が変わったぜジャン! 俺も連れて行ってくれ! 一緒に一か月ほどのバカンスと洒落こもうぜ!」
旅の間のジャンは宣言通りの紳士な態度で、とにかく徹底的に尽くしてくれた。
食べ物は率先して良いものを先に奏多に渡すし、夜の見張りも一番キツイ時間を全てジャンが引き受けてくれるし、突発的に現れた魔物に対しては懸命にかばってくれた。
なんだかお姫様にでもなった気分で、奏多はなんだかドキドキしてしまった。
対する奏多も色々と手伝えることがあり、これがまた嬉しかった。
斥候職のジャンは戦闘の面では奏多とどっこいであり、お互いに工夫しあって協力できることがいっぱいあった。
野営や移動の際の索敵や村についてからの整理や計画など、話し合って色々と二人で考えていくのも楽しかった。
どれも康介とのパーティでは考えられない、とても新鮮な内容だった。
また、彼の親戚のおばさんとやらが最初のうちは何やら二人を邪推したりはやし立てたりそそのかそうとしたり、正直かなりウザかったのだが、どこかでかなりきつくジャンが言い含めてくれたようで、途中から何も言ってこなくなった。
そういったジャンの配慮が奏多には嬉しかった。
何よりジャンが奏多を女性扱いしてくれることが本当に嬉しかった。
奏多は途中で生理が始まってしまい、重い症状に苦しむところを懸命に気遣って色々と便宜を図ってくれるジャンには頭が下がる思いだった。
康介とではこうはいかない。もともと康介とは男同士の友情でつながっていた仲なのだ。こんなふうに男女の仲であれこれ気を配ってくれるジャンとは全然方向性が違うのだ。
ああそうか。
奏多は気付いてしまった。自分が康介に求めていたものと、康介が自分に求めていたものは、ある日を境にまるっきり違ってしまったのだと。
男女の間に友情が成立するものなのかどうなのか、それは奏多にも分からない。
だが少なくとも、奏多と康介の間にはそれはなかったのだ。ある日を境になくなってしまったのだ。
それは奏多が一方的に悪かったのか、あるいは康介にも少しくらいは何か問題があったのか、奏多には分からない。
けれどもとにかく、二人の関係はとっくの昔に壊れてしまっていたのだ。
それで一月の旅が終わりそうなある日、奏多は自分からジャンを誘った。
山奥の開拓村の村長宅裏の離れ小屋の中で、奏多はジャンと一つに結ばれ、女の喜びを存分に味わった。
ひとしきりの情事を楽しんだ後、奏多はジャンにこう訊ねた。
「俺はジャンの事を本気で好きになってもいいか?」
対するジャンは奏多にこう尋ねた。
「コースケの事はいいのか? コースケの事を今でも愛しているのではないか?」
奏多はジャンにこう答えた。
「コースケの事はもともと間違った愛だったんだ。あいつを好きになってしまったことが間違いだったんだ。俺はきちんと自分を愛してくれる人を愛したい。ジャンが俺を好きだと言ってくれるから、俺も安心してジャンを好きになれる。
そういうのがいい。
そういう風になりたい。駄目か?」
ジャンは奏多にこう答えた。
「全然駄目じゃない。すごく嬉しい。諦めないでよかった。カナタを好きになってよかった。カナタが好きになってくれてよかった。」
それからジャンがめそめそと泣き出すものだから、奏多は慰めるのにすごく時間がかかった。
翌日二人を見たおばさんがこんなことを言い出した。
「いいのかいジャン。そのお嬢さんはいいとこの貴族の落とし胤で、へたに手を出すとお貴族様に命を狙われるって。あんたずっと我慢してたんじゃないのかい? 大丈夫なのかい?」
「ちょっと待てジャン! てめぇいったいなんて嘘ついて言いくるめていやがった!」
「いや、まあ。どう説明していいかもわからないものだからその……。」
そんな一幕も後になればいい笑い話となった。
それでいよいよ領都が近づいてきたある日、奏多とジャンは二人して相談し、行商をするおばさんに頭を下げた。
「俺たち、正直領都にはもう戻れねぇ。あそこにはいやな思い出がいっぱいあるんだ。このままジャンと二人でどこか遠くに行こうと思う。」
「すまないおばさん。来年からは護衛の役は買って出れない。他を当たってくれ。」
「いいんだよ、二人とも。二人とも幸せにおなりよ。ジャン、あんたの親兄弟にはあたしからうまく説明しておくからね。カナタさんはジャンの事よろしく頼むね。二人ともいつまでも元気で暮らすんだよ。幸せになるんだよ。」
めそめそと泣きながらそんな事を言い出すおばさん。
見ればジャンも、涙目になってぐずぐずとやり始める。
どうもこの一族は普段は陽気でバカな事しか言わないくせに、肝心な時には涙もろくて情に厚い一族らしい。
それはいいのだが、あんまりもたもたしているとあっという間に日が暮れてしまう。
イライラしたカナタがジャンの尻を思いっきり蹴とばすと、ジャンが「ひぐっ」っとヘンな声を上げてぴょんぴょん飛び跳ねた。
こうしてハンカチをいつまでも振り続ける行商のおばさんの涙声を背に、奏多とジャンは辺境伯領のまだ見ぬ奥地へと歩みを進めた。
3年の月日が経った。
「カンナ! 見事な腕だ! 仕留めるのが難しいロールバードが一撃だ!」
嬉しそうに声を上げるジャン。
今はカンナと名前を変えた奏多そんな夫に対し、ニヤリと笑って手にした弓を掲げ持ち、返事の代わりとする。
奏多はジャンと結婚をしていた。二人でつるんで1年ほどあちこちをうろうろしている中で、たまたま旅を一緒した宣教師と仲良くなり、せっかくだからと祝言を挙げてもらったのだ。
戸籍管理などされていない中世然とした辺境のド田舎に夫婦になるこれといった決まりはないのだが、教会の人間に祝福をもらえばこれは結ばれたという認識で間違いない。
それでまあ、いい節目になったかなと奏多がほっこりしていると、隣に立つジャンは号泣であった。
「なんで泣いてんだよ。」からかう奏多に対しジャンが滔々と語るには、なんでも奏多は今でも康介の事が好きなのだろうと、ずっとそれが気になって不安だったそうなのだ。
それが今日、ようやっと心配がなくなったと、それで嬉しくて涙が止まらないという話であった。
ちくしょう、可愛いじゃねぇかよ。
すっかり嬉しくなってしまった奏多はその晩のベッドの中でジャンと大いに盛り上がった。
あれから2年、今でも夫婦仲は極めて良好である。
それで奏多は、せっかくジャンと夫婦になったのだからこれを機に名前を変えようと思い立ち、最初は頭の2文字を取って「カナ」と名乗ろうとしたのだが、ジャンには少し発音が難しいようで、いつの間にか間に「ン」が入ってカンナと呼ばれるようになっていた。
それで、かつての奏多は今の「カンナ」という名前を存外とても気に入っているのだ。
今では「カナタ」と呼ばれても誰の事だが一瞬忘れるほどであった。
また、カンナはこの3年の間に弓士へとコンバートし、これが性に合っていたのか、めきめきとその腕を上げていた。
男でも扱うのが難しい強弓を難なく引き絞り、500m先の獲物の頭蓋を寸分たがわずぶち抜いてみせる。
まさに神業ともいえる技術を花開かせ、つい先日などはエルフの弓士と狩りを競り合い、これに勝って弓王の称号を彼らから戴く場面もあった。
かつて、康介が一級の土魔法使いとなり、長谷部あやかが一級の召喚術師であったあの頃、自分一人だけ何の才もなく「異世界チートなんて嘘じゃねーか」と一人腐していたカンナであったが、落ち着ける環境でじっくりと自分の特性や才能を探ってみれば、きちんと天職があったことに驚きを禁じ得ない。
考えてみれば康介だって最初はいやいや練習しはじめた土魔法が開花してあのようになったのだから、カンナだっていくらでもやりようはあったのだ。
あの頃の自分は、逼迫した状況に視野が狭窄していたのだろう。
結局のところ自分を生かすも殺すも心の持ちようなのだと、今は数えで20歳になったカンナはそんなふうに少しだけ達観できるようになっていた。
そして、そんな自分を生かすために苦心してくれる夫、ジャンに対しては深い感謝と愛情しかなかった。
ジャンはもともとは斥候職だったが、自分の才能とカンナの才能を比較してカンナを立てる方向へと転換し、助手としての役割を務めてくれるようになっていた。
地形の把握や周囲の状況、天候の変化を予測したり、目標の行動パターンを調べたり。
こうして獲物を仕留めるのに最適な条件をジャンが整えて、カンナが目標物を仕留める。
それで大物たちを次々と撃ち落とし、二人でキルマークを稼ぐようになっていた。
これらの役割分担については、夫婦でよく話し合い、少しづつ形を変えて今のように収まった。
もちろん今でも話し合いは続いていて、またしばらくしたら今とは違う方法を試しているのに違いなかった。
そんな二人の現在の生業が、辺境の山間部の開拓村を回る流しの猟師であった。
猟師という仕事は、ある程度発展した村々においては、他の村との境界争いであったり、捕らえる獲物の種類や数の制限であったりと色々面倒が多く、各猟師はそれぞれ村に所属し、組合のようなものを通じて各村で調整を行って活動する専門職であるのだが、山奥の開拓村にはそんな縄張り争いなどしている暇も余裕もなければ、それ以前にギルドすらない。
ともかく誰でもいいから出来るものが見かけた害獣を片っ端から倒すようにしていかないと村があっという間に立ちいかなくなるのが開拓村なのだ。
だからカンナとジャンのような凄腕の猟師は例え流しでもむしろ大歓迎で、各村所属の猟師達では手も出せない大捕物をする二人は、どこの村へ行っても英雄のように迎え入れられた。
村に顔を出すたびにちび達がキラキラした目で尊敬のまなざしを向けてきて、「大きくなったら俺も猟師になる!」などと言われてしまうと、小さい自分が農村にいた頃に不定期にやってくるゴブリン退治の冒険者を見上げていた当時の気持ちが思い起こされ、カンナはなんとも面映ゆい気分となるのであった。
そんなちび達を相手にジャンが一緒になって楽しそうに遊んでやっている様子などを見ると、子供好きのジャンのためにそろそろ俺たちも……、なんて事を考えてしまうカンナであった。
カンナは今、充実していた。
そんな二人にまたちょっとした転機が訪れる。
3年目にしていっぱしの猟師として名の知れた二人のもとに、騎士様の一行がやってきて領都防衛に力を貸してほしいと頭を下げてきたのだ。
なんでも辺境伯領にほど近い迷宮にスタンピードの兆しあり、これはもはや防げぬから、腕に自信のあるものを片っ端から呼び集め、これを防衛、撃退する準備を進めているのだという。
そんな中、二人と知らぬ仲ではない騎士様が、これはとわざわざ訪ねてくださったという事情らしい。
開拓村と騎士様というのはそれなりに付き合いが深い。
ある程度うまくいっている村々は自分達の稼ぎの中から魔物退治の冒険者などを雇ってこれを防衛しているが、開いたばかりの貧村にそんな余裕があるはずもないから、冒険者などはまずやってこない。
だから領策として騎士様が派遣される。
そもそも開拓は辺境伯領の領地拡大のための領策であるからして、これの防衛に最初の10年くらいは騎士様達が積極的に見回りに来てくれるのだ。
カンナとジャンもそんな彼らと顔を合わせる機会が幾度となくあり、そのうちの何回は一緒に共闘したりもして、お互いそれなりに気心の知れた間柄であったのだ。
それで今回わざわざ騎士様がカンナ達を訪ねてきてくれたのだから、本来であれば二つ返事で引き受けるところであったが、カンナは逡巡していた。
ジャンもそんなカンナの様子を察して、何も言わずに黙ってくれていた。
領都に戻ると康介や長谷部あやかがいるのである。
正直彼らとは会いたくない。
そんなカンナの気持ちを察したジャンが、その肩を優しくそっと抱きしめてくれた。
カンナは騎士様に、少しだけ考える時間が欲しいと頭を下げて頼み込んだ。
そんなカンナの背中を後押ししたのは、誰あろう村人達であった。
「あっしらの事は心配しないでくだせぇ。なあに。カンナ様達が来てくださるまでは、あっしら自分達だけで何とかやってきたんです。そりゃあカンナ様達がいなけりゃ大変なこともあるでしょうが、ちょっとの間少し前に戻るだけでさぁ。
それにカンナ様、事が済んだらちゃんと戻ってきてくださるんでしょう?
どうかあっしらの事は気にせんでくだせぇ。すわ辺境伯様に大事があれば、あっしら開拓村自体が立ちいかなくなっちまう。ここはおくにの大事なんですから、どうか騎士様達のお力添えをなさってくだせぇ。」
別にカンナは村人達の事が心配であったわけではないのだが、こんなふうに言われてしまうとどうにも断りづらくなってしまう。
思わずすがるようにしてジャンの顔を見上げると、優しく微笑んでくれる彼の瞳と目が合った。
ジャンがいれば俺は大丈夫だ。
カンナは依頼を引き受けた。
3年ぶりの冒険者ギルドである。
なんでも今度のスタンピードに参加するものに対し、領の行政府は報奨金をいちいち個別に用意するのが大変なので、これを冒険者ギルドに一任したとのことであった。
参加者は割札をもって冒険者ギルドに出頭し、簡単なレクチャーを受けて自らの役割につく。
3年前と変わらぬギルドの扉を押し開くと、中にいた人間が一斉にこちらを向く。
カンナはそれだけで足がすくんでしまい逃げ出したい気分だったが、ジャンが抱き寄せるようにして隣に立ってくれていたから、カンナは勇気を出してその中に足を踏み入れることが出来た。
たった3年の間にずいぶんと入れ替えがあったようで、冒険者連中に知っている顔はほとんどなかった。
彼らの中に康介はいなかった。
ギルド職員の方は変わらない顔ぶれだったので、仲の良かった何人かとお互いに頭を下げあう程度の軽いあいさつをした。
細かい段取りなどはすべてジャンが対応してくれたから、カンナはジャンの横に引っ付いてただぼーっとしてるだけで話はついた。
二人に与えられた仕事は、現在急ピッチで作られている迷宮前の仮拠点に陣取っての大物相手の狙撃であった。
ジャンはカンナの助手として早速仕事を開始した。カンナが最も力を発揮できるよう、地形などの確認と狙撃ポイントの選定、想定される魔物の種類の確認などであった。
その中で仮拠点の視察と、出来れば狙撃の為の砦や城壁の位置や構造について口を挟みたいとジャンが言いだし、許可が下りたジャンは早速そのままの足で仮拠点へ向かう運びとなった。
カンナも一緒についていこうとすると、真剣な顔をしたジャンが珍しく拒絶し、カンナは宿で待っていてほしいと強い口調で頭を何度も下げられた。
それで一日宿で待ちぼうけを食らってすっかりむくれたカンナであったが、夜半過ぎに戻ってきたジャンに話を聞いてそんな感情はすぐに消し飛んだ。
拠点の構築には康介が関わっていたのだ。
「彼も、彼を取り巻く環境も、ずいぶん色々と変わっていたよ。」そう呟くジャンに、カンナは「そうか」と返事をするくらいしかできなかった。
古参の冒険者達のかなりの数が現時点ですでに仮拠点に詰めていたようで、ジャンはこの3年の出来事を馴染みの彼らから色々聞いて回ってくれたらしい。
まず、長谷部あやかが死んでいた。
長谷部あやかはカンナがいなくなった後、康介と二人でペアを組みつつ、有力な冒険者パーティの助っ人要員としてあちこちにスポット参加していたそうであった。
結局あの日、長谷部あやかと康介は男女の仲になったようで、そのまま恋人として二人でつるむようになったそうだ。
一部のものから「カナタはどうした?」等と聞かれるたびに「知らねえよ!」などと康介がキレ、ちょくちょくいざこざになどなったようだが、康介にベタベタくっつく長谷部あやかの様子に、男女のあれこれに首を突っ込むのは野暮と、誰も深くは追及できなかったらしい。
「カナタは今、どうしているのかねぇ?」そんな誰かのぼやきにジャンが「実は」と自分との結婚の話をすると、ジャンの冗談だとちっとも信じてくれなかったみたいだ。
まああの時は周りにいっさい説明もせずに突然二人で消えたのだし、それまでジャンとカンナの間に接点などほとんどなかったのだから、今の二人の関係を知るものは領都には誰もいないという事なのだろう。
ところでそもそも長谷部あやかという女にはどうも周りを見下すような雰囲気があり、あまり評判が良くなかったらしい。
それで次第に皆の声がかからなくなる中、何を思ったか長谷部あやかは領都のはずれの広場でフェンリルの子供を召喚したそうだ。
何やら自分の力を皆に誇示する意図があったようなのだが、怒り狂ったフェンリルの親が駆けつけてきて後はもうお察しという状況であったようである。
フェンリルというのはとても頭のいい生き物なので、人間が彼らと敵対する意思がない事と、やらかした長谷部あやかについては好きにしていいという事を皆が懸命に伝えるとこれを理解し、三日三晩かけて皆の前で長谷部あやかをじわじわと嬲るように殺してみせたのだそうだ。
このような愚かな女はこうなるぞ、というフェンリルからの通告であったようだ。
娯楽の少ない辺境領ではこの惨殺ショーがちょっとした見世物になったらしく、美しくも恐ろしい白銀の大狼が女を嬲るその様子が領民たちを大いに楽しませたらしい。
何やら聞きなれない言葉で泣き叫ぶ長谷部あやか(恐らく日本語だろう)をみんなであざ笑い、時に石などを投げつけて、酒を片手にみんな大いに嘲り笑い、馬鹿にし、罵ったそうだ。一時期「ハセベ」とは馬鹿の代名詞とされ、「ハセベになるぞーっ!」とはお母さんが子供を叱る枕詞にもなっているようだ。
なんとも哀れな話ではあるが、山村の猟師としてフェンリルの恐ろしさを肌身に強く実感しているカンナとしては、どう見ても長谷部あやかに非があるとしか思えないエピソードであった。
この機会にどうも気をおかしくしてしまったのが康介だったようだ。
もともと協調性に欠けるきらいがある康介であったが、これを機に他の冒険者とは本格的に距離を置くようになって、このころからソロで活動を始めたようだった。
ただこれがまた皆の評判がよろしくなかったようで、迷宮に勝手によくわからない地形操作を加えおかしくした上で、直さずこれを放置したり、村の共同財産である雑木林にて勝手に大規模な地殻変動を起こしこれを滅茶苦茶にしたりと、いろいろやらかした結果、冒険者ギルドから要注意人物としてマークされ、以来ろくな仕事が回ってこなくなったらしい。
かつての土魔法の英雄様もすっかり落ちぶれ、小さな依頼で安い報酬を得ては、安酒を啜る生活にうらぶれてしまったのが彼の現在のようだった。
それでもその土魔法だけは本物のため、今回のスタンピードに際して拠点構築にその腕が買われ、迷宮前に陣取ってその作業に従事しているのが今の康介だそうだ。
ただやはりあまり周りの話を聞かないので、上層部の考えるような砦が構築できず、現場で揉め事を起こしまくっているらしい。
「正直、今回の仕事でこちらの狙い通りの狙撃地点を確保することは難しいと言わざるを得ない。コースケについては交渉以前に話が通じない様子だった。」
とは今日会いに行ったジャンの弁。
何やってるんだ、あいつ。
カンナの心は一瞬だけ元の昔の奏多に戻り、伝え聞くかつての親友の今の様子に奏多は心を痛めた。
「オレは不安だよ。今のコースケをカンナと会わせていいものか。あの男がカンナを傷つけたりしないものか。
こんな仕事、断ってしまえばよかったととても後悔しているよ。」
すっかりしょげかえったジャンを優しく抱きしめてやりつつも、よしとにかく康介に会おうと、カンナはそう決意した。
「ヤラせてくれよ。」
再会の第一声がそれであった。
「はあっ?」思わず語気が荒くなるカンナ。
隣に立つジャンも腰の短剣に手を伸ばしている。
「いやお前、めっちゃ美人になってんじゃん。なんか更にエロくなってんじゃん。最近俺、スゲー溜まってんだよね。昔みたいにエロい事しようぜ? お前だって好きだろ? エロい事。今なら一晩じゅうヒィヒィ言わせてやれるぜ。」
「ふざけるな!」声を荒げるジャンが短剣を抜こうとする機先を制してその前に立ったカンナはこう口を開く。
「わりーけど無理。俺今結婚して人妻なんだよ。こいつは俺の旦那なんだ。俺はジャンを愛しているから、お前とそういうことをする気分にはなれない。」
「はあっ!?」語気が荒くなったのは康介の方だった。
「結婚!? 人妻!? 旦那!? 愛してる!? なに言ってんだてめぇっ! おめー男同士でなに結婚とかしてんだよ! だってお前、カナタだろ!? カナタが何で男なんかと結婚してるんだよ! お前何してるんだよ!」
それからゲラゲラと笑い出す康介。
「ウケるっ! マジウケるっ! カナタどうしたっ!? お前どうした!? 男のくせに男と結婚とかありえねーっ! カナタのくせに男と結婚とかマジありえねーっ!」
「おいっ!」声を上げるジャン。
康介はそんなジャンを見て、今度はキョトンとした顔になる。
「ってかお前だれ? マジ知らねーんだけど? どういう関係? どっから湧いて出た? カナタと俺、ガキの頃からの連れなんだけど。幼稚園の頃からの親友なんだけど。お前だれ? マジだれ? 全然知らねーぞ? お前だれ?」
「はあっ。」思わずため息が出るカンナ。そもそも康介は当時軽薄で頭の悪そうなジャンを嫌って関わらないようにしていたから、覚えていないのも無理はない。
だからと言ってこうも悪し様にジャンの事を言われては、カンナとしても黙っているわけにはいかない。
「そういうお前こそ誰だよ? ちょっと見ないうちにずいぶん太ったなぁ。無精ひげも伸ばし放題で、まるで乞食みたいな恰好じゃねーか? お前本当にコースケか? そこらの浮浪者が騙ってるんじゃねーのか?」
「はあっ!?」怒りに顔を真っ赤にする康介。
「ってかお前、鏡で自分の顔見てみろよ。そんなブサイクでみっともねぇ男が女にモテるわけねーじゃねぇか。この超絶美人人妻のカンナ様がてめーみたいな醜男、相手にするわけねーじゃねーか。
一昨日きやがれ馬鹿野郎。だれがてめーなんて相手にするか屑野郎。てめーは右手を恋人に一人でシコっているのがお似合いだ童貞野郎。」
「はあっ!?」康介が魔術師の杖を高く振り上げる。
対するカンナは、背中に回した強弓を素早く構えると、流れる動作で矢をつがえ、その矢じりの先をぴたりと康介の眼前へ合わせた。
「てめーがちんたら魔法を唱える10秒があれば、俺は2本は矢を穿つことが出来るぜ。その両目に一本づつくれてやるよ。死にたかったらかかってきな。」
勝負はそこまでだった。
遠巻きに様子を伺っていた他の冒険者達が慌てた様子で駆け寄ってきて、二人の間に割って入ったからだ。
「おい馬鹿止めろ!」「スタンピード前になに仲間うちで争っていやがる!」「騎士様にバレたら大変だぞ!」口々に罵声を浴びせつつ、二人は互いに引っ張られて距離を取らされた。
ギャーギャー喚き声を上げる康介を睨みつつ、「ふんっ」と一発鼻を鳴らしたカンナは、そのままくるりと踵を返す。
その後ろをやれやれといった表情のジャンが後からついてくる。
「だから二人を引き合わせたくなかったんだ。考えられる最悪の結果じゃないか。」ぼやくジャンに振り返ってニヤリと笑って見せるカンナ。
「そうか? ジャン。むしろ積年の恨みが吐き出せて、なんかすげースッキリしたぜ。
いや、コースケに会えてよかったぜ。やっぱ親友だったからこそ一発ガツンと言わなきゃダメだぜ。
あースッキリした! あーよかった!」
それからカンナはケラケラと笑った。いつまでも楽しそうにケラケラと笑い続けた。
「ジャン! ジャン! ジャン!」カンナは声を張り上げて城壁の下に落ちたジャンに向かって叫ぶしかできることがなかった。
崩れかけた土くれの向こうから化け物どもが迫り来る。もうすぐ奴らはここまで来る。落ちたジャンを飲み込んで、砦を壊しに奴らが来る。
ジャンはまだ生きている。けれでもこのままだともうすぐ死ぬ。
酷いスタンピード。酷い防衛戦。酷い戦い。
何一つ計画通りに進まなかったその戦いは、予想よりはるかに速いタイミングで奴らが地下から解き放たれ、申し訳程度に作られた簡易防壁はあっという間に食い破られ、迷宮の底から溢れ出る化け物どもの群れが次から次へと押し寄せてくる。
カンナはもう何本の矢をつがえたのか数えることも忘れ、ただただジャンの指示に従い目標に攻撃を加え続けた。
そんな中、何やら巨大な猿のような姿をした汚らわしい化け物が、大きな岩のようなものを抱えて投げつけてきて、これは別にカンナの足元を揺らす程度の効果しかなかったが、不安定な足場にぐらりとなったカンナを助けるようにしてジャンが身を乗り出し、代わりに地面へと落ちていった。
「誰かっ! 誰かっ! ジャンを助けてっ! ジャンを助けてっ! 誰かっ!」泣き叫びながらもあたりを必死に見まわす。
目が合ってしまった。ねずみ色の小汚いローブを羽織る不細工なデブ。康介と。
「助けてくれ! コースケ! ジャンが! ジャンが! 頼むコースケ! なんでもいう事を聞くから! エロい事でもなんでもするから! ジャンを助けてくれ! 助けてくれ!」
藁をもすがる思いだった。先日の諍いから一切口を利いていない康介。康介の性格をよくするカンナからすれば、これは決して叶わぬ願いであると分かっていた。
あいつは俺を恨みに思っている。
康介は絶対ジャンを助けない。
のそりと康介が動いた。
その杖を高々と上げて、何やら呪文のようなものを唱え始めた。
康介の土魔法であった。
魔術が完成すると、ジャンの周りの土がもりもりとせり出してきて、ジャンをカンナの目の前までと引き上げてくれた。
「コースケ!」
カンナは信じられなかった。あの康介が助けてくれるなんて信じられなかった。
どうして助けてくれたのか、まるで理解できなかった。日本での17年、異世界に来て更に17年、心の裏まで知り尽くした親友である康介が、あんな風に大喧嘩をしたばかりの今のカンナを助けてくれるはずがなかった。
どうしてっ!?
混乱するカンナの前で、ジャンが「うううっ!」とうめき声をあげる。
そうだ! 今はそんな事を考えている場合ではない!
カンナはジャンの様子を確認する。
まず、足から落ちたおかげで、頭も上半身も目立った外傷がなかった。また、倒れこむようにして手をついた影響でぽっきり右手が折れ曲がっていたが、奇麗な折れ方なのでそれほど心配はなさそうだった。
足は……ちょっとこれはどうなっているかも分からない。特に左足は……。目に見えて血が止まらないといった様子はなかったが、ジャンは意識も混濁しており、脳が無事かといった心配もあった。
カンナがジャンを肩に担ぐようにして抱え上げると、近くにいた冒険者達の何人かが駆けよってきてくれて、みんなでえっちらと砦奥の診療所までと運び入れる次第となった。
持ち場を離れる前、カンナはチラリと一瞬だけ後ろを振り返った。康介が何か別の呪文を唱えている後ろ姿が目に入った。
康介がどんな表情をしているのか、窺い知ることはできなかった。
先ほどなぜジャンを助けてくれたのか、窺い知ることはできなかった。
カンナは後になって、この日の事を少しだけ後悔することになる。
カンナが康介と直接言葉を交わす最後のチャンスがこの日だったからだ。
1か月後、カンナはジャンと二人で領都の診療所にいた。ジャンの左足はやはり重傷で、この世界の医療では治療が難しく、今後のためにも切り落とすしかなかった。
他にも色々と問題があり、ある程度の回復は見込めるものの、冒険者としての復帰は絶望的な状況であった。
それで左足を失ったジャンは治療に時間がかかり、今はまだこうして診療所のベッドの上で動けずにおり、甲斐甲斐しく世話を焼くカンナのいいようになされるがままの状態であった。
重症のジャンが戦えなくなったと分かったあの日、領都へと戻るジャンについていくと決意したカンナは作戦本部へと乗り込み、自身の戦線離脱を指揮を執る騎士団幹部たちへと告げた。
強力な弓術を用いて何匹もの恐ろしい化け物を仕留めて見せたカンナお見事な腕前は砦中に知れ渡っており、騎士団長は熱心に残留を勧めたが、カンナはこれを固辞した。
団員の中には領都の大事に背任行為であると声を荒げるものがいたが、
「愛する夫の生死も危うい状況に一人残って戦うことは妻としての背任行為である。例えスタンピードが領都を蹂躙しようとも、なればこそ死を迎える時には二人で一緒に死にたい。」と反論しこれを跳ねのけ、これを聞いた騎士団長がむしろ積極的に団員達を諫める結果となった。
騎士団長は愛妻家だったのだ。
「私も死ぬ時には妻のそばにありたい、そう思うものの一人なのだ。」重傷者を運ぶボロ馬車に乗り込む直前に、鎧兜を脱いだ団長が一人こっそりと二人のもとを訪れて、そんなふうに言葉を掛けてくれた。
「もっとも、残念ながら私の立場ではそれも叶わぬ事なのだがね。その分若い二人には少しでも命を繋いでほしいと願うものだよ。」
「申し訳ありません。」頭を下げるカンナの肩をぽんぽんと軽く叩きつつ、団長は二人を見送ってくれた。
団長は最後まで砦に残った。彼と一部の騎士団幹部の奮闘により、沈みゆく砦から多くのものが脱出することが出来た。
死後の彼は英雄として祭り上げられたが、それは彼の本意ではなかったであろう。カンナは後日、彼の墓前に向かってもう一度、深々と頭を下げた。
砦での防衛はかなわず、化け物は領都まで押し寄せてきた。
人々は懸命に戦い、最後にはこれを排除したが、領都の第二防壁にまでその傷跡が残る結果となった。
領都の住民達は女子供まで武器を手に取り抗い、カンナもさすがにここはジャンのそばを離れ、弓を担いであちこちで八面六臂の活躍をした。
周辺の村々にも多くの被害が出て、一部の村は取り壊しとなり、住む場所を失い難民化したものが、今は領都の周りでキャンプ生活を余儀なくされている。
村が無事だったところでも、畑については酷い状態になったところが多かった。
人の死体も化け物の死骸も、これはどちらも田畑にとっては毒なのだ。あちこちに死体が転がり、これが腐敗しあるいは血や体液が流れ、これらが土に交じるとまともに草木が育たなくなる。
青々と繁る夏麦の多くが収穫を前に駄目になり、農民たちはうなだれ声もなくなり、やがて来る冬の事を皆が恐れた。
スタンピードは終息し、人々は戦いには辛勝したが、誰も喜ぶものはなかった。
そんな中、砦での防衛の失敗の責任が取り沙汰され、康介が断頭台に上る事となった。
康介がつくった適当な防壁、いい加減な砦、中途半端な堀はまるで用を為さず、戦いを大変不利なものにしたという罪状であった。
実際に防衛に参加したカンナからしてみれば、どれほど強力な砦に作り上げても、あれほどのスタンピードは防ぎきれなかったのではないかといった印象であったが、ともかく人々はやり切れない思いのぶつけ先を欲していたのだ。
確かに康介は褒められた働きがなかったようだし、元は農家の7男坊で殺してしまってもさして害のない立場であったから、丁度良いスケープゴートという事なのだろう。
このあたりの残酷さは中世然とした辺境領の田舎政治、田舎行政ではいかんともしがたく、カンナは酷く悔しい思いを覚えながらも、ただその最後を見守るしか出来なかった。
このころには松葉づえをついて歩けるくらいには回復していたジャンと二人で、カンナは槍で追い立てられるようにして断頭台に登らされる康介の姿を、遠目から眺めていた。
「辛いなら無理して見なくてもいいんじゃないか?」そんなふうに心配そうに声を掛けてくれるジャン。
「俺はこれでもあいつの親友だったんだ。最後くらいきちんと見届けてやりて―んだ。」
カンナはそう返事をしてから、後はじっと黙って康介の様子を見続けた。
ギロチン台に首を挟まれた康介が日本語で叫んだ。
「何が異世界転生だバカヤローっ! 全然いい事ね―じゃねぇかバカヤローっ! チートもねぇっ! ハーレムもねぇっ! 俺つえーもねぇっ! ふざけんなバカヤローっ!」
果たしてそうだろうか?
康介には土魔法に関するちょっとしたチートがあったのだし、少しばかりハーレムっぽい事もあった。俺つえーも少しはあったように思える。彼が思うほどではなかったかもしれないがそれなりにいい思いが出来ていたように見える。
カンナにはそう感じられたが、康介はそうは思わなかったようだ。いまわのきわのこの期に及んで不満ばかりを並べたてる康介の様子に、カンナはかつての親友と今の自分の考えが大きくずれてしまった現実を痛感した。
喚き続ける康介の首へと、無情にも刃が落とされた。
一瞬だけ静まりかえる広場の群衆。
次の瞬間、人々は一斉に声を上げて騒ぎ始めた。
祭りの始まりだった。
スタンピードは今終わったのだ。
山奥の開拓村に戻ってきたカンナが最初にしたことは、それまで飲み続けてきた避妊薬を捨てる事だった。
カンナとジャンは世話になった開拓村の一つに永住する決意をし、皆の協力を得て新居を作ってもらい、片足を失ったジャンはちび共の教師のような役につき、カンナは猟師の仕事を一人続けようと思ったが、村のみんなに諭されてジャンを支える妻としての役割に精を出すようになっていた。
ド辺境の開拓村の女衆の仕事は、それこそ朝から晩まであれこれなんだかと、まあやらねばならない事が山ほどあり、とてもではないが狩りなどに時間を割いている余裕はない。
自分が猟師などして稼いで暮らせばいいとのんきに考えていたカンナからしてみれば青天の霹靂であった。ずいぶん仰々しい物言いになるが、おかみさんの仕事というのはそれこそいろんなものとの戦いなのである。
それでカンナは目まいのするような毎日を送りつつ、ジャンと愛しあう時間だけはたっぷりあるので、これはこれで幸せな毎日であった。
それでよし子供を作ろうとカンナが声を上げ、ジャンは最初は不安いっぱいだったようだが、日本仕込みのエロ技術全開のカンナにいいようにそそのかされ、することしまくった結果すぐに妊娠する次第となった。
かつて前世の日本では男だった奏多が、今を生きる異世界では女のカンナとなり、男を愛するようになり、愛する男との間に子供まで作ろうとしている。
いったいこれはどういうことだろう?
けれどもカンナに不安はなかった。
日本より全然危険で、日本より全然遅れて未発達で、日本より全然不衛生で、日本より全然過酷なこの異世界で、カンナは自分が生きているという実感でいっぱいだった。
惚れた男に愛すべきお腹の赤ちゃん、気のいい村人に忙しい毎日。
カンナはまさに生きている。今この瞬間、名も知れぬ異世界のどことも知れぬ場所で、カンナはまさに生きている。
カンナは幸せだった。
カンナに不安は微塵もなかった。
ぼんやりと赤子が泣く声を聞いた気がする。
混濁した意識の中、出産は成功したのだという確信を得る。
不衛生で未発達な異世界で、赤子を生むのは命がけで、カンナの出産は難産で、カンナは意識もはっきりとせず、カンナは今。
カンナは今、自分の命がゆっくりと損なわれていくその瞬間を味わっていた。
赤子の命と引き換えに失う自分の命。
けれども不安はない。先ほど確かに生まれる赤子の泣き声を聞いた。子供は無事に生まれたのだ。
愛するジャンとの間の一粒種が、間違いなくこの世に生を受けたのだ。
何を心配することがあるだろう。
なにを恐れることがあるだろう。
カンナの望みはかなったのだ。
これ以上は高望みというものだ。
ああでも、願わくば。
生まれる子供が無事に元気に育ちますように。
幸せな人生を歩みますように。
素敵な伴侶と出会えますように。
最高の親友と出会えますように。
「……。」
カンナはゆっくりと瞼を開けた。
目の前には黒板があって、何やら不貞腐れた様子の古文の田中が教壇の上に立ち、むすっとした顔であらぬ方向を睨んでいる。
そこは今となっては懐かしい高校の教室で、あたりを見渡すとクラスメイト達の半分くらいが机に突っ伏しており、残りの半分がワイワイガヤガヤと騒いでいた。
「奏多が目を覚ましたぞーっ!」誰かが大声でそんな事を叫んだ。
「おおおっ!」みんなの声。
真っ先に駆け寄ってきたのがかつての親友、康介だった。
「目ぇ覚ましたか! 奏多! お前も死んだんだなぁっ!」
「はぁ?」声を上げたカンナが真っ先に感じたのは言いようのない違和感。まるで男のような声が頭の中に響く。
誰の声だ!?
混乱した頭が懸命に状況を理解しようと動き出す。
ややあって思い返す。これはそう、奏多の声だ。高校生だった志藤 奏多の声だ。カンナは今、奏多の声になっているのだ。
そんなカンナの混乱を気に掛けるそぶりも見せず、康介がまくし立てるようにして話しかけてくる。
「いやなんかさぁっ! 俺ら異世界転生したじゃん? それでなんか、死んだ順に現実世界に戻ってきてるみたいなんだって。なんか古文の田中が言うには、授業始まったとたんに俺ら全員眠り出して、それから順に一人づつ目が覚めてって、どうやら死んだ順から目が覚めるらしくて……。」
「うわあああああっ!」康介の話に割って入るようにして、叫び声を上げて身体を起こすものがいた。
サッカー部の安藤であった。
「安藤が目覚めたぞーっ。」
「どうした安藤ーっ。」
みんなの声にきょろきょろとなった安藤が、「いや、なんかオレ、ワイバーンに食われそうになって、いやマジで食われたと思って……。」
「はーい安藤くん。ワイバーンに食われて死亡ーっ!」誰かがそんな声を上げ、周りの何人かがパチパチと拍手をした。
「頼むから静かにしてくれ……。」古文の田中がぼやいたが、クラスの誰も気にする様子はなかった。
「ねぇねぇ奏多くん! 奏多くんはどうやって死亡したの?」
カンナに話しかけてくる女がいた。
ポニーテールをゆらゆら揺らして近づいてきたその女は誰あろう、長谷部あやかであった。
「いや、俺はその……。」なんとなく雰囲気にのまれ、ついつい事情を説明してしまうカンナ。
「えーっ!?」びっくりした顔になる長谷部あやか。「じゃあ奏多くん。そのジャンさんって人の子供が出来て、出産で問題が起きて、それで死んじゃったってことーっ!?」
長谷部あやかが大きな声でそんなふうにはやし立てる。
ワイバーンに食われた安藤に注目が集まっていた教室が、一斉にカンナの方へと向けられた。
「みんな聞いてくれよーっ!」康介が声を上げる。「奏多のやつ、TS転生だったんだって! むこうじゃこいつ、すんげー美少女だったんだって。しかもスゲーエロかったんだって! マジすごかったんだって!」
「マジで!?」興味を持った何人かがカンナたちの周りに集まってくる。
「マジでーす! あたしも見ちゃいましたーっ! 超美人でエロエロの奏多くん! しかもなんか康介くんとエロエロで。めっちゃエロい事しまくってるの、あたし見ちゃいましたーっ」
長谷部あやかが嬉しそうにそう言葉を重ねてくる。
「えーっ!」カンナが名前を思い出せない女の子が、顔を真っ赤にしながらもこっちを見てくる。
「いやーあの奏多はマジヤバかった。超かわいかった! 超エロかった! 思い返すだけでチンコ勃つわーっ。」感慨深げな康介。
「もう少し詳しく!」隣にいた同級生の男が興味津々といった様子で食いついてくる。
康介がさらに口を開く。
「いやーそれにしてもなに奏多。あのジャンってやつとガキまで作ったの? 妊娠? 出産? なにしてんの? お前それ、騙されてたんじゃねーの? なんかあいつ、軽そうでヤバい感じだったじゃん? おまえいいように遊ばれてたんじゃねーの? 大丈夫?」
「違うっ!」カンナは声を上げる。
「俺は奏多じゃねぇっ! カンナだっ! ジャンは俺の最愛の夫だ! 俺は望んであいつの子供を作ったんだ! 俺は……! 俺は……!」
カンナは気持ち悪かった。どうしようもなく吐き気がした。
男みたいな声が気持ち悪かった。
ごつごつした自分の手が気持ち悪かった。
自慢だったおっぱいがないのが気持ち悪かった。
股の間にぶらぶらしたものがあるのが気持ち悪かった。
ついちょっと前まで膨らんでたお腹が影も形もないのが嫌だった。
生まれたばかりのはずの赤ちゃんの気配すらないのが気持ち悪かった。
何よりジャンがそばにいないのが気持ち悪かった。
カンナは吐いた。
その場でげぇげぇと床に吐いた。
いつ食べたのかも覚えていない食パンの切れ端やらコーヒーやら、どうやら今朝の朝食らしきものが口から出てくるのが気持ち悪くてさらに吐いた。
どうして俺はこんなところにいる? 俺はこんなところで何をしている?
「大丈夫かよ奏多!」近寄る康介が気持ち悪くて、吐きながら手で追いやった。
「えーなんか、あたしらなんか奏多くんをいじめてるみたいじゃんー? えー? なんかかんじわるーいっ」
そんなふうに呟く長谷部あやかの声が聞こえた。
カンナにとっての一縷の望みは、もう一度修学旅行でバスが事故を起こし、もう一度あの愛おしい異世界へと転生できる可能性だった。
カンナたちの時間は修学旅行がある少し前の過去へと巻き戻っていたのだ。
だが、そんなカンナの望みはすぐに絶たれることとなる。
コロナウィルスとかいうカンナたちが聞いた事もない病気が世界中に蔓延しており、そもそもの修学旅行自体がなくなってしまっていたのだ。
クラスの誰かが「世界線が移動したんだ」などと話していたが、カンナにとっては知ったことじゃない。
SFだのファンタジーなどのお約束はどうでもいい。
カンナはただただ、ジャンに会いたいのだ。
こんな世界は知らない。
こんな世界はいらない。
俺の世界はここにはない。
ジャン。大好きなジャン。
真面目で心配性で、頑張り屋で独占欲が強くて、俺のことが大好きなジャン。俺が大好きなジャン。
ジャンと夫婦になれてよかった。ジャンの赤ちゃんを身ごもれてよかった。
俺はジャンにもう一度会いたい。
こんな糞みたいな世界じゃなくて、ジャンと生きた、あの死と隣り合わせの過酷な世界に戻りたい。
あの世界は異世界じゃない。この平和な日本こそが俺にとっての異世界だ。
俺が生きるべき場所はここじゃない。
俺はジャンと同じあの世界へ生きたい。
俺は……。
その日、志藤 奏多という一人の少年の命が地球上から失われた。
遺書は特になかったが、警察は自殺としてこれを処理した。
調査の結果から、彼がどうやら女性としての性自認をもっており、これについて高校のクラスの一部でからかいの対象であった事が分かった。
ただし、クラス内で彼に対するいじめなどの痕跡はいっさい確認が出来なかった。
かつて親友であったという丸山 康介という少年にはごにょごにょと何かはっきりとしない物言いがあり、叩けばホコリの一つ、二つ出てきそうな様子であったが、どのみち周辺人物の聞き込みだけでも状況証拠は出揃っており、一つ二つの新事実が発覚したところで大局は変わらないとの判断から警察は深く追求しなかった。
捜査は早々に打ち切られた。
これらの話は両親は全く寝耳に水で、驚きを覚えるばかりであったようだ。
彼の死の真相を知るものはこの世界のどこにもいなかった。
かつて同じ異世界に転生したクラスメイト達であっても、彼があの過酷な世界で何と出会いどう変わったのか知るものが一人もいなかったからである。
彼/彼女が命を絶つことによって望んだ夢、ジャンや子供との再会が叶ったのかどうかは、本作品で語られるべき事柄でもないので割愛させていただく。
こういったものは読者諸氏の自由な想像に任せるのが一番良いものであると作者自身の経験からよく理解しているからだ。
ともあれ以上にて本作品は終幕となる。
これが志藤 奏多のTS転生にまつわり作者が思いついたいっさいの全てである。
■あとがきに代えて
昨今の日本ではトランスジェンダーなんて言葉が声高に叫ばれているけど、別にLGBTな皆さんと仲良くしようって話ではなくて、肌が合わない場合、どうしても受け入れられない場合は距離を置きましょうって話のはずなんだけど、世間一般にいまいちきちんと伝わっていないような気がする。
カナタは狭義的にはLGBTではないけれど、カナタを気持ち悪いって感じてしまう康介の気持ちはまさにトランスジェンダー問題そのものではないかと思います。
気持ち悪いと感じてしまうのは仕方がない。
人間ってのはなんでも全てを受け入れられるようには出来ていないんだから仕方がない。
けどその後どうするかが難しいのよね。
ちゃんと上手に距離を取るのが難しいのよね。
頭じゃ分かっていても、だれだって瞬間的、局所的にはいつでも間違えてしまうだろうと思う。
少なくとも私は間違えない自信がありません。
だから本作品の康介君を見て腹が立ったあなた、あなたはいつか間違えますからね!
他人事のように康介君を悪く思うあなた、あなたこそが潜在的な康介君ですからね!
ただし長谷部あやか! テメーはダメだっ! テメーはもういっぺん死んで来いっ!
(長谷部あやかは本作品における作者の分身なので、皆さま好きなだけ悪く言ってあげてください。)
まあそんな事をつらつら考えつつ、カンナちゃん可愛すぎるわーっ、TS転生書いてて楽しすぎるわーってそれが本作を書き上げて一番の作者の所感であります。
男がTS転生してちょっとづつ性自認が女に変わっていく過程、その心理変化、これがどうしようもなくぞくぞくするTS転生の醍醐味なのですねぇ。いやこれは楽しい! どうしようもなく楽しい! 最高に楽しい!
それとこの手の話はついつい当事者だけで物語が進んでしまい、外縁情報が少なくなってどこで何してるかが伝わりづらくなりがちなんだけど、例えば辺境領のちょっとした裏事情や薬売りのおばさんや開拓村の村人などとの会話やフェンリルのエピソードや騎士団長の最後などをうまく混ぜることが出来て、わりと上手に立体的に世界観を演出出来たので、そのあたりも含め作者は大満足なのであった。
あー楽しかった。