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蒼衣さんのおいしい魔法菓子  作者: 服部匠
第一部
17/50

petit four3 チーズケーキに咲く花は(読み切り)

 それは、二月も終わりにさしかかったある日のことだった。

「鈴の音?」

 鈴の形をしたサブレを割った瞬間、チリリン、と鈴の音がした。サブレを手に持った男性が静かに首をかしげる。

「はい。割ったとき、鈴のような音がするんです」

「ふむ」

 五十代後半、強面の男性は太い眉をかすかに動かし、ベルサブレを口に運ぶ。一見無表情のまま咀嚼しているが、接客中で近くに立つ蒼衣には、確かに彼の感情が伝わってくる。

 驚きと興味深さ。魔法菓子への関心があることがわかるだけで、蒼衣は安心する。そして、改めてこの能力に感謝するのだった。

 本来の蒼衣は、察しのいい人間ではない。所謂「空気の読めない」タイプなのだ。他人の意図や要望がくみ取れず、それで苦労をした過去を持っている。

 だから魔法菓子職人になってこの能力が身についたとき、蒼衣は少しだけ生きやすくなったと思った。少なくとも、自分がお菓子を売るときは、相手のことがわかる。

 蒼衣が穏やかに接客できるのは、そういった事情があった。

「音はこんななのに、食感はほろほろしてるんだな。口の中で溶けていく」

「ええ。そのギャップもお楽しみいただけたでしょうか」

「魔法菓子ってのはもっとこう、派手なものかと思っていたが……なんだか手品のようだな」

 そうですね、と蒼衣は笑った。確かに、彼くらいの年齢のひとが想像する『魔法菓子』は、結婚式などの祭典で使われる派手な演出のものだろう。この辺り――名古屋周辺――は、派手好きと言われる土地柄もある。しかし『ピロート』の魔法菓子は、身近な小さな魔法、まさに手品のようなものだ。

「面白い。これならあいつの気も晴れるかもしれん」

 ベルサブレを食べ終えた男性は、声のトーンを落としてつぶやく。瞬間、男性の気持ちに影が落ちたのを感じた。

「お見舞いですか?」

 彼は自分のためではなく、誰かのためのケーキを選びにきたのだ。

「家内が入院していてな。少し気落ちしているものだから、甘いものでも持っていこうかと」

 そう言いながら男性はショーケースを覗く。しかし「俺は甘いものは得意じゃないから、いったいなにがいいのやら」とぼやいた。

「奥様がお好きなケーキは、ご存じですか?」

 蒼衣が尋ねると、男性はしばらく考えてから「確か、チーズケーキだ」と答えた。

「それなら、こちら『ブルーミング・チーズケーキ』です。下はベイクドチーズ、上にもレアチーズ風のクリームをのせた、二つのチーズケーキが楽しめる一品です」

 蒼衣はショーケースの中の一つを手で案内する。真っ白なチーズクリームの乗ったベイクドチーズケーキ。

 男性はケーキをじっと見つめた。

「これにはどんな魔法が?」

 一見すればシンプルなケーキである。男性が不思議に思うのも無理はない。

「それは――」

 蒼衣は魔法効果を説明した。それを聞いた男性は目を見開く。

「ぴったりだ。それを一ついただけないか」

 そして男性はお店を後にした。彼の心には『期待』と『願い』が浮かんでいた。蒼衣はそれを感じながら、彼の思いが届きますようにと祈らずにはいられなかった。

 

***


 病院の一室、窓際のベッドにいるのは、四〇代の女性だった。口を一文字にきゅっと結び、不安げなまなざしで窓を眺めている。

 サイドテーブルに置かれているのは『魔法菓子店 ピロート』の箱。先ほどピロートを訪れた男性が『ブルーミング・チーズケーキ』を取り出し、紙皿に乗せた。

「土産だ」

 ぶっきらぼうにベッドテーブルに置くと、女性が男性の顔を見た。

「珍しい、庄一しょういちさんがケーキを買ってきてくれるなんて」

「景気づけだ」

「魔法菓子ピロート? 最近、近所にできたところじゃないの。お高くなかった?」

 箱の店名を見て、女性……安藤知子(ともこ)は尋ねた。

「いや、見た目も値段も普通の菓子屋で、びっくりした。とりあえず食べてみろ」

「もう。急かさなくても、おいしく頂きます」

 知子がフォークをケーキに近づける。白いクリームに触れた瞬間、クリームの上に紫と赤のグラデーションが美しい、花の模様がにじみ出るように現れた。

「この形、ゼラニウムだわ。すごくきれい」

 知子の目が輝き、口元に笑みが浮かぶ。花の部分を切らないようにして、フォークを差し入れ、口に運んだ。

「……白いクリームはローズゼラニウムの香りがほんの少ししてる。甘みは蜂蜜かしら? 下のベイクドチーズケーキはレモンの風味がさわやかで、それが花の香りのクリームと合ってる。不思議なケーキ、とってもおいしい」

 ケーキを味わう知子は、先ほどの憂いさが嘘のように生き生きとしていた。それを庄一は無言で眺める。しかし、彼の顔にはわずかだが安堵の表情が浮かんでいた。

 しかし、次の一口を切ろうとする知子の手が止まった。じっと浮かび上がった花の模様を見つめている。やがて、フォークをテーブルに置いた。

「久しぶりに、花の香りを感じた。……早く、お店に戻りたい」

 真剣なまなざしと、絞り出すような声に、庄一は悟られないように奥歯をかんだ。

 知子は、この街にある花屋のベテラン店員だ。好きな仕事に就いているおかげか、病気知らずの健康体だった。しかし、四〇代に入ったころから、体の不調が多くなり、入退院を繰り返すようになった。

 そんな知子は、先日、手術を受けたばかりだった。無事成功はしたが、経過観察とリハビリのため、しばらくの間は入院生活が続く。

 このまま予後がよければ元通りの生活ができるが、そうでなければ、今後の治療と体への負担を考えて、仕事を辞めざるを得なくなるだろう。花屋の仕事は華やかではあるが、体力勝負な面もある。

 すぐに命を奪う病気ではないと医者は言う。体を気遣えば、普通の生活ができる……ただし、仕事は制限がかかると付け加えて。しかし、仕事を失うというのは、知子にとっては自分を失うのと同義語だ。

 仕事が生きがいの彼女は、それを恐れている。

 生きていてくれさえばいい、と伴侶である庄一は思う。しかし、自分も突然今の仕事を奪われ、それでもあなたは生きるのだと言われたら、今まで通りに生きられる自信はない。

「戻れるさ、絶対」

 庄一はそれだけ言い、知子の肩を優しく抱いた。普段は硬派を気取っている庄一だが、この数年病気に振り回されている知子が心配でたまらない。少しでも元気になるのなら、どんなことでもやってやろうと思っているのだ。

 知子もそれを知っているのか、しばらくの間身を寄せた。

「……ねえ庄一さん、ゼラニウムはね、昔は、薬に使われていたのを知ってる?」

 不意に知子が口を開いた。

「知らん、が、職人がそんなことを言っていた気がする」

 職人から『花』をモチーフにしたお菓子だと聞いたとき、運命の巡り合わせかと庄一は思った。

 チーズケーキが好きな彼女が、人生を捧げているのは花。これほど彼女に合うものはないだろう。

「気分を落ち着かせたり、鎮痛作用があるの。花言葉は、尊敬、信頼、真の友情。昔からひとを癒やし、元気づけてくれる花。だから、これを選んでくれてありがとう。私、リハビリもがんばるわ」

「ああ」

 穏やかに庄一が答えると、知子は再びフォークを手に取った。「花の部分を切るのは忍びないわね」と言いながら、二口目を口に運ぶ。

「それにしても、魔法菓子って不思議ねえ。真っ白だったクリームに、花の模様が浮き出るなんて。ほら、フォークの触れかたで花の大きさが違う。不思議~。どうやってるのかしら、魔法ってすごい、不思議!」

「そりゃ魔法菓子だから不思議だろう。あと、何回不思議と言えば気が済む」

「ロマンのないひとね。そういえば、庄一さんの分はないの?」

「俺はいい」

「そんなこと言わずに、ほら、あーん」

「やめろ、大人げない」

 一口大に切られたケーキを差し出される。しかし、庄一は首を振ってそれを避けた。

「庄一さんが食べてくれたら、私、もっと元気になれるかも。ほら、誰もいないわよ、ね?」

 にっこりと知子にほほえまれ、根負けした庄一は、辺りの様子をうかがう。同室の患者はどこかに行っているようで、知子の言うように誰もいない。

 カーテンを閉めた庄一は、口を開いてケーキをほおばろうとした。舌先にクリームが触れる。

 そのときだった。

「安藤さん、お加減はいかがですか?」

「うわっ!」

 閉じていたカーテンが開かれた。看護師が顔を覗かせ、驚いた表情で二人を見た。

 庄一は素早く口を閉じ、黙ったまますっくと椅子から立ち上がった。その間ほんの三秒もない。「あらやだ」と知子がおもしろそうにつぶやくのも無視して、帰り支度を始めた。

 あんなところを他人に見られるのはあまりにも恥ずかしい。今すぐにでも消えたかった。

「あれ、ご主人、もうお帰りですか?」

「聞いてくださいな、彼、私のためにケーキを……庄一さん、帰っちゃうの? 気をつけてね~」

 明るい知子の声を背中に受け、庄一は無言のまま病室を出た。口の中にころんと転がってきたケーキのひとかけらが溶ける。甘酸っぱさが、自分の恥ずかしさのように思えた。


***


「うん? 蒼衣、どうしたんだ、その花束」

 四月の始めのこと。

 外出していた八代が店に戻ると、蒼衣がピンクや赤の花がある、小さな花束を抱えていた。

「ああ、これ、先ほどお客様から頂いたんだ。前、うちのケーキを食べて、元気になれたからそのお礼だって」

「へえ、いいお客様だなあ。……あれ、この花、見たことあるぞ」

 八代が花束をのぞき込み、小首をかしげた。

「そう、これは『ブルーミング・チーズケーキ』の花、ゼラニウム。ケーキを気に入ってくださったんだって」

 一緒に来店した男性は、二月の終わりに来店した、入院している妻を想ってケーキを買っていったひとだった。

「うれしいね、こういうことがあると」

 喫茶のお客であれば、そっと近づけば気持ちがわかる。しかし、持ち帰りのお客がどう感じたかまではわからない。自分の作ったものが受け入れられるかどうかが不安な蒼衣には、心の底からうれしい出来事だった。

「そうだな」

 蒼衣は適当な空の洋酒の瓶に生けると、ショーケースの上に置いた。普段、きらびやかな装飾はしない店だが、花があるだけでも雰囲気が明るくなる気がした。

「しばらく飾らせてもらおう」

「おう」

 厨房に戻ろうとした蒼衣は、八代に気づかれないように、ちらりと花束を見る。蒼衣は「わかっちゃったのかな」と小さくつぶやいた。

 男性の妻であるそのひとは、花屋に勤めているのだという。彼女は蒼衣のコック服に刺繍された名前を見て、薄くほほえんだ。

 それが少し恥ずかしかったことは、八代には秘密にしておこう。

 ゼラニウムの和名は、天竺葵テンジクアオイ

 どんな効果にするかを考えていたとき、眺めていた植物図鑑で目についたのがゼラニウムだった。和名が自分の名前と一緒だという親近感と、リラックスさせる効果が気に入ったのだが、お客に知られてしまうとそれはそれで恥ずかしくなるのは、予想外だった。

 こんなことがあの八代に知られたら、話のネタにされるに違いない。くわばらくわばら、蒼衣は心の中だけでつぶやいた。

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