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春を待つ藤

春を待つ藤


「今日は激しいんだね」

 呼吸を乱す彼女は、搾り出すようにそう言った。

 スズちゃんを抱いているとき――僕は何にも置き換えることのできない幸せを感じていた。経験が少ないことが信じられないくらい、女性の魅力が十分に詰まった体。それだけではない。彼女は僕のことを深く好いてくれている。ハグした時の体温、手の力、漏れる声。口に出さなくても、手に取るように分かった。だから幸せだった。

「嫌じゃないよ。むしろ嬉しい」

 幸せを感じる時と同じくらい、自分が嫌いになる瞬間もあった。モデル並みのスタイルと容姿を併せ持つ美女が、僕に対して深い愛をもって抱き締めてくれる。そんな時に僕は、あろうことかほかの女性のことを考えている。

 こんなにも幸せなのに。

「わたしを飽きさせないように考えてくれてるんでしょ? ……勝手な思い込みかな?」

 そしてそのことを知ってか知らずか、スズちゃんは変わらず僕に微笑みかけてくれる。変わらぬ愛情を注いでくれる。僕はその幸せに度々溺れそうになるのだ。

 スズちゃんとと心ゆくまでしないのには、その幸せに溺れてしまったら、僕自身に嘘をついてしまうからだ。

すべてを忘れて、スズちゃんの愛に飛び込むことは簡単なことだった。彼女なら、僕のくだらない自己嫌悪も消してしまえる。並んで歩いているだけでも自慢できる、天使のように優しい彼女なら。

 けれど愛染さんに、藤村さんに会いたいという気持ちに蓋をすることは出来なかった。藤村さんへの想いは捨てきれなかった。

 分かっていた。これはスズちゃんにとっても、僕にとっても傷つく恋愛だ。それならばいっそ少しでも傷が浅いように、彼女の愛を受け取らないこともできた。

「達弥君」

 僕はそれをしなかった。何故ならスズちゃんが美しかったから。僕は藤村さんへの想いを胸に大事にしまいながら、スズちゃんを抱き続けた。そんな僕に彼女は、天使のように微笑みかけてくれるのだ。

「わたし、やっぱり達弥君が好きみたい」



「――ごめん」

 寝言で目覚めるなんていつ以来だろう――そんな悠長なことが浮かんできたのは、自分が置かれている状況を飲み込む前だった。

 公園のベンチに僕は横たわっていた。すっかり日も落ち、冷たい夜風が吹き抜ける公園。風よけなどはなく、常に風にさらされていたはずだったが、体はそこまで冷え切ってはいなかった。

 理由はすぐに分かった。薄汚れていてボロボロの毛布が、冬の夜風から僕を守ってくれていた。

 毛布の持ち主を探すが、周りを見渡しても人の姿はなかった。次第に状況の整理がついたのか、財布とスマートフォンがあるのを確かめるくらいの冷静さも戻ってきた。

 毛布の持ち主が戻ってきたのは、スマートフォンの時計を確認してから十五分ほど経ってからだった。

「思っカより平気そうだな」

「……やっぱり師匠でしたか」

 シゲオさんが僕の前に現れたとき、心底ほっとした。変わらぬ薄汚さと、変わらぬ滑舌の悪さ。こんな時でさえ酒の匂いがする。

「でもよくこの場所が分かりましたね」

「都内の公園は全部俺の別荘みカいなもんだ。〝同業者〟ならともかく、知らない奴が倒れてるなんケ情報、俺の耳に入らないわけがない」

 自慢にもならないことを得意げに語るシゲオさん。

「ハハッ、頼もしいですね」

 僕は、思ってもいないことを言えるほどにまで心の余裕が生まれていた。

「しかしこの様子だと、思い描いていたハッピーエンドにはならなかったみカいだな」

 と言ってシゲオさんは僕の隣に座った。

 僕はことの顛末を、その時々の自分の心情も交えて話した。語っている僕が次第に感情的になったのもあって、まとまりのない長話になった。

 悲しさと悔しさがありったけ詰まった話は、最後は自分への怒りで締めくくられた。その間、シゲオさんがひと言も口を挟まなかったおかげで、ストレートに感情をぶつけることができた。倒れてしまうくらい走ることしか出来なかった僕は、改めてここにいるシゲオさんに感謝の気持ちが沸いてきた。

「そういうこコか」

 シゲオさんがようやく口を開いた。ひょっとしたら聞いていないのではないかと危惧していたが、取り越し苦労だったようだ。

「僕、どうしたらいいんでしょう? 自分で自分が分からないんです」

 彼に言ったところでどうしようもないことだと分かっていながら出た言葉に、清々しいほどの無責任さを感じた。「知らないよそんなの」と鼻で笑って返されるのがオチだ。

 シゲオさんの口から出た言葉は、僕の予想に反するものだった。

「それでいいんだよ。世の中の人間、皆そんなもんだろ」

 と言って、いつから持っていたのだろう、酒のカップをひと口煽った。

「それが分かりゃ、この世に俺みカいな人間はいないよ」

 確かに、と心の中で呟きながら僕は頷いた。

「俺がこんなになっカのも、お前と同じような理由だよ」

「え? そうなんですか?」

「時代もあるし細かいコころはいろいろ違うが、大筋は一緒だな」

 へえー、と僕は大きく息を吐く。

「言っカろ? 『俺みたいになるな』って」

 と言ってシゲオさんは笑った。僕もそれに続いたが、自分でも上手く笑えているとは思えなかった。

「で、どうするの?」

 その問いにすぐには答えられなかった。シゲオさんは続ける。

「一応ではあるが望みは果カしたんだ。続けるのか、辞めるのか」

「僕は……」

 藤村さんに再開するという目標を遂げた今、僕に残されたのは男優界の四天王に匹敵する技だけだった。幾多の女性を気持ちよくさせたこの技を会得できたのは、僕にとっての財産と言っても良い。

藤村さんもまた、僕の手によって快感を得た女性の一人だ。だが、彼女にしてみればそれはあくまで表面的なもので、心の中を満たすまでには至らなかったらしい。

「仕事は辞めます」

 社長には申し訳ないし、竹中さんにも恩を返せていない。でも、藤村さんを救えなかった時点で僕がこの業界にとどまる理由もないと思った。

「そう言うと思っカよ」

 シゲオさんは立ち上がり、僕の方に向き直った。改めて何か言うかと思ったが、

「どけ、ここは俺の寝床だ。一般人は帰ってくれ」

 僕から毛布を剥ぎ取って、ベンチから追い出した。

「約束しただろ。お前は俺みたいになるな。親みたいなことを言うが、ちゃんと学校には行けよ。ホームレスと交流があったことも、男優やってたこともなかったことにしろ。お前は今から、俺らとは何の関係もない、ありふれた大学生に戻るんだ」

 そう言うとシゲオさんは毛布にくるまり、僕に背を向けるように横になった。

 吹き付ける風も相まって、「冷たいな」と一瞬思った。僕はシゲオさんに視線を向けたまま、後ずさりするように公園の出口へと向かっていく。何かひと言告げようと考えるものの、いい言葉が見つからないまま出口に差し掛かってしまった。

 ここを出れば、もうシゲオさんとの関係も終わり――そう考えると、足が止まってしまった。さっきの冷たい言葉も、彼なりの優しさであることは、出口に着く頃にはとっくに気づいていた。

 捻りのない、ありふれた言葉が浮かんだ。

「ありがとうございました!」

 僕は踵を返し、公園を去った。

 夜の公園でひとりのホームレスが、僕の背に手を振っていたのを僕は知らない。


     6


 僕は浅倉達弥。どこにでもいる普通の大学生だ。

 僕の通う学校は、全国ネットのテレビ局が取材に来ることも多いため、都内のみならず全国的に名の知れた私立大学だ。近頃は、駅伝の特集で陸上部のあるキャンパスにマスコミが集中しているらしく、こっちは大分静かだ。それでも、タレント活動しているミスコンの準グランプリや、プロ注目の選手を擁する野球部の取材なんかでテレビカメラを見かけることはある。

 平凡な僕には縁のない世界なのだろうけど。それでも、全国からスポットライトを浴びる有名人を間近で拝めるというのは、なかなかない経験だろう。華々しいキャンパスライフとはとても言えないが、それでも充実した日々を過ごしている。

 僕は食堂で早めの昼食をとっていた。比較的空いているこの時間を選んだのは、いつもの場所を確保する為だ。とは言え、学生の数の多いこの学校では、食堂が空になることはないらしい。食事をしないで談笑に花を咲かせている人もいるようで、それなりの賑やかさを見せていた。どこかの席では、若者の間で話題の音楽を動画サイトから流し、数人で囲んで視聴していた。女性アイドルらしからぬちょっと下品な曲で、グループ名も曲名も知らないが、聞き覚えはあった。

 遠くから流れてくるその音楽に密かに耳を傾けていると、ひとりの男が僕に声をかけてきた。

「よう! お疲れ」

 相内新。僕の大学内の唯一の友人。顔も人当たりも良く、とにかく友達が多い。結果断ったのだが、ミスターコンへの出場を頼まれるくらいだ。尚、断った理由としては「浪人してるのが恥ずかしい」かららしい。

「別に疲れてないよ」

「嘘つけよ。お前今日も例に漏れず疲れた顔してるぞ」

 相内にそう指摘され、僕は〝自分ナレーション〟をやめた。

 沈んだ気分を少しでも上げようと、さも自分が物語の主人公であるかのような紹介を脳内で繰り広げていたのだが、やればやるほど虚しさが響くだけだった。

「彼女のことか?」

 その答えに言い淀んでいると、相内は何かを察したような表情を浮かべた。

「贅沢な悩みだよなー、うちのミスのグランプリに勝った女なのに」

 相内は、ミスコンの全国大会を引き合いに出してそう言った。

「らしくないよ。そんな短絡的なこと言うの」

 ガールフレンドが美人だから贅沢だと言うのだ。今までの相内を知っている以上、そう思ってしまうのも無理はない。

「……そうか。気分悪くしたらゴメンな」

「いや、いいんだよ」

 と僕は顔の前で手を振る。相内の発言は間違いではないから。

『愛よ』

 仕事を辞めてからも、藤村さんの言葉は何度でも蘇ってくる。初めて味わう失恋みたいなものだと自分に言い聞かせても、そう簡単に受け入れられるものではなかった。真面目に学校に通っても、違うバイトを始めても、スズちゃんとデートしても――

『愛よ』

 あの日の台詞が蘇る。

『あなたはわたしのことを理解しようとせず、ただ欲求を満たしていただけなのよ』

しまいには蘇るどころか、言っていないことまで付け加えられて夢に出てくる始末だ。疲れた顔にもなる。バイトでも失敗するし、授業も上の空。成績も前期より落としてしまった。しかし何より、スズちゃんに心配されることがいちばん辛かった。

 全国のミスコンのグランプリを集めた大会の関東予選で、五位になるほどの美人が、僕みたいな男のせいで浮かない顔をするのだ。整った笑顔を僕ひとりが台無しにしている。それが苦しい。――嫌味に聞こえるから、こんなこと誰にも言えないが。

「合コン開こうか?」

 僕に気を利かせて、相内は提案する。彼女いるから誘ってこなかったけどさ、と続ける。彼はほんとに〝イイヤツ〟だと、心から感動した。

 彼の好意を踏みにじるようで心が痛いが、僕はゆっくり首を振った。

「そうか……。じゃあ、落ち着いたらまた遊ぼうぜ」

 相内は笑って僕の肩を叩いた。

 ああ、こういう〝イイヤツ〟が物語の主人公なんだろうな――彼の笑顔を見て僕はしみじみと思った。

 著名な女子アナウンサーが来ていること、その人からインタビューを受けたこと、近くで見るとそんなに美人じゃなかったことを、持ち前の話術で面白おかしく僕に伝えてくれた。悩んでいたはずの僕だったが、大いに笑わせてもらった。

 先にこの場を立ったのは僕だった。本心はもっと彼の話を聞いていたかったが、彼が優しいせいで、悩みを抱えている自分がちっぽけに感じてしまう。

「ありがとう。じゃあまたね」

 と言って主人公に手を振った。

「おう。バイト頑張れよー」

 相内は爽やかな笑みで僕を送り出した。その整った顔立ちを見たときに、僕は考えを改めた。昨今の人気漫画や小説の主人公と比べたら――容姿や性格など――彼は色々と揃いすぎているのではないだろうか、と。完璧人間・相内は、主人公のライバルであり理解者の役が似合っている。

「すみませーん、ちょっとお時間よろしいですか?」

 どこかからそう声がしたかと思うと、数人の足音が近付いてきた。振り向くと、三人の大人の姿がそこにあった。内一人は僕もよく知る顔だった。

「大学生の方にインタビューをしているんですけれども、ご協力願えませんか?」

 相内が言っていた〝あの〟女子アナだった。近くで見ても十分美しかった。何を根拠に彼はそんなに美人じゃないと評価したのだろう。

 テレビで見る著名人を前に僕は、言葉もなくただ頷くことしかできなかった。

「ありがとうございます。では早速、お尋ねします」

 緊張する中で、何を聞かれるのか予想してみた。概ね、元旦の駅伝での活躍が期待されている、箱根路のプリンスこと甲斐教平にまつわる質問だろう。

アナ「世間の甲斐フィーバーを、同じ首都国大生としてどう思いますか?」

僕「同じ大学の生徒として光栄に思います。まあ、接点は全くないですけど」

アナ「メッセージがあれば、あのカメラに向かってひと言お願いします」

僕「今年の駅伝も、活躍を期待してます。頑張ってください!」

 ――とまあ、流れはこんな感じだろうと脳内で想像を膨らませた。

 が、この女子アナが口にした質問は、僕の想像を裏切るものだった。

「今若者の間で話題の女性ユニット〝下克嬢〟の楽曲〝枕営業もドンと来い〟ですが、ご存知ですか?」

「は? 下克上、えっと……」

 きっと、どこぞの大学のミスコンに出ていたであろう美人の口から〝枕営業〟という台詞が出たことで、僕の脳の処理活動は一時的に停止された。

 僕は浅倉達弥。どこにでもいる普通の、ちょっと流行りものに疎い大学生だ……。



「シーズンのホット、ショートでナッツ抜き、お願いします」

 カウンターからの指示に、僕は「ハイ」とも「オイ」ともつかない返事で応えた。

 新たに始めた○△珈琲でのバイトは、自分が思っていたよりはずっと楽しかった。この言葉はあまり好きではないが、相内の手によって見事に〝大学デビュー〟を果たした今の僕は、フレッシュなこの職場でもそれなりに順応することが可能になっていた。

 そのきっかけのひとつが、このカフェの人気メニューのひとつでもあるショートケーキだった。安価とはいえ技術が求められるそれは、作る人はアルバイトではなく社員でないといけないという決まりがあった。やむを得ない事情で、僕がスポンジケーキに生クリームを塗る作業を任されたとき、いつかの修業の成果を存分に発揮してしまったがために、今ではこのメニューにのみ限り、僕は社員と同等の扱いを受ける運びになったのだ。

「何でここまでキレイにナッペできるわけ?」

 社員のひとりがそう尋ねてきたときは、何と答えてよいものか悩んだ。女性をイかせるソフトタッチを習得するために素手で塗る修業をしていた、なんて冗談でも言えない。

 返事はしたが、僕はドリンクを作らなかった。ついさっき、店長から買い出しを頼まれたからだ。食器を洗うスポンジやゴミ袋などの消耗品の買い出し。聞く所によると僕は、店長から『アルバイトのくせに社員の仕事にしゃしゃり出る鬱陶しい大学生』くらいに思われ、冷遇されているらしい。

 でもそれだけでは辞める理由にはならないので、店長には申し訳ないがしばらく続けさせてもらうつもりだ。相内とは違う店舗だが、彼を知るバイト仲間も多く、居心地は悪くない。買い出しだって、外の空気を吸えるという意味ではいい息抜きにもなる。依頼を二つ返事で引き受けた僕は、制服の上にコートを羽織って外に出た。

 いつも利用しているホームセンターは、だだっ広いだけで平日の客入りはとても良いとは言えない。そのお陰で目当ての買い物はあっという間に終わった。僕は店内を物色しながら、店内に流れる音楽に耳を傾けていた。知っている。下克嬢だ。

「枕も仕事だドンと来い。弱みは見せるなドントクライ――」

 家族連れで来るようなこんな場所でも流れるのだから、彼女らの人気は確かなのだろう。下克嬢は、総勢三〇名からなる女性アイドルユニットで、驚くことにメンバー全員がセクシー女優だ。セクシー女優がユニットを組んでいることは前々から知ってはいたが、それが街中で流れる〝それ〟だと知ったのは、大学で受けたインタビュー、ついさっきのことだった。

そして、今流れている楽曲のセンターを務めているのが泉川万結華である。

「(人気アイドルのセンターとヤったことあるって、すごいことだよな)」

 僕は思った。勿論、声に出すなんて馬鹿な真似はしない。

 遅れて知ったことがもうひとつあった。センターを務める泉川さんは、結成当初はまだいない、いわば途中加入だ。結成時にいたメンバーを一期生とし、彼女は二期生にあたる。そして、彼女と同じ二期生の中には、演技派女優・愛染ゆかりもいた。

 泉川万結華よりもソロパートは少なく、この曲に関して言えば二番のサビ前のワンフレーズのみが愛染ゆかり唯一の見せ場である。まるで興味のない資材コーナーを巡りながら、そのパートが訪れるのをずっと待っていた。

 外はすっかり冬の気候だ。空気は冷たく、吐く息も白くなる。道行く人も皆々、寒さ対策万全の装いだ。

 もうすぐで愛染ゆかりのソロパート――というところで、僕はひとりの通行人を思わず目で追ってしまった。

「藤村さん……!」

 迷うことなく、僕は店を出てその人影を追った。買い出しの途中だし制服は着ているしと、考えることはいろいろあったがとりあえず後だ。無論ソロパートなんて今は気にしていられなかった。

 一定の距離を保ちつつ、バイト先と真逆の方角へと歩いてゆく。今は後ろ姿しか見えないし、顔を見たのもあの一瞬。それでも、その後ろ姿が藤村さんであるという確信めいたものがあった。

若者を中心に大流行中のユニットのメンバーとは言え、彼女個人は後ろ指を指されるまでの知名度には至っていないようだ(ちなみに人気があるのは、抜群の美ボディとルックスを誇る泉川さんと、グループ一のダンスの腕前と年長者ならではの機転の良さを誇る守矢さんだ)。例によって地味な服装で変装もしていないが、ひょっとしたら街に紛れるためにあえてこの格好を選んでいるのではないかとさえ考えてしまった。

 彼女が駅に入っていったところで僕の足は止まった。金はある。だが店の金だ。流石にその金に手を出してまでアイドルを尾行するほど軽率な男ではなかった。それに時間も時間だ。

 藤村さん(であろう女性)が駅の奥に消えていくのを見届けてから、回れ右をした。

「純情ポイして掴み取れ。サヨナラ輝ケル青春――」

 そして僕は、愛染ゆかりのソロの一小節を口ずさみながら、バイト先へと向かうのであった。



 翌日に藤村さんを再び発見できたことはとても大きな成果だった。

 念には念を入れ、始発の電車が来る時刻に、前日に彼女が利用した駅の前で張り込んでいたのだ。賭けに近い方法だったが、彼女の姿を見つけたときは、飛び上がって喜びの雄叫びを上げたい衝動に駆られた。

 衝動は胸の内にしまい、彼女が駅に入った後に僕もそれに続いた。目的地がどこであってもいいように、多めに現金チャージしてある。ICカードが流通しているこの時代に生まれて良かったと心から思った。

 泉川さんにも行ったような、背後に音もなく忍び寄ることを何度もやってきたおかげか、それとも自分の生まれ持っての存在感のなさのおかげか。僕は自分の気配を消すことに長けているらしい。改札を抜け、ホームに降り、電車に乗っている現在、まだ気づかれている様子はない。

 最早何者かから指定されているのではないかと勘繰ってしまうくらい、彼女の私服は今日も地味だった。シンプルなんて調子のいい言葉では片付けられない。

 バレないように離れた場所で彼女を見張っていたら、彼女が降車するまで電車に揺られている時間を気にすることはなかった。そこは馴染みのない駅名で、都内に住んでいなければその名を知ることがないような場所だ。

 彼女はその駅の改札を抜けると、脇目も振らず進んでゆく。快速も止まらない小さな駅である為、紛れる人の数が乏しい。振り向く様子はないものの、ここからはより慎重な尾行が求められる。

 一定の距離での彼女の後ろ姿からは、何故か色々な感情が思い起こされた。始発の時刻に間に合うように、夜明け前に目を覚めさせられる寝覚めの良さ。電車内では、吊り革を中指と薬指で持ち、時折片足立ちしたりしていた。これらは全て無意識で、いずれもあの修業によって身についてしまった癖だ。あの後ろ姿の女性を追いかけるうちに身に付いた癖だ。藤村さんと再会を果たす前から、藤村さんの幻影を追っていただけの時から、既に僕の体は藤村さんの手によって変わってしまっていた。

 今の僕を形作っているのは、僕の前をゆく、地味で、だけど美しいあの後ろ姿美女だった。

 彼女は、大きな建物がある敷地の中に流れるように入っていった。駐車場への侵入を阻む発券機のバーの横をするりと抜けると、まるで自分の庭であるかのように駐車場をズンズンと歩く。僕は彼女の進行方向を確認すると、違う入口を探した。程なくして見つけた正規の人間用の入口を抜けて歩道を歩き、彼女を追った。

 ここは総合病院だ。建物こそ新しいが、入口横の病院名が刻まれた門柱からは、古くからの歴史を感じた。

 目的地がここなのであれば、僕の胸に今不安がこみ上げたのも無理はない。病院なんてものから、プラスのイメージを抱くことなんて出来ないからだ。体のすぐれない人間が行く先が病院だ。彼女が心配だ。

 病院のロビーは人でごった返しており、僕は自然にその場に溶け込むことができた。何食わぬ顔で闊歩し、受付で何かをする彼女に近付いた。

「面会ですね。藤村様の病室が603号室になります」

 経験の浅そうな若い事務員が丁寧に説明してくれたお陰で、彼女の目的地を知ることができた。何度も来ているのか、藤村さんは

「はい……はい……」

 と、無感情な相槌を打つばかりで、面会の注意事項まで説明する事務員の顔を見る様子もなかった。

 やり取り(と言っても受付側からの一方通行だが)を終えた藤村さんが素早くターンするので、僕は慌てて視線を外し、気配を消した。さっき見た館内の地図では、エレベーターのある方向に向かっていた。僕はその横の階段から六階に上がるという選択肢を取った。受付も何もしていないが、誰からも声をかけられないあたり、上手い具合に溶け込めているらしい。

 ここは外観もそうだが、中身もまた新しい。人通りのそう多くない階段でさえ、隅まで掃除が行き届いている。清掃員の仕事ぶりに感動していたら、六階まであっという間だった。

 休憩所の自販機でミネラルウォーターを買って、手前の隅の席に腰を下ろす。

 現時点で判明したのは、藤村さんがお見舞いに訪れた患者は、彼女の母親だということだ。病気か怪我か――そこまでは分からない。そればかりか、福岡住まいである筈の彼女の母親が、都内の病院に入院していることも謎だ。

 分からないことだらけだが、彼女が病院に頻繁に通っていることと、その相手が母親であることが知れただけでも、この長い尾行は価値のあるものだった。

 不自然に長時間滞在して怪しまれるのは避けたかったので、飲み終えたら帰ろうと決めた時だった。ひとりの白衣を着た男が休憩所に姿を見せた。そこまでは何でもないことだったが、医師と思われるその男に続いて現れたのは、あろうことか藤村さんだった。

「まあかけてください」

 男が着席を促したのが奥の窓際の席だったのが幸いだった。忍者さながらに気配を消し、ふたりの視界から姿をくらませた。

「――の――は――です。手術も都合によりますがいつでも――」

「ありがとうございます」

 距離も離れている上に聞き慣れない用語が入り混じっているのもあり、全てを聞き取ることは出来なかった。

「手術自体はそれほど難しいものじゃないです。問題はご本人の気持ちと、術後のリハビリ次第ですね」

「気持ち?」

「お母様の『歩けるようになりたい』という意思、と言ったらいいのかな。医者の僕が言うのも変ですが、結局は患者さんの気持ちの強さなんですよ」

 事故か病気か、藤村さんの母親は今歩けない状況にある。

「それと……」

 と医師が言葉を切り出すが、その先を言い淀む。

「どうしました?」

 藤村さんは聞き返した。医師は顔をしかめながら「嫌々」といった風に、重々しい口を開いた。

「その……手術費用はどうなってますか?」

 声をひそめて言ったが、耳に神経を集中させた僕にはハッキリと聞き取れた。

「ああ、お金ですか」

 と藤村さんは笑い、渋い顔の医師とは対照的な表情を見せた。

「問題ないですよ。最近新しい仕事も任されたので」



 ここまで長い時間タクシーに乗っていたのは、自分ひとりでは初めてのことだった。行きの電車と比べて費用はかさんだが、僕にとってそんなことは大きな問題ではなかった。

 帰りの道中、僕はひとりの女性に電話をかけた。

「もしもしー。達男さん?」

 守矢さんだ。

「お久し振りですー」

「久し振り。ゴメンね急に電話して」

 帰りの手段にタクシーを選択した理由がこれだ。公共の乗り物内で電話できる程、僕は面の皮の厚い男ではなかった。

 守矢さんに電話した理由は、言うまでもなく藤村さんのことについてだ。セクシー女優界のお姉さん的存在である彼女なら、藤村さんの事情も知っていると踏んだのだ。

「ああ、ゆかりちゃんのことですか」

 と守矢さんは、電話越しでも伝わるくらい、いかにも知っていそうな雰囲気をまとった声で返した。

「あの子は――」

 守矢さんは語り始めた。彼女の口から語られたそれは、僕の知らない藤村さんの――ひとりの女の子の物語だった。

 ――福岡のあるところに、助産師を夢見るひとりの女の子がいた。

 彼女に兄弟はおらず、家族は母親ひとり。けれど、母の愛情いっぱいに育った彼女には、寂しい気持ちはなかった。

 成長していくうちにいつしか彼女は、愛を〝受け取る〟側から〝与える〟側になりたいと願うようになった。その気持ちが、助産師という夢を抱くきっかけとなっていた。

 高校二年生になったある日、彼女は打ち明ける。「看護学校に行って助産師を目指したい」と。そして彼女が見せた学校の資料は、東京の学校だった――。

「それにお母さんが反対した?」

「〝愛ゆえの〟反対ですよ。たったひとりの娘を東京に行かせることは、お母様的には許せなかったんだと思います」

 僕の言葉に、守矢さんは言葉を加えて訂正した。

「ゆかりちゃんも後悔してました。『わざわざ東京に行かなくても学校はあったのにー』って。あの時は東京に憧れもあったらしくて、反対されたときは全てを否定された気分でお母様を憎く感じちゃったんですって」

 それが久し振りの母親との喧嘩だったらしい。夢や憧れを否定され(本当はされていないのだが)、傷ついた藤村さんは、そのまま家を飛び出したという。

 だが彼女には行くあてがあったわけではなかった。友人の家に匿ってもらう厚かましさがなかったからだ。結局近くのバス停前のベンチに腰掛け、ほとぼりが冷めるのを待つだけだった。

 冷静さを取り戻すのが先か、充電が切れるのが先か――そんなことを考えながらスマートフォンをいじっていると、遠くの方からサイレンの音が聞こえてきた。ふと画面から目を離すと、目の前の道路はこの時間帯には珍しく軽い渋滞が発生していた。

 警察から着信があったのは、その少しあとのことだった。

「バイクに乗った男にひったくりに遭って、転んだところを後ろから来た車に撥ねられたんですって」

 それは、僕が知る内でも最悪の事故だった。言葉が出ない。

「元々学校行きながらバイトやってたけど、その事故をきっかけにバイトを増やしたらしいです。で、次第に量こなすよりも稼ぎのいい仕事を探したほうがいい、って考え始めて、この仕事にたどり着いたんですって」

 辛うじてできるのは、守矢さんの説明に相槌を打つことぐらいだった。

 タクシーの窓は徐々に見慣れた景色を写すようになった。それに従って料金メーターの数字も上がる。今の僕には、住まいに近付いていることにも、料金が少しずつカウントされていることにも、全く興味を示さなかった。スマートフォンを耳にあてがったまま、守矢さんの声を聞き流し、どこを見るでもなく、容易に想像のつくその後の藤村さんを想像する。

 電話を終わらせたことも、タクシー代の精算も、何もかも曖昧なまま僕はマンションに着き、部屋に帰った。

 上着を投げ捨て、座椅子にとこたつの間に素早く体を滑り込ませる。この部屋ではいつもこのような体勢で冬を過ごすので、考えるより先に体が動く。事実、鍵を開けてからこの体勢に行き着くまでは、無駄のない滑らかな動きだった。

 吊るされたティッシュ、紐のついた重り、ヨガや総合格闘技の本――浅倉達弥というひとりの冴えない男を、チェリー達男に変えたものたちが、無秩序に散らばっていた。もうチェリーには戻らないと決めた僕には、それらは全て価値のないものとして映っていた。

 決して無駄なものではなかった。結果はともかく藤村さんに会うことができた。それだけでも、カンフー映画好きのホームレスの修業とやらに付き合った価値はあった。何もない、空っぽだったこの部屋に彩りが加えられたのも、そのおかげと言って良いのではないだろうか。

 カチャン。そう音がしたのはキッチンの、それも冷蔵庫の方だった。見ると、メモやらピザ屋のチラシやらを挟んでいた磁石が落ち、床一面に紙類がばら蒔かれていた。

 ため息をひとつついて、やっと温まり始めたこたつから足を抜くと、そのままキッチンへ行き床の紙拾いを始めた。

 目に留まったのは、飾り気のない一枚のメモ用紙。

 家族からの手紙だった。ゴミと一緒に処分することが多く、唯一残しているそれにも特別深い理由はなかった。ただひとつ、父からのメッセージがあるというだけだった。

〝たつや 元気でやってるか 何も勉強がすべてじゃない だれかにしたがうばかりじゃなく自分の信念にしたがって行動しなさい 遠くでおうえんしてます 父〟

 僕は何度も、その文字を読んだ。読んで、胸の奥で噛み砕いた。

 信念って、何だろう。少なくとも、無気力に大学に通ってバイトをする今みたいな生活は、自分の本意ではなかった。僕のやりたいことは、今の生活の中にはない。

 僕は気付いてしまった。気付いて、またひとつため息をついた。それは、とても回り道の、面倒なことだったからだ。折角有名私大に入学し、美人なガールフレンドを作り、人気のアルバイトも始めたのに、下手すればそれら全てを失ってしまう危険性をはらんだ道だった。

 時計を確認し、立ち上がった。あの本屋はまだ空いている時間だ。

「親って何でもお見通しなのかな」

 そう言うと、こたつの電源を切るのも忘れて家を飛び出した。


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