桜咲く
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桜咲く
僕は頭の回転が鈍い。瞬時に気の利いた言葉も出なければ、勉強に対する理解も遅い。だからこそ、僕にとってメモは必需品だ。理解できてもできなくても、とりあえずノートを取ることを怠らない。後で読み返して理解できればいいのだ。だから自分は、この学校の生徒の内では誰よりも勉強に費やす時間が長いと自負している。勉強が好きだからじゃない。勉強が苦手だから。
再度電話をかけたとき、竹中さんはひどく驚いていた。それは、電話越しでも分かるくらいに。僕がその仕事を引き受けると聞いたときはもっと驚いていた。
「驚く理由が分からないのですが……」
予想外の反応に、僕も困惑してしまった。
「いや、てっきり怒っているもんだと。こっちは謝罪の準備もしていたのに」
謝罪――僕の頭の中でその言葉がこだまする。
とにかく一度会って話したいと言われ、僕らは初めて会ったファミレスに集まる約束を交わした。
謝ってほしいという気持ちは微塵もなかった。むしろ感謝したいくらいだった。遠くから見ているだけで終わってしまった恋を、また始められるきっかけを作ってくれたのだから。
「変だよ、変」
喫煙席に案内されるやいなや、タバコに火を点けた竹中さんはそう一蹴した。この日の服装はどこか落ち着いている。着こなしは前回と同じだが、白シャツやグレーのジャケットなど、色合いが地味だった。
「そうですか?」
僕は首を傾げるほかなかった。
「確かに予想外の形だったので戸惑いこそしましたが」
「『戸惑う』でまとめられる話じゃないと思うけどなあ」
「はあ」
「……俺が言うのもおかしな話だけどさあ」
竹中さんは渋い顔で切り出す。そしてすぐさま俯く。後ろめたい気持ちでもあるかのようだ。
「俺は、君を騙したんだよ?」
〝愛染ゆかりの世直し忍法帖 秘術・童貞狩り〟――少子高齢化問題を抱える現代の日本にタイムスリップしたくノ一が、その原因のひとつである、異性との関わりのない男を手当たり次第に相手し、〝成敗〟する――。ツッコミどころの多い内容だが、竹中さんが何より引っかかったのが、その〝成敗〟される諸悪の根源を、完全な素人の中から探さなければならないことだったという。
「元々無理のある企画だったんだよ。童貞なんてそうそう見つからないし、AVに出たいなんてもの好きなんているわけがない。だから、曖昧な広告で釣るしかなかった」
「そうだったんですね」
本当はもっと〝文学的〟な作品を撮りたかったよ、と竹中さんは小さく続けた。
苦しそうに話す竹中さんが可哀想に思えた。僕の相槌から同情を感じ取ったのか、竹中さんは顔を上げる。
「まるで他人事だな」
「怒ってほしいんですか?」
「そうじゃないけど、調子狂うんだよ。裏があるんじゃないかとも疑ってる」
怪訝そうな顔でこちらを見る。
「で、どうしたらいいんですか? プロになるためには?」
僕は本題に戻す。手元にはペンとメモ。
彼女に会うため。彼女に想いを伝えるため。何が出来るか考えたら、彼女と同じ世界に身を置く以外に答えが浮かばなかった。
「……」
竹中さんは何も言わず、じっと僕を見る。僕はそれを真っ直ぐ見つめ返す。彼が何かを見極めようとしているのであれば、むしろ好都合だ。僕の本気を分かってくれれば、話は早い。一瞬たりとも逸らさず、真っ向から竹中さんと向き合った。
先に視線を外したのは竹中さんで、はあっとひとつため息をついた。
「説得にも応じなそうだな」
苦笑交じりにそう言った。
「多分、応じないでしょうね」
釣られるように僕も笑む。
「リスクは承知かい?」
「勿論です」
「……分かった。じゃあこの業界の基本を教えるから、あとは自分で何とかするんだよ?」
「ありがとうございます!」
僕は持っていたペンを強く握り直した。
『男優になるのは簡単だ』
――そう竹中さんは言った。事実、その通りだった。男優が所属する事務所に応募し、面接をパスすれば晴れて男優の出来上がりだ。近頃は人手不足だから落とされることはまずない、と竹中さんは言った。
ここまでの動きは実にスムーズで、竹中さんと別れた後は、まるで自分の体が意思と無関係に動いているかのようだった。意思が追いついた時には、僕は事務所で社長と面談を行っていた。
――じゃあ、名前をどうしようか。
唯一滞ったのが、面接をしてくれた社長がふとそうこぼした時だった。
「名前か」
落とし穴だった。この業界のことは何も知らなかったが、流石に本名で活動することが恐ろしいことであることはわかっていた。
「タツヤ……タツ……立つ……違うな。浅倉……アサ……朝、立つ……」
社長は何かをひねり出すように、しきりに僕の名前を呟く。
これまであだ名のひとつもつけられたことのないのは、ずっと自分の暗くて内向的な性格のせいだと思っていた。だがこうして目の前で頭を捻っている人を見ていると、僕の凡庸な顔と特徴のない名前のせいではないかと思わずにはいられなかった。
「アサクラ……サクラ……桜!」
曇っていた社長の顔が唐突に晴れた。突然の大声に仰け反る僕に、指を差してこう続けた。
「決めた! 今日から君は〝チェリー達男〟だ」
社長の満面の笑みを見れば、それがいかに納得なネーミングであるのか分かった。〝達男〟の意図は分からないが、苗字の一部と童貞丸出しの僕の顔を掛け合わせた〝チェリー〟については、なるほどと僕も納得せざるを得なかった。
こうして〝チェリー達男〟が誕生し、僕のもうひとつの顔となった。
『だが、浅倉君が目指しているところは遠いぞ』
――竹中さんはこうも言っていた。それが分かったのは、最初の仕事の時だった。
僕は大勢いる男の中のひとりという位置づけだった。初仕事ではあってもチェリー達男としてのデビューとは言い難く、桜が咲くことはなかった。
下積みというものがこの業界にもあるらしい。経験と実績、そして信頼を重ねてゆけば自ずと仕事も増えるし、そうすれば仕事を選ぶこともできる。つまり、女優を指名することも可能というわけだ。そう言えばそんなこと、〝世直し忍法帖〟の撮影の前に竹中さんも言っていた気がする。そのときは、何も知らずに彼にノコノコついていっただけで、イマイチ要領を得なかったというのが正直な感想だった。
しばらくは与えられた名前に反して、全く花を咲かせるような成果は得られなかった。焦る僕は、持ち前の頭の鈍さからくる行動に移した。そう、勉強だ。
本屋で本を買った。細かいテクニックが記されたものだけでなく、人付き合いが上手になる本等、仕事に役立ちそうなものを選ぶ。不思議なもので、店員にその不気味な本の組み合わせを見られても何とも思わなかった。
家ではもっぱら本を読んでいる時間が多くを占めるようになった。重要だと思った所には線を引き、付箋を貼り、ノートに書く。凡才の僕の脳には、これくらいしないと記憶してくれない。参考書以外の本と呼べるものがなかった空っぽの僕の部屋に、性の知識が住み着くようになった。
流石に学校に持っていくような愚かなことはしなかったが、仕事の現場には、ノートだけは持っていくようにした。出番前に見直して、予習する。終わったら忘れないうちに反省を書く――。仕事に慣れてきたこともあってか、少しずつではあるが、基本的なノウハウは身に付いた気がする。
ベッドアンケートなるものを作成したのは、女優との絡みがより深くなってからのことだ。行為に至るまでの、もしくは行為そのものの流れがどうだったか、言葉選びはどうだったか等、細かく項目分けしたアンケートを、仕事を終えた後に女優に渡すようにした。これが意外にも書いてくれるもので、撥ね返されたり未記入のまま捨てられたりなんてことを想像して心配していた僕は、嬉しい裏切りにあった気分だった。
「最近、頑張ってるみたいだね?」
現場に社長が居合わせた際、肩にポンと手を置かれてそう言われた。
「どういう意味ですか?」
短く率直に聞き返す。ひと仕事終えたばかりで、心身共にそう余裕もない時だった。
「同業者の間で、時々君の名前を聞かれるんだよ。『あいつは誰だ?』『あの勉強熱心な地味な子は?』って」
社長が笑いながら言うものだから、僕もついハハッと声に出てしまった。
「随分珍しいことしてるみたいじゃないか」
と言って社長は、僕の手に持っていたアンケート用紙を見つめる。
「やっぱり変だと思われてますかね」
言いながら僕も用紙に目を落とした。
「この業界は変な人しかいないよ」
「……返す言葉もないですね」
現場は、僕と交代で入った男優と、ついさっき僕とことを終えたばかりの女優との撮影の真っ最中だ。彼の言う通りだ。隣の社長も、あの女優も男優も、それを撮影するスタッフも、そして僕も。この場には変な人しかいなかった。
「君の名も知られて、君個人の仕事もちょっとずつ増えてくるといいね」
と言って背中を叩くと、社長は現場を去ってしまった。
今の言葉は、僕はどう受け止めれば良かったのだろうか。社長なりの檄だとすれば、それにどう応えれば〝正しい変な人〟に近付けるだろうか。用紙を握り締め、女優の妖艶な声が響き渡る現場で僕は、この仕事が終わるのを待った。
「相内新です! 一浪したから歳はいっこ上だけど、普通にタメ口で話してくれていいからね。呼び方は何でもいいけど、昔は『ウッチー』とか『アラちゃん』とか呼ばれてました。何だったら『不動の一位』って呼んでもいいよ」
ジョッキ片手に相内は言った。酒が入ると、相内は一際饒舌になる。
「何その『不動の何とか』って」
女の子のひとりがそう訊くと、すぐさま相内は「待ってました」と言わんばかりの笑みを浮かべながら返す。
「『不動の一位』ね。俺、出席番号で一番以外とったことないんだ」
彼の決まり文句らしい。曰く、これを言えば名前を覚えられやすいんだとか。
そうなんだー、確かにー、と口々に感想を漏らす女の子の中には、スズちゃんの姿もあった。相内が僕に気があると教えてくれた女の子。この間も一緒にいたが、前回と全く同じ自己紹介にも彼女はきちんと笑ってくれていた。
「で、隣の彼が浅倉達弥。歳は君たちと同い年」
彼が僕の紹介を始めたので、僕は頭を下げ
「どうも、浅倉達弥です。『一位陥落』って呼んでください」
と前日に彼から与えられた台詞を言い放った。本当はもっと抑揚をつけて欲しかったらしいが、一日では彼が望む言い方をマスターできなかった。
それでも女の子たちの反応は良く、スズちゃんに至っては手を叩いて笑ってくれた。
「ゴメンねー。ほんとは男がもうひとり来る予定だったんだけど、急にシフトが入ったみたいでさ」
男女二対三の合コンは、互いの学校の丁度真ん中にあたる駅近くの居酒屋で行われた。六人掛けの座敷に通され、テーブルを挟んで男女分かれて座る。決して図ったわけではないが、僕の前の席にはスズちゃんが座った。
十九時半という時間帯もあって、店内はやや騒々しかった。が、相内の軽妙な話術のお陰かそれほど気に障ることはなかった。
二時間飲み放題コースは俺らのためにあると言っても過言じゃない、と高らかに発言すれば、手を叩いて笑う。地獄の浪人生活もこの瞬間をもってチャラになったと大げさに語れば、満更でもなさそうに目を合わせる。相内の力量を知っているスズちゃんは別にして、初対面の女の子二人は、彼の時に強引で、時に計算ずくな話術に引き込まれていた。
僕はと言うと、時に彼の話に合わせて笑ったり、一定の反応を見せつつもスズちゃんとより深い会話をしていた。無論、相内の助言だ。
彼の言葉を思い出す。
――いいか。スズちゃんによれば、今日来る子はこの間とは違う子らしい。つまり、初対面だ。これは達弥がスズちゃんと親密になれるチャンスだ。この間の飲み会の時にした話の続きを話せ。ほかの子はふたりの話題について来れない。そうすれば、その場は六人いるが、二人きりの空間が作り出せる。あとの四人については俺に任せろ。俺が盛り上げるから、達弥は時々こっちにリアクションをくれるだけでいい――。
「どこ見てるの、達弥君?」
スズちゃんの言葉でふと我に返る。遠くへ行ってしまっていた視線を、目の前に座る彼女に戻す。
「それとも『一位陥落』君って呼んだらいい?」
スズちゃんは笑っていた。
「いやいや……呼ばれても振り向ける自信がないよ」
ここではスズちゃんなんて呼んでいるが、実のところこれまでその名を口に出したことがなかった。馬場鈴乃という、名前の半分を濁点で占める名前を本人が――特に苗字を――気に入っていないせいで、段階を踏んで「馬場さん」から呼び始めるということができないという理由がある。
「じゃあほかのあだ名考えないとね」
彼女は笑顔を絶やさない。だが、その笑顔を見る度に踏み込めないでいる自分がもどかしかった。
「告白〝する派〟か〝される派〟か、ね……俺の場合は〝食べちゃう派〟じゃないかな」
と言う相内の声がすると、遅れて彼女らのリアクションが返ってくる。気が付けば三人のテンションは、最高潮まで跳ね上がっていると言って良いくらいになっていた。
「相内さんって結構スケベなんだね」
カシスウーロンを一口あおり、スズちゃんは言う。
「意外?」
「いや、見た目通り」
彼女が即答すると、僕らも笑った。
「でもあそこまでとは思わなかったな」
と言って相内を見るスズちゃん。その彼女の横顔を僕は見る。ふっとひとつ息を吐いて、僕は切り出す。
「スズちゃんはさ」
意を決してその名を呼んでみた。とは言っても彼女にギリギリ届く小さな声ではあったが。
こちらを振り向く彼女に、僕は続けて言う。
「スケベな男ってどう? 好き?」
僕としては踏み込んだ質問だった。今まで差し障りない会話しか交わしていない僕らには出てこないテーマだった。
この問いを投げかけられたスズちゃんは、少し考え込む素振りを見せた。嫌な顔をしなかっただけで、僕は少しホッとした。ずっと盛り上がりに欠ける話題しかなかった僕らにとっては、これは革新的な一歩だったのかもしれない。安心しきった僕は今ならそう思えた。
「誤解を招くかもしれないけど……」
答えがまとまったようだ。スズちゃんは切り出す。
「好きだよ」
「……そうなんだ」
言いながら僕は自分を責めた。こっちから聞いておきながら、中途半端な返事しか用意していなかったのだから。だが、彼女の「好き」という台詞が想像以上に僕のハートを揺さぶったのも事実だった。
「なになに? もう告白?」
相内が横やりを入れてきた。三人で盛り上がっていながらも、こっちの動向にも目を光らせていたようだ。
彼女は笑って否定する。
「ちょっと、違いますよー」
「うん、聞いてた。スズちゃんはスケベな男が好き、っていう話だろ?」
と相内が冷やかす。彼の発言をきっかけに、たちまちスズちゃんに全員の注目が集まった。相内と女の子たちによる、からかいの集中砲火が始まった。
「そういえば、スズからそんな話聞いたことないなあ」
「初体験っていつ? いつから〝女のカラダ〟になったの?」
「どんな人がタイプ?」
「成田純とか好きそう」
「俺もスケベな女の子は大好きだなー」
矢継ぎ早に飛び交う言葉に、スズちゃんは一つひとつ答えていた。合間に紛れこむ相内のセクハラまがいの質問も、丁寧に拾っていた。
〝エロス俳優〟の異名を持つ成田純の話題になった時に、僕はトイレに向かう為立ち上がった。スズちゃんの話には興味があったが、皆が盛り上がっている横で黙って聞いていることへの気後れが尿意としてあらわれたのだと思う。
店内は騒がしいが、思ったほど人は多くなかった。テーブルも座敷も空席の方が多いし、カウンターも三人組のサラリーマンがいるだけだ。酒で顔を真っ赤にして、この場にいない新人の仕事への取り組み方に大声で文句を垂れている。彼らが店の雰囲気の大部分を担っていたことが、トイレを探しに店内をさまよっている今になって分かった。
ほとんど飲んでいない僕は、しっかりした足取りのままようやく個室のトイレの前にたどり着いた。用を足し、ドアを開けたら相内が立っていた。
「どうよ?」
とだけ相内は言う。個室に入る様子はない。
「『どう』って?」
「スズちゃんのことだよ。俺が見る限り、なかなか反応が良さそうだけど」
彼によると、話題が下ネタになったときは既に心を開いていると思って良いそうだ。
「教えとこうか? この近くのオススメのホテル」
相内は不気味に笑む。僕は〝ホテル〟というワードに一瞬たじろいだ。
「僕がスズちゃんとホテル?」
ホテルは仕事現場という認識しかなかった僕。恋人や夫婦、またはそのどれでもない関係の男女が利用できるものであることは知っていたが、自分がプライベートで利用するとは考えもしなかった。
「何だったらどうやって誘うかも教えてあげてもいいよ」
彼の言葉にイヤミが感じられないばかりに、即答で「うん」と言いそうになる。
僕は首を振った。
「せっかくだけど、遠慮しとくよ。彼女に申し訳ないし」
仕事に影響しそう、という一番の理由は隠しておいた。
「……何か隠し事してる顔だな」
と、彼は再び不気味な微笑みを見せた。
「気のせいだよ」
平静を装ったが、彼はそれさえも見透かしていた。僕の言葉はまるで無視して、僕が何をひた隠しにしているのかを推理していた。
いつかの現場を思い出した。
例に漏れずベッドアンケートを女優さんに書いてもらったところ、『演技が下手』とダメ出しをもらったことがあった。大した台詞もない役柄だったので、真相を伺ったところ、「顔の演技が致命的に下手」とバッサリと切り捨てられた。
その日の撮影は、やや乱暴に女優さんと組み合うシチュエーションだった為、僕には多少なりとも荒っぽい芝居が求められていた。あくまで主役は女性なので、悪目立ちしないことを心がけた。顔なんて男の僕は映さなくても良いのだ。
「表情は重要よ。だって、わたしたちはあなたの顔を見るんだもん」
休憩中の女優さんはそう語る。バスローブにタバコの組み合わせは、幼顔の彼女には不釣り合いだと思った。
「どんなに声とか動きで取り繕っても、やっぱり見るのは顔。つまんなそうな顔してたらこっちにも影響出るの。まあ、逆も然りよね」
僕はメモ帳にペンを走らせながら聞いていた。彼女は既にアンケートは記入済みだ。このように面と向かってアドバイスをもらえる、僕にとっては願ってもない場面もあるため、メモとペンは必須だ。
「人気の男優さんなんかはそのへんはすごく上手よ。南さんとかね――」
「分かった! セックスが下手だとガッカリされるから、勉強してから誘おうって魂胆だろ?」
僕の回想は、彼の大きな声によって中断された。
「……まあそういうことにしておくよ」
彼が遮ってくれたせいで、ぼんやりと思い出しそうとしていた女優さんの名前と、作品名がまとめてどこかへ飛んでいってしまった。僕は少し機嫌を損ねた。
だが相内の発言もあながち的外れではなかった。相内は僕の背中を二度ほど叩いて、
「頑張れよ。サイキッカー南くらいのテクニック身につけたらイチコロだぞ」
と言った。
彼のその発言が、頭の中で二回三回と繰り返された。それと共に、さっき断たれた回想が蘇り、脳内にこだまする相内の発言とリンクした(残念なことに、女優名と作品名は蘇ってこなかった)。
「サイキッカー南って、誰?」
僕は尋ねた。本当は何となくは知っていたが、相内のような〝あの業界〟と何の繋がりもない一般人がどういう風に認識しているのかが知りたかった。
「セクシー男優だろ? イケメンでマッチョの」
と相内は答える。
「確か男優四天王のひとりなんて言われてるとか。後の三人も、そもそもどういう理由で四天王に選ばれたのか知らないけど、テクニックがあるから女優の方からオファーが絶えないとかなんとか」
抽象的だが、彼でさえも四天王の存在は知っていたようだ。
男優の業界には、その頂点に君臨する四人の男がおり、総称して〝四天王〟と呼ばれている。まだ駆け出しの僕だが、彼らのいる領域に立てることを密かに目標に掲げている。
「じゃあホテルとかは後にして、今日は連絡先を聞くだけにしとこう!」
と言って相内は踵を返した。トイレに行きたかったのではなかったのか、と思いつつ彼とさっきの座敷へと戻った。
三人が待つ席が見えてきたが、まだこちらに気付いている様子はなかった。話に夢中になっているスズちゃんを改めてじっくり眺めた。
「スズー、それは勿体ないよ」
「そうだよ。折角だから玉の輿狙わないと」
「うーん……でもそれでアナウンサー志望してるわけじゃないし」
服装も顔立ちも髪にも、派手さはない。だがその飾り気のなさが、かえって彼女の魅力をありのまま示しているようにも感じられた。大きな瞳は控えめな化粧でも十分映え、黒髪のロングヘアも、主張が弱い分、彼女の美貌をより引き立たせている。ニットにデニムというシンプルなコーディネートも、高身長を活かした着こなしに見える。身体のラインがよく見えるため、下手に肌を露出するよりずっと女性っぽい。
盗み聞きするつもりはなかったが、さっきの言葉が本音であれば、彼女なら女子アナになれるような気がした。
「あ、お帰りー」
女子ひとりが僕らの存在に気付き、手を振った。それにつられてスズちゃんが振り向いた為、僕は慌てて彼女から視線を逸らした。
異性と不意に目が合うと思わず視線を逸らす癖は変わらない。けれど、さっきのように異性の〝異性としての部分〟を見るようになったのは、上京するまでの僕には考えられないことだ。僕はその雑念を振り払い、残っていたウーロン茶を一気飲みした。そして違うことを考える。あの女優さんは……タイトルは……何だったっけ?
「あ、それ……」
ふとスズちゃんが口を開いた。
「わたしのカシスウーロン……」
「四天王を倒すって?」
竹中さんはケラケラ笑った。
「そこまで言ってませんよ。四天王に並びたいと言ったんです」
二日酔いの身体に、竹中さんの高笑いがジンジンと響いた。
今日は仕事も学校もない。竹中さんと話がしたかった僕は、彼が空いている日に合わせて予定を何も入れなかった。
「最近、結構仕事入ってるんだってね」
「そうなんですかね? よく分からないですけど」
そう答えはしたが、社長にもそう言われるし、事実仕事もそこそこ入れてもらっている。仕送りはまだしてもらっているが、量を半分にしてもらっても十分に生活できるくらいの給料も頂いている。
「クソ真面目な新人が入ってきたって、女の子の間でも噂らしいぞ」
と言って竹中さんはコーヒーをすする。ここは、僕らにとって三度目のファミレスだ。
「この調子で頑張れよ、〝チェリー達男〟君」
「その呼び方は止めてください」
と僕は釘を刺した。
「ごめんごめん。――でも、四天王が願ったら誰でもなれるポジションじゃない、ってことは浅倉君も分かるだろ?」
急に神妙な面持ちになる。僕も思わず姿勢を正した。
「分かってます」
「トップクラスの男優は、それはそれは大層な〝腕〟を持ってる。勉強熱心で努力家の浅倉君なら、遅かれ早かれそこには到達できるだろう。でも、四天王の四人はそうはいかない。四天王の名前、知ってるよね?」
と言われて僕は、荷物の中からメモ帳を取り出した。ベッドアンケートと並ぶ僕の大事な商売道具だ。
「サイキッカー南さんと、フィンガー・タカさんと、BLACK向井さんと、イリュージョン拳さんですよね」
メモ帳を見ながら僕は答えた。
「そう。その四人は、男優に必要なテクニックはさることながら、唯一無二の個性を持ってる。〝技〟といっていい」
竹中さんの言葉に僕は大きく頷いた。
そのことは僕も知っていた。その四人には、ある分野においては達人級のテクニックを持っている。
サイキッカー南さんは、ありとあらゆる言葉で女優をなじる、いわゆるドSだが、繊細な手つきと声色の持ち主だ。ソフトボイス・ソフトタッチの達人で、自在な手つきと声色で、なじられた女優は人形のように意のままに彼に操られるのだとか。
フィンガー・タカさんは、スパンキングと潮吹きの達人。しなやかな手の動きと繊細な指先の持ち主で、幾多の女優を落としてきたらしい。
四人の中でいちばんベテランのBLACK向井さんは、四人中もっとも激しいプレイを得意とするハードプレイの達人。年齢も巨体も苦にしない、激しく動くさまは、同業者の間で彼を尊敬する人が多い所以だ。
イリュージョン拳さんは、四十八手の達人と呼ばれている。鍛え上げられた肉体から様々な技を繰り出してくる彼は、見る人も飽きさせないと評判だ。
「浅倉君がその四人に並ぼうと思うのなら、君だけの技を見つけることだね」
技――この言葉が僕の頭の中で繰り返し響いた。
メモ帳には女優だけでなく、社長や竹中さんの言葉や相内の何気ないひと言まで、仕事に役立ちそうと思ったものがありったけ書かれていた。だが、どのページを捲っても、僕だけの技が生まれるきっかけになり得ることは書かれていなかった。
「そんなもの、あるんでしょうか?」
僕はメモとペンを置き、半ば自分自身に問いかけるようにそう言った。
竹中さんは即答した。
「ないだろうね」
「やっぱりですか」
がっくりうなだれる。
「俺もこの業界は長いし……ちょっと大げさだけど〝男女の営み〟なんて生き物が誕生してからずっと存在するテーマだ。今更目新しい技なんて出てこないさ」
また文学的な部分が出たなと、僕は思った。竹中さんはコーヒーの最後の一杯を飲み干すと、「おかわり」と言ってドリンクバーの方へ向かった。
ひとり取り残された僕はメモ帳を閉じ、カバンに仕舞おうとそれを開いた。カバンの中にはもうひとつ、バインダーが入っていた。それに目が移ると、メモ帳と入れ替わりに取り出した。
『動きはスムーズでしたか』『気持ちよかったですか』――女優さんに書いてもらったベッドアンケートは、このバインダーによって丁寧に綴じられている。項目ごとに1から5の五段階評価で記入してもらっているが、やはり最近のものと比べ始めた当初の評価はあまり芳しくない。中には『1』の項目の横に『0』と書かれたものもある。
『その他の気になったところ』という項目には、女優さんが感じたことを思い思いに書いてもらえるよう、広くスペースを設けている。未記入が多いが、中には丁寧に書いてくれた人もいた。どれも『目が泳いでいた』とか『もっと堂々と』とか、似通ったことばかりだ。
君は〝チェリー〟の名を背負っているんだからそのままでいい――と社長は言うが、上のステップを目指している僕には、そろそろその評価も覆したいところだった。
愛染ゆかりだったら、どんなことを書いてくれるだろう。
ふとそんな疑問が浮かんだ。
そもそも愛染――藤村さんはどれくらいの場数を踏んでいるのだろうか。数多の知らない男を相手にしているとはあまり考えたくないが、彼女と対峙した時の落ち着き払った様子や慣れた手つきからは、経験の少なさは窺えなかった。何より、ひと仕事終えた後の彼女の物足りない表情が印象的で、それが今の今まで頭に焼きついて離れなかった。
「シゲオさんなら分かるかも知れない」
竹中さんがコーヒーを持って戻ってきた。何やら聞き慣れない人名を口にし、僕の前の席に腰を下ろす。
「誰ですか、シゲオさんって?」
「そっか、浅倉君は知らないのか」
僕の質問に竹中さんは、やや残念そうな顔で答えた。
「伝説の男優だよ。彼がいなかったら、四天王も、俺も、今の君もいないと言ってもいい」
「『伝説の男優』ですか」
漫画みたいだと思った。うさん臭いとも思った。
「疑ってるなら、後で調べてみな」
見透かすように竹中さんは言った。
「俺も何回かしかお会いしたことないけど、シゲオさんは知識も経験も豊富だ。彼だったら〝打倒四天王〟に繋がるヒントを持ってるかも知れないぞ」
「ホントですか」
僕は思わず身を乗り出した。四天王を倒すつもりはない筈なのに、気持ちが高ぶってしまった。
「どうやったらお会いできますか?」
「住んでるところなら知ってるぞ」
「教えてください」
「相当な曲者だけど」
「大丈夫です!」
鼻息荒く、やや食い気味に答えた。そして、いつか社長が言っていた言葉を引用する。
「この業界は、変な人しかおらんですから」
ただまっすぐこちらを見つめるだけだった竹中さんは、少しの間を持ってプッと吹き出した。
やがて声を出して笑うようになり、遂には店全体に響くような大笑いになった。
「まあ、確かに、間違ってないな」
呼吸困難になる竹中さん。言葉を絞り出す姿は苦しそうだったが、彼の笑い声を目の前で受けている僕(二日酔い)も、それはそれは苦しかった。
「ちょっと、メモとペン貸して」
心ゆくままに僕を笑った後で、竹中さんはそう言って僕に手を差し出した。
言われるがままメモ帳とボールペンを渡すと、空いているスペースに何やら文字を書いていた。時々思い出したように吹き出しながら、サラサラと何かを書く。当然だが、あまりいい気はしなかった。
「はい」
と言って、記入したページを開いたまま僕に返した。受け取ってそのページを見ると、僕が殴り書きしたメモの合間のスペースに、小さな文字で何かが書かれていた。
「これは?」
「シゲオさんの住所だよ」
と言って竹中さんはコーヒーをあおる。
「いるって保証はないけど。あの人、いつもフラフラしてるから」
「ありがとうございます」
僕は勢いよく頭を下げた。
「……浅倉君はさ、〝ハッピーエンド〟ってどう思う?」
コーヒーカップを置くと共に、竹中さんはそう言った。
「ハッピーエンド?」
「本とか映画とかで、主人公とその周りが幸せになって終わる作品あるじゃん?」
「……はい」
何の話かは分からないまま、相槌を返しながらとりあえず聞く。
「あれって、あくまで主人公側の解釈であって、視点を変えれば、その主人公のせいで不幸になった人間もいるんだよ」
「はい」
「そう考えるとさ、本当に世界中の人が幸せになることなんて、ないんだって俺は思うんだ」
また小難しいことを言い出したな、と僕は身構えた。
「誰かの悲しみを踏み越えて喜びを手にする――人生ってそういうものなのかな」
有名な文豪と同じ名を持つ竹中さんが、一度こうなると止まらなくなる。何にでも文学と結びつけようとするから、下手に同調するとかえって疲れるだけだ。
そんな彼をよそに僕は
『一体どんな人なのだろう』
と、まだ見ぬシゲオさんを想像する。伝説、と呼ばれるくらいだから、四天王よりは年上なのだろう。BLACK向井さんが五十手前だから、五十は超えているのだろう。もしかしたら還暦も過ぎているのかもしれない。
「シゲオさんって方は、どんな見た目の方なんですか?」
会うのは初めてなのだ。それくらい聞いておいた方がよいだろう。
「見た目ねえ……」
文学に浸っていたからか、単純に説明しにくいのか、竹中さんは言葉を詰まらせた。
答えが出ないようなので、僕から思いついたことを聞いてみた。
「筋肉質ですか?」
「いや」
「髪はあります?」
「髪も髭もほとんどないな」
「顔は? 格好良い方ですか?」
「まさか。見た目はほんとに普通の爺さんだよ」
いくつか質問したところで、シゲオさんのこれといった特徴は見つからなかった。『見た目は普通の爺さん』なんて、このファミレスにもいる。
「爺さん、って言いました?」
僕は改めて質問する。店内の高齢者を見て、ある疑問が過ぎったからだ。
「言ったね」
「おいくつなんですか、シゲオさんって?」
「確か今年で……八十二歳だな」
二日酔いも一気に冷める衝撃が、僕を襲った瞬間だった。