麗らかな決意
麗らかな決意
今日もまた食堂の一角で、相内と時間を潰す。彼からバイト先で廃棄になったクッキーを貰ったが、僕の気分は上がらなかった。
「ご機嫌斜めだな」
クッキーを頬張りながら相内は言った。これで何個目だろうか。彼の前に空のクッキーの袋が積まれている。
「ごめん、気悪くした?」
悟られまいと取り繕っていたつもりだったが、バレていたらしい。
「別に。誰にだってそんな日はあるだろ」
そう言ってくれてホッとする。
「深い悩みじゃなきゃ、馬鹿な女の子と頭空っぽにして遊んだら意外と楽になるもんだけどな」
冗談とも本気ともつかない発言に、ハハッと笑って返した。
「僕にそんなこと出来ないよ」
「いや、出来る。達弥はただやり方を知らないだけ」
そうかな、と呟いて僕もクッキーの袋を開ける。
今日の午前中に起こった一連の出来事を、彼に打ち明けるか。この時間が来るまで僕はずっと悩んでいた。信頼しているし、彼なら最適解を導き出してくれると思う。けれど、僕の自尊心や羞恥心が、どうしても彼に告げるのを阻もうとしている。
愛染ゆかりはセクシー女優だった。
竹中はアダルトビデオの監督だった。
そして僕が連れて行かれた場所は、アダルトビデオの撮影現場だった。
――ここまで言えば、彼もおおよそは理解してくれるだろう。彼女の演技から察するに、竹中らは女性経験の少ない男が女に弄ばれている映像が欲しかったのだ。そしてその推測が正しければ、僕は竹中らの目論見通りに操られた。状況を理解できないまま気が付けば撮影が始まり、終始彼女のペースでことが進んだ。
具体的に何をしたかは覚えていない。抜け殻の肉体に理解が追いつき、過ちだと気付いた時にはもう遅かった。彼女の姿はもうなく、後悔と日当だけが残っていた。
スタッフに促されて階段を下りていた時。ふたりの男とすれ違った。目を伏せていた為分からなかったが、恐らくついさっきの僕のような人なんだろうと思った。これから彼女の餌食になると思うと、振り返ることは出来なかった。
三階はきっと藤村さんの控え室で、五階の四つの部屋は、それぞれ違うセットが組まれた撮影場所だ。つまりあの建物は、アダルトビデオを制作するために造られたものだ。
「相内の言う『馬鹿な女の子』って、どういう人のこと?」
結局、僕はその疑問を投げかけるに留まった。
「うーん……言葉で説明すると難しいな」
と相内は腕を組んで考え始めた。
彼は僕の知らないことをいろいろ知っている。人間関係のような明確な答えのない事案についても、彼の中には最善の答えを出せる柔軟な発想を持っている。だから知人も多いし、彼を悪く言う人もきっと少ないんだと思う。
「人を見る目がない女、かな」
顔をしかめながら、吐き出すように彼は言った。
「男にも言えることだけどね。容姿とか肩書きだけで簡単に好きになったり、嫌いになったりする人間は、本質を見抜けない人がほとんどだよ。またこの間の合コンの話になるけど、あの場にいた子たちは、きっと俺らの大学に釣られて来たんだよ。達弥だって『オリンピックのメダリストと話できる』って言われたら、どんなに興味のないスポーツであっても、話は聞いてみたいって思うだろ?」
僕は頷く。
「よほどの変わり者でない限り、誰しもそんなもんさ。で、馬鹿なのはその〝金メダリスト〟っていう肩書きだけでその人の価値を決めることだよ。どんなに不細工で、性格もひねくれてるのに、金メダリストだから仲良くする――そんな奴にろくな人間はいないと思わない?」
「外見とかステータスだけで判断しちゃう人ってこと?」
「そういうこと。で、逆も然り。人格者で、その人と仲良くしておくことが自分にとっていいことだと分かっていても、その人が……例えば新興宗教の教祖だったり、ドッキリばかりやらされて国民の笑いものにされている芸人だったりして、それだけで距離を置いちゃう人。浅はかで、馬鹿な人間だと思うな」
言いながら、みるみる相内の整った顔が歪んでいく。手に持ったクッキーも不味そうに見えてきた。美味しいのに。
しかし歪みつつも彼の言葉は僕の心に刺さった。愛染ゆかりが、僕の中の藤村彩季の思い出を変えようとしていた。僕の憧れであり、初恋の相手である彼女を、危うく僕は嫌いになってしまうところだった。
「ほんと大学生って馬鹿な奴が多いよなー」
相内はまだ愚痴っている。よほど嫌なことがあったのだろう。僕はあえてそのことには触れなかった。
「でもさ。女子大生が男を選ぶ基準に大学を選ぶなら、僕らより頭のいい人を選ぶんじゃないの?」
ふとそう尋ねる。相内はそれを払うように手を横に振り、
「違う」
とだけ言った。
「何で?」
「『何で?』って……お前さ、大学っていうのは頭の良さを測るためだけのものじゃないんだぞ?」
早口にそうまくし立てる。いつもの相内だ。歪みも消えている。
相内は立ち上がって熱弁を振るった。大学にはイメージというものがある――特に都内の大学は全国的に知名度も高い――それゆえに上京を夢見る地方の学生からすれば大学選びにおいてイメージはとても重要なものである――。
「東京に憧れを抱くような若者は、『こんな田舎暮らしから早く飛び出して、オシャレな都会人になるんだもん!』なんて考えている奴が多い。そんな奴は、学歴よりも〝オシャレ感がある〟大学に惹かれるんだよ。基準はいろいろあるけど、OBに芸能人が多いところなんかは狙い目だよな」
「じゃあ、相内がこの学校選んだのって――」
「モテるからに決まってるだろ?」
僕の言葉を最後まで聞かずに、彼は平然とそう言いのける。
「ほんとは関教大も受かってたんだけどさ、それ辞退して一浪しちゃった」
一浪したという事実も、受かっていたという全国屈指の国立大学の名もあっけらかんとした口調で明かしてくれた相内〝先輩〟。ケラケラ笑う彼の姿に、胸の奥では説明できない感情が芽生えた。
結局相内には何も明かさなかった。心配をかけたくなかったし、彼にとって僕は数ある友達の中の一人でしかないから。それを寂しいと思う感情は、大学生の今となっては既に持ち合わせていなかった。
駅を降りた僕は、帰り道とは反対方向に歩いていた。向かう先には、僕がたまに訪れる書店がある。読書家というわけではないが、あの静寂した空間をたまに味わいたくなる時がある。とは言え、店に入っても何十分も滞在した挙句何も買わずに出ていくこともある為、この密かな楽しみをあまり人に明かすことはしない。ちなみに今日も買う予定はなかった。
夕方のこの書店は客もほぼいないから一層静かだ。静かな空間からは、澄み切った空気のようなものを感じる。話し声や物音といった不純物のない、まるで冬空のような空気。一度鼻で息を吸う。古びた書店ならではの、書物の匂いとやや埃っぽい乾いた空気が入り込んでくる。悪くない。
最初に目に付くのは、話題の本ばかりの小さな島だった。賞を獲った小説や人気タレントの自叙伝、放送中のドラマの原作本などなど。
その横には、あるテーマに沿って集められた本たちが積まれたワゴンがある。〝春は恋の季節〟という書店員の手書きのポップが示すように、恋愛小説をはじめとした色恋にまつわる本が集められている。
割と新しめのライトノベルから明治の文豪による不朽の名作まで、豊富なラインナップを誇るワゴンの中には、『♂と♀の〝お互いが満足の〟ベッド事情』なんて本も置かれていた。タイトルに思わず目を奪われてしまったが、よくよくその本の帯を見てみると、
『あなたが想う人も、きっとあなた(とあなたのカラダ)を欲しがる』
という宣伝文句が踊っていた。全てを読み終えたとき、自分の顔がみるみる火照っていく感覚が分かった。
ワゴンの前を逃げるように通り過ぎ、ビジネスや自己啓発の本が並ぶ棚の前に来た。著者が自分の思想を押し付けているようで、正直なところこの手の本は苦手だった。
行き着いた先がここだったのも運命かも知れない――と、本の主人公のようなことを考えながら、一冊の本を手に取った。
上手な人との関わり方なんかを、難しい言葉で〝それっぽく〟書いたものだった。割と目立つように平積みされていたので、それなりの売り上げを誇っているのだろう。内容について僕がとやかく言える資格はないが、これに救われる人が一定数いるということだ。半ば斜に構えて読んではみたが、やはり僕の乾ききった心は揺さぶられなかった。
「(これがベストセラーなら、相内はとっくにノーベル文学賞だな)」
と思いながらそっと元の場所に戻す。
それから二十分少々、店内という冬の空をブラブラ浮遊した後に、何も買わず店を後にした。
次は参考書を買うから今日のところは大目に見てください――と店員に心の声で挨拶することは忘れなかった。
牛丼屋には寄らず、そのままマンションに戻った。郵便受けに何も入っていないことを確認し、階段の一段目に足をかける。マンションとは名ばかりのこの建物は、三階までしかなく、無論エレベーターもない。他の住人は、のんびりとした大学生活を送っている僕とは生活リズムが違うらしく、すれ違ったりすることもあまりない。
「こんばんはー」
だから、このように挨拶をされる習慣もないので、不意に声をかけられると返事に窮してしまうのだった。
「あ……こ、こんばんは」
二階の階段の手前で、僕を見上げる形で佇む人影があった。その様子からは僕が上りきるのを待っているのが分かった。背後の照明と重なって、その表情をうかがい知ることは出来なかったが、シルエットで分かることがもうひとつあった。
「あの、それって203号室の荷物ですか?」
ガッチリとした肉体と両手で抱える大きなダンボール。何度か見かけたことのある配達員だった。
「そうです。浅倉様ですか?」
「はい。今そっちに行きます」
そう言って僕は階段を駆け上がった。
屈強な配達員から荷物――僕の言葉で言うなら救援物資――を受け取ると、軽く頭を下げて部屋の中へ入った。
送り主が実家の両親であることは確認しなくてもわかった。保存がきくものをリクエストし続けた甲斐あって、インスタント食品が多く入っていた。以前は「一人暮らしは生活が不規則になるから」と野菜ばかりであったが、ようやく僕の願いが届いたようだ(ミネラルウォーターは要望するまでもなく入っている)。
手紙も入っていた。飾り気のない小さなメモ用紙。いつも入っているもので、大したことは書かれてはいないが、家族が恋しいのか、地元が恋しいのか、今までそれを読まないことはなかった。
〝お元気ですか?〟から始まり、体の心配、幼少期のエピソード、最近の家庭内での出来事、近所のちょっとした事件などなど。相変わらず代わり映えのしない内容だ。筆で書いたような味のある文字は、母親の字だ。あなたは真面目すぎるところがあるけど、それがいいところでもある――幼少期に言い聞かせられたその台詞が、文字という形をとって再び僕の記憶に刻まれる。
『後で連絡入れないとなあ……』
そう考えながら読み進めていると、手紙の下の方に、母のとは異なる字体で書かれた文があるのにふと気づいた。
〝勉強頑張って〟で締め括られた母の文の下、僅か二行の文。小さくてやや癖のある字。これも見覚えがあった。
〝たつや 元気でやってるか〟
父の字だ。
句読点もなく、あまり漢字を使いたがらない――その一文に父の性格が込められているかのようで可笑しかった。
〝たつや 元気でやってるか 何も勉強がすべてじゃない だれかにしたがうばかりじゃなく自分の信念にしたがって行動しなさい 遠くでおうえんしてます 父〟
あまり口数の多い男ではなかった。かと言って、厳格な父でも決してなかった。掴み所のない人だと思ったこともあったが、大学進学に際して地元を離れる決断を下した時も、母をはじめ反対する者が多くいた中で、
『達弥が決めたことだから』
と僕に理解を示してくれた側面もある。会話を交わす機会はよそより少なかったかもしれないが、僕は父のことは嫌いじゃなかった。だから、その僅か二行の分も、じんわりと僕の胸に染み込んできた。
「自分の信念……」
と声に出してみる。
今まで僕は、周りと自分との間に線を引いて、小さな世界を作っていた。僕はあの世界の住人ではない。あの世界にはそぐわない人間だと。
けれど、それは自分が傷つかないための予防線であることは知っていた。裏切られる悲しみから逃れるために、信頼される喜びを捨てたのだ。だから、藤村さんのことが好きだという事実にも蓋をして、誰からも傷つけられず、愛されもしない、遠く深い世界に身を置いていた。
だからこそ、愛染ゆかりという形で現れたときも、固く閉じた蓋のおかげで――多少揺らぎはしたものの――、その中の本心は変わらなかった。
気が付けば僕は外へ飛び出していた。彼女が好きであるという事実。愛染ゆかりから藤村彩季へと、元の姿に戻って欲しいと率直に思ったのは、固く閉じた蓋の中にあるそれに突き動かされたからだ。
果たして僕に何ができるだろう。他人への愛情も信頼も知らず、学校の勉強しか取り柄のない頭でっかちの僕に。ひょっとしたら、彼女は自ら望んで愛染ゆかりへと姿を変えたのかもしれない。だとしたら迷惑この上ない。
だからどうした!
僕は足を止めなかった。僕が何もできなくても、彼女がどう思おうとも、それは知ったことではない。今の僕は、自分の信念に基づいて歩いていた。必ず救い出し、藤村彩季となった彼女の前で、高校二年の秋に言えなかった気持ちを伝えるのだ。
閉店間際の書店に駆け込む。最早客はひとりもいなかった。気だるそうな店員には目もくれず、僕は『♂と♀の〝お互いが満足の〟ベッド事情』を手にとった。