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それはまるで春雷のように


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それはまるで春雷のように


 あの日もっとも空に近づいたとき。秋の乾いた風が僕らの間を通り抜けた。

 校内一の美女、とは安易に言い切れない。テストと違って明確に点数が設けられているわけでもないし、彼女よりモテる女の子は確かにいた。中学、高校と同じ学び舎を経てきた僕は、勿論彼女以外の女の子も見てきたわけだが、その六年間で彼女より魅力を感じた人に出会うことはなかった。

 大人しくて人当たりもよく、クラスメートのみならず先生からの信頼も厚い生徒だった。六年間通じて同じクラスになったのは、中学の一年時と高校の二、三年時の三回ある。けれど、彼女と会話をしたのは数え切れる程度。辛うじて大人しいところしか共通点を見いだせない僕と彼女は、同じ教室にいながら、違う世界に身を置いていた。

 高校二年生の秋に、それは訪れた。

校内は一週間ほど前から異様な空気が漂っており、生徒たちもまたその空気にあてられて何やら浮き足立っていた。理由は分かっている。文化祭だ。生徒数の多い私立高でもあるまいし、と僕は内心毒づいていたが、その毒もある種の憧れから生まれたものだということも薄々気づいていた。

 舞い上がるクラスメートの輪に加わることの出来ない僕は、かと言って隅っこで悪態をつきながらサボる友達もいなかった為、ひとり席に座り、肩肘ついて時間が過ぎるのを眺めていた。

「浅倉君」

 誰かが僕を呼んだ。声のする方へ目を向けると、文化祭の実行委員の男が申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。

「これ、屋上に運ぶの手伝ってくれない?」

 両手に荷物を抱えた彼が顎で指したのは〝からくり屋敷〟と書かれた看板だった。僕はそこで、我がクラスがからくり屋敷なるものをするのだと知った。

 そのあとの会話は覚えていないが、取りあえず僕は彼の願いを聞き入れ、看板を屋上へと運んだ。彼はというと、ほかに仕事を抱えているらしく、僕が看板を持ち上げた時には教室から姿を消していた。

 二階の教室から四階の更に上の屋上まで看板を運ぶ作業は、意外にも重労働だった。他の生徒の顔をうかがうと、僕のように苦悶の表情を浮かべているものはひとりもいなかった。疲労を消してしまうなんて文化祭とは麻薬みたいだな、なんて考えながら、僕は遂に最後の階段を上りきった。

 特別に開放された屋上には、他のクラスの生徒も多数いた。そこにいるのは一週間後に迫る文化祭を心待ちにしている者ばかりで、一瞬で居心地の悪さを感じた。僕のクラスの集団が見えないので、この場に置いてさっさと帰ろうとした時だった。

「浅倉君!」

 予想だにしないところから声がした。後ろを振り返る。誰もいない。

「こっち! 上、上」

 声の指示に従い、視線を上に向ける。僕がさっきくぐった扉の上。屋根の上に、ひとりの女の子が、四つん這いの格好でこっちを見下ろしていた。

 セミロングのストレートヘア――パッチリとした二重まぶた――高すぎず低すぎない鼻筋――少しばかりニキビがちらつく白い肌――。

「藤村彩季さん?」

「……何でフルネームなん?」

 思いを寄せる女性から発せられた言葉に、僕はドキッとした。何てことのない〝ツッコミ〟と呼ばれるもののはずなのに。

「看板、浅倉君が持って来てくれたんやね」

 藤村さんは言った。ことの経緯を――しどろもどろになりながら――彼女に説明すると、

「あいつ、投げ出したな。サボり魔め」

 と、実行委員を『あいつ』呼ばわりで非難した。

「そんなことないよ。忙しそうやったし」

 フォローをするつもりもなく僕がそう言うと、藤村さんは、

「浅倉君って、ほんと優しいよね」

 とにっこり微笑んだ。その言葉が、まるで彼女がずっと自分を見てくれていたかのようで、僕の胸にじんわりと温かいものを感じた。

 気が付けば僕も屋根の上にいた。看板を渡すという責務を果たしたが、帰る様子もなく彼女に見とれていた僕を、にっこり微笑んで迎え入れてくれたのだ。

「来た時にはもうここしか空いてなかったんやけどね。でも、いい景色やろ?」

 どうやら藤村さんは、僕が景色見たさに屋上を去らなかったとしか考えていないらしい。けれど僕には、ここから見える町並みも、予想に反して広い屋根の上も、そこでひとりで行っていた準備の内容も、まるで興味はなかった。間近に見える彼女の横顔に、ここに来た意味が集約されているのだと思った。

 ふと目が合う。

「どうしたと?」

 お互いの顔が向かい合う。キュッと喉が締まる感覚がした。

 告白しようという考えが頭を過ぎった。いい答えが返ってくる見込みはない。それは、人生で一度も彼女が出来たことのない僕にでも分かることだ。好きです、とだけ伝えよう。悪い気はしないはずだ。別に答えはいらない。いや、ない方がいい。下手に傷つくよりずっとマシだ。気楽に告げればいい。好きな女優を発表するように。

 藤村さんは首を傾げている。

 ふと違う答えも浮かぶ。例えばこのまま思いを伝えなければ、僕たちは今までの関係のままだ。違う世界から、一方的に眺めているだけの関係。もし告白をしたことで、それすらも出来なくなってしまったら? 今の僕には、彼女の住まう世界に足を踏み入れることは不可能だ。だからこそ、心の中で弱気な自分が『今のままでいたい』と叫んでいた。何も始まらず、何も終わらず。僕の居ない世界に生きる藤村さんを、邪魔にならないところでそっと見守る。

 風が吹いたのはその時だった。秋らしい乾いたそれが、音を立てて僕の横っ面にぶつかる。穏やかなものであれば時折吹いてはいたが、気まぐれなその強い風は思わずよろめいてしまう程で、重めに切り揃えられた藤村さんの黒髪も流されてしまった。

「やばーい」「ちょっとまって、紙飛んだ」「ごめんなさーい、それ取ってください」

 屋根の下はちょっとした騒ぎになっているみたいだ。色とりどりの折り紙やリボンが風に巻き上げられ、日も暮れ始めた秋空を鮮やかに彩った。

「降りようか。風も強くなってきたし」

 くしゃくしゃになった髪を手でとかしながら、藤村さんはそう言った。いやー、ほとんど進まんかったなー、などと独り言を漏らしながら、右足からゆっくりと屋根を降りる。

「あ、わたしが降りたらそこにある荷物こっちに投げて」

 左足も下ろしたところで彼女は言った。

「彩季ー、もう終わるから教室に戻ってこいって」

 慌ただしい屋根下から、藤村さんを呼ぶ声。クラスメートだろう。

「分かったー。先生はもうおると?」

「簡単なホームルームだけしてもう帰ったよ。『この辺でひったくりが多発しとるけん気をつけろー』って。それだけ」

「そっか。じゃあ今降りるけんちょっと待って」

 両手で体重を支える藤村さんは、少し苦しそうに言った。

しかしそれに反して、声は何故か笑っていた。

「何? 何が可笑しいん?」

「隙あり!」

 とクラスメートの誰かが言ったかと思うと、次の瞬間、

「――っ!」

 藤村さんはなんとも言い表せない短い悲鳴をあげた。クラスメートの台詞と、その直後の藤村さんの反応を見る限り、何かイタズラでもされたのだろうと推測できた。だが、何をされたかまでは考えないようにした。

「ちょっとやめてよ! 恥ずかしいやん」

 僕は考えない。

「うちは何もしとらんよ。スケベな風さんの仕業やない?」

 何も考えない。

「そんなわけないやろ。――っ、もう!」

 考えない……。

「今日の彩季は白の無地か。デートの日は赤でも履くと?」

「いい加減に、して!」

 藤村さんは両手を離し、僕の視界から消えた。コンクリートとローファーが勢いよくぶつかる音がしたかと思うと、間もなくバタバタという二つの足音へと変わった。下を覗くと、いそいそと片付けている生徒に紛れ、追いかけっこしているふたりの女子がいた。

 僕はハッとため息をついた。思うことは三つあった。

この看板たちをひとりでどうやって降ろそうか――。

 どうして僕はどこまでも臆病なんだ――。

 藤村さんは白の無地、白の無地、白の無地――。

 結局その日の彼女の世界への交信は途絶え、僕は今まで通りの、気まぐれに訪れる交信を待つ生活を送っていた。


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 華々しいキャンパスライフと呼べるものではない。時折見かけるテレビの取材も、目当てはミスコンのファイナリストや、野球や駅伝のエースだ。彼らがテレビに華々しく映ることによって、大学のイメージが良くなってくれるのは有難いが、彼らの影に隠れている自分がたまに惨めに思えてくるのだ。

「ネガティブに考えすぎじゃないか?」

 相内はあっけらかんと言い切った。キャンパス内の食堂の一角でひねくれた話をするのが、僕らの日常になっていた。机上には近くのハンバーガーショップの商品が並んでいる。

「そうかな?」

 空になったポテトフライの容器にハンバーガーの包み紙を押し込みながら僕はそう返す。食事を終えた僕に対し、相内の手にはまだハンバーガーが残っていた。

「それは今が『テレビで注目されることがすごい世の中』だからだろ? で、そのテレビってのが〝美人〟で〝滑舌が良い〟奴を映したらみんなが見てくれる、って言うだけさ。ただスポットが当たってないだけで、達弥は頭も良いし、話も合うし、気も利く。あんな薄っぺらい奴なんかより達弥の方がよっぽど優れてるよ」

 と言って相内は持っていたものを口の中にねじ込んだ。強引だったこともあって、彼の口周りには照り焼きソースがべっとりとついていた。僕がナプキンを差し出すと、彼は受け取る前にそれを指で差した。

「……ほらな。気が利く」

 口いっぱいのハンバーガーを咀嚼し、飲み込んだ後で、得意げにそう言った。

「そう言えばちょっと救われた気分にはなるけど、根本的には何も変わらないよね」

 荒々しく口元を拭う相内に、僕はそうこぼした。

「そんなもんだと思うぞ」

 相内は軽い調子でそう答えたが、その口調に反して表情は険しかった。

「俺ら凡人は、自分を騙し続けていかなきゃ損するばっかりだよ」

「自分を騙す?」

「この前の合コンみたいな感じだよ」

 先週の土曜日のことだ。

「それが何か関係あるの?」

 あれが合コンであること今知ったことは、あえて言わなかった。

「あの時、女の子の反応すごく良かっただろ?」

「うん」

「達弥はこれといって何も喋ってないのに」

「うん。ほとんど相内が喋ってた」

「だろ? けど、ほとんどの子は達弥がいちばん印象に残ってるはずだ。何故だと思う?」

 まるで講義を受けているみたいだ。僕は分からずに首を振った。

「『浅倉達弥』っていう一見して地味で印象に残らない人間に、〝首都国大生〟と〝福岡出身〟と〝合コン初参加〟の三つの個性を伝えたんだよ」

指を折りながら、相内は語る。

「そりゃ女は食いつくさ。福岡から上京してきたばかりの有名私大生だから。方言なんて大好物だし、野球が好きな子なら鷹羽の話にだってなる。『同じ料金でジュースやコーヒーが飲めるのに水を頼んじゃうキャラ』より話題の広がりは段違いだ」

 と言って相内は水が入った僕のドリンクを指差す。

 鷹羽、とは同大野球部のピッチャーだ。高校時代から名の知れた選手で、学生でありながらファンが多い。学年は確か僕のひとつ上だ。

 確かに彼の言う通りだ。彼がユーモアを交えて僕を紹介してくれた時、根掘り葉掘り聞かれたものだ。返答に必死になるあまり、会話や食事を全く楽しめなかったのを今でも鮮明に記憶している。

「いや待てよ、その理屈でなら相内だって十分な個性を持ってるじゃないか」

 と僕は返す。首都国際大学の学生なら相内も条件は一緒じゃないか。それに、僕が知らないだけで彼の個性だってきっとあるはずだ。

だが、彼は首を振る。

「個体数が違うんだよ」

「……どういうこと?」

「俺みたいな合コンに慣れてる人間は、同じく合コンに慣れてる女の前では全員似たように見えるってこと」

「えっと……まり、僕は向こうの人にしてみたら異様な存在だったと?」

「合コン慣れしてない人間くらいなら向こうも何人も見てるだろうね。個性がなきゃ、達弥は今頃『ハズレ』呼ばわりだっただろうな」

 相内はケラケラ笑った。むすっとしたが、返す言葉もなかった。更に続ける。

「つまり、ちょっとでもステータスに上げるには、正攻法で立ち向かうよりも、錯覚させてあげたほうが近道だったりするってことだよ」

 何も言い返せない代わりに、僕はうーんと一度唸った。外見は今時のおちゃらけた都会の大学生だが、考えていることは現実的でためになる。まさかこの僕が、大学で自慢できる友人を作れるとは、入学前までは思いもしなかった。

「俺、これからバイトだから一回帰るわ」

 自慢の相内は、包み紙を小さく丸めながらそう言った。僕が何かしら返事をしようとすると、彼は続けざまに

「あ」

 と小さく声を上げた。

「忘れもの?」

「うーん、まあそんなとこかな」

 と言って、包み紙やナプキンの入ったビニール袋の口を縛る。

「スズちゃん覚えてるか? あのデカくて目がギョロッとした子」

 土曜の飲み会の子だ。頷いたが、もっと他に言い方があったんじゃなかろうかと思った。

「その子が達弥のこと気になってたみたいで、もう一度会って話ししたいってさ」

 瞬間、鼓動が高鳴る。

「いきなりふたりきりとはいかないだろうから、予定合わせてまた何人かでご飯でも行こうぜ」

と言って相内は乱暴に肩を組んだ。

「良かったなー達弥。人生初彼女かも知れないぞ? 上手くいけば無事〝卒業〟だ」

手に持ったビニール袋が、僕の顔に何度もぶつかる。カッと顔が熱くなった。

「あんまり大きな声で言わないでよ。恥ずかしいだろ?」

「隠すことはないだろ。ぶっちゃけ、みんな知ってると思うぞ」

「知ってる? どうして?」

 呆然となる僕。相内はそれ以上にきょとんとした顔でこちらを見つめ返す。

「知ってるというか、分かるというか。『僕は童貞です』って看板ぶら下げて歩いてるようなもんだし」

 頭の中で整理が追いつかなかった。入試前ですらこんなことにはならなかったのに。

「まあ、スズちゃんと会うまでは今のままでいいと思うぞ。あの子も、今の達弥を気に入ってくれたんだし、今のままでも十分魅力があるし」

 彼のフォローは僕の耳には入ってこなかった。大学生になって、少しは垢抜けたと思い込んでいた自分を責めずにはいられなかった。



 最寄りの駅まで徒歩十分。それを加えても大学から三十分足らずの場所に僕の住むマンションがある。ワンルームでユニットバス。それでも立地が良い上に古くもないので文句は言えない。東京出身の相内からはむしろ羨ましがられる物件だ。

 駅からの帰り道に牛丼屋があり、週に一度は必ず利用している。考え事をしていたせいか、気が付けば吸い込まれるようにカウンターの前に腰を下ろし、注文を終えていた。

――ちなみにではあるが、考え事というのはさっきの相内の言葉だ。僕の〝童貞感〟はどこから漂っているのだろう。高一の時に買ったこのサイズオーバー気味のストライプのシャツだろうか。やっぱりコンタクトレンズは必須なのだろうか。さっきから堂々巡りだ。恥を忍んで、今度彼と会うときに聞くとしよう。

 まるで僕が頼むのを予知していたのではないかと疑うほどの早業で、目の前に注文した牛丼が出てくる。決して多い量ではないそれを、十分に噛み締める。念入りに咀嚼することで得られた満腹感に心も満たされた僕は、丼を空にした後も、水を飲みながらしばしカウンターに滞在して余韻に浸る。早く帰ったところでやることもないし、ワンルームの部屋に僕の退屈を補ってくれるものはない。テレビも観ないし、本も読まない。漫画も実家に置き去り。シャワーを浴び、歯を磨き、寝る――。203号室でやることといえばこれくらいで、十八年間、ほぼ毎日欠かさなかった所作であるため、無意識のうちにそれを終えてしまうことが多い。

あの部屋にいる僕はただの抜け殻で、その体には魂が介在していないのではないか。なんてくだらないことを考えながらコップの水を飲みきり、腰を上げてレジカウンターへ歩を進めた。

 金額も把握していたので、あらかじめ財布から小銭を出していた僕は実にスマートに会計を済ませた。もっとも、牛丼屋に来る時点でスマートさの欠片もないことは百も承知なのだが。

 この財布からもひょっとしたら〝童貞っぽさ〟が出ているのではないかと思ったその時。店員の無気力な「ありがとうございました」に軽く会釈をし、自動ドアのスイッチを押しかけたその時だ。

視界の隅に映ったあるものが僕の目に留まった。

 レジの手前。カラオケの割引券が置かれている隣。無料の求人情報誌と、その横にも求人募集の紙があった。丁寧に専用の台に立てかけられている求人情報誌に対し、横の紙は平積みにされているだけだった。僕はそれぞれ一部ずつ取って、カバンに詰め込みながら自動ドアのスイッチを押した。

 浅倉家は裕福と呼べる家庭ではないが、東京の私立大学に息子を入学させられるくらいの経済力はあったらしい。親戚も含めお世辞にも高学歴と呼べるものがいないことも手伝って、むしろ喜んで送り出されたくらいだ。そればかりか、『勉強に集中できるなら』とアルバイトしなくても生活出来る程の仕送りが毎月送られてくる始末。

 勿論感謝しているし、仕送り――僕はこれを救援物資と呼んでいる――が届けば家族に欠かさず連絡する。だが、ずっとそれに頼ってばかりはいられないという申し訳ない気持ちが増しているのも事実で、何よりその物資に見合う勉強をしているとも言えない。そう言った自責の念が原動力となって、さっきの行動に出たのだと思う。

 部屋に着くと、早速カバンからそれを取り出した。まずは冊子の方に手を伸ばした。

『俺、○△珈琲でバイトしてるんだよ。大学からそう遠くないから、達弥も今度遊びに来いよ』

 ページを開く前に、いつかの相内の言葉が脳裏に浮かんだ。彼のアルバイト先は、全国に百店舗以上を構えるカフェだ。そこを選んだ理由は、スタッフに学生が多いからだそうだ。

『時給は安いけど、スタッフと話も合うし友達も増えるだろ? それに、客として友達も呼べるし』

 と語る。生粋の寂しがり屋だとその時思ったのと同時に、そんな彼が羨ましかった。

学校であろうとバイト先であろうと、彼の行く先には常に彼の居場所があった。みんなが彼に挨拶をし、あたたかく迎える。僕はあくまでその中のひとりでしかなく、食堂を出ればひとりになる僕とは正反対だ。高校生の時は『彼とは世界が違う』なんて考えただろうが、今ならそれは違うと言い切れる。

彼は、それぞれの世界を行き来している。バイト先の人の世界にも、僕以外の学校の友人の世界にも、僕の世界にも。

 彼みたいな、異世界と交流できる術があれば、どんなに良かっただろう――。そんな憧れを抱きながらペラペラめくっていると、彼のアルバイト先の求人もあった。スタッフが笑顔で肩を組んでいる写真だ。

その端に、自分がいる姿を想像する。

「……これは〝ナシ〟だな」

 どうやらこの世界は僕には相容れないみたいだった。

 〝家族のように仲良し〟、〝仲間の喜びはみんなの喜び〟、〝スタッフの夢を応援〟――綺麗事を並べた求人を片っ端から排除する。

 残ったのは、怖いくらいにつまらなさそうな求人だけだった。

「たまげたな……」

 とぼやいて頭を掻いた。

いや、働くというのは本来楽しくないことだ! 僕は自分自身に問いかけた。

今の状況を慮れば、アルバイトに楽しさを求めてはいけないのではないか。そもそも、働いた経験もない僕には、何を基準に選べばいいのかさえ分からないでいた。

 一度冊子を置き、もうひとつの紙に手を伸ばした。

A4サイズの、少しパソコンをかじっていれば作れそうな出来だ。所どころ色や書体などを変えてはいるものの、全体的に安っぽさが垣間見える。

率直に言うとうさん臭い。

連絡先として記載されているのが携帯の番号であることも、その〝うさん臭さ〟を加速させている。だが、その不気味な感情が突き動かしたのか、紙の上の文字をずっと追っている自分がいた。

 業務内容は書面ではあまり分からない。『人を喜ばせる仕事』という情報くらいしかなかった。日給制で終業時に手渡し。そんな給与形態だからか、体験という形で一日だけでも可能だそうだ。

 こう書いてあるし、もし肌に合わなければその日限りにすればいいか――。

 僕は軽い気持ちで、その〝うさん臭さ〟を具現化したかのような紙に、ポップな書体で書かれた番号に電話をかけた。



「もしもーし」

「浅倉です。今駅に着きました」

 改札を出たところで電話をかけ直した。「すみません、電話があった時がまだ電車内だったので……」

「ああ、浅倉君ね! いやいや、こっちこそごめんね。今駅着いたのか、えっと……北口に出てもらいたいんだけど分かるかな?」

 案内板を探し、その中から北口の文字を探す。

「分かると思います」

「オッケー。北口の5番出口を出てもらったら、近くに○△珈琲があるから、そこの前に来てもらえるかな? 俺もそこにいるから」

 奇しくも相内のバイト先のカフェではないか。店舗こそ違うが。ついでに補足しておくとこの店、○△珈琲と書いて『マルヤマコーヒー』と読むのだそうだ。

「分かりました」

「じゃあよろしくー」

 アルバイトの電話をかけたのが二日前。それまでの間に相内に会っていたら、このことは会話の中で伝えていたと思う。授業の関係で僕らが昨日一緒になることはなかった。まあ珍しい話ではない。僕はともかく、多世界を往来する彼は忙しいのだ。

家族には言おうかと思ったが、結局連絡できぬまま今日になってしまった。正式に決まってからでも遅くはないだろう。ひょっとしたらその方が、驚く顔も見られて面白いかも知れない。

 この駅を利用したのは初めてだ。降りて感じたのは、利用者もさることながらとにかく広いこと。福岡の主要駅でさえ広いとしていた僕は、その倍以上のスケールに圧倒された。乗り換えに手こずらず、『自分も東京に慣れ始めたな』と思い上がっていた矢先のことで、改めて己の小ささを思い知らされてしまった。

 北口も5番出口も同じ駅構内とは思えない距離で、〝北口〟の文字を見ても本当にこの先にあるのかと疑ってしまうくらいだ。

 階段を上りきって辿り着いた時には、少しばかり息があがっていた。

 カフェを見つけるのに時間はかからず、その前にひとりの男が佇んでいた。

 僕は少し呼吸を整える。仕事の上司になるかもしれない人だ。今日はキチンと寝癖を直してきたし、シャツもちょうどのサイズのものを選んだ。身なりはバッチリだ。……と、思う。

「遅くなりました、浅倉です」

 熱心にスマートフォンを操作している男に見えるよう、低姿勢で挨拶した。僕の気配と声に気付いた男は、

「おお! 浅倉君ね! よろしくー」

 大げさな素振りを交えてそう言った。

 五十過ぎに見えるが、三十代と言われても納得してしまいそうな若々しい見た目をしている。派手な柄シャツは二つ目のボタンまで外し、頭には赤いハットを被っている。

 彼とは昨日顔を合わせている。名目上、面接という形ではあったが、日程を確認したくらいの軽い会話しかなく、用意した履歴書もあまり役に立たなかった。その時も今のような派手めな服をまとっていた。バラエティ番組にもよく出てる、〝笑いながら怒る人〟をする俳優さんの顔が、彼を見たときにふと浮かんだのが印象に残っていた。

「今日はありがとね。あ、改めまして――」

 と言ってシャツの胸ポケットに手を突っ込む。

凝ったイラストが施された、ふたつ折りの名刺が出てきた。

「竹中です」

 笑うと、白い歯が僕の目に眩しく突き刺さる。日焼けした黒い肌が、その白さを助長していた。

「よろしくお願いします」

 名刺を受け取り、もう一度軽く頭を下げた。奇しくもあの俳優さんと同じ苗字だった。この人の名は何があっても生涯忘れることはないだろうと、この瞬間、僕は感じた。

「うん。じゃあ、早速現場に向かおうかな」

 僕がそんなことを考えていることも知らずに竹中さんは、そう言って背を向け、スタスタと歩き始めた。受け取った名刺を取りあえずシャツの胸ポケットにしまって、その後を追った。

 道中は取り留めのないやり取りがポツポツと続いた。

「今いくつ?」

「もうすぐ十九になります」

「学生さん?」

「はい、大学生です」

「出身は関東?」

「いえ、福岡です」

 僕がひとつ答える度に竹中さんは「へえ」や「ふうん」などと、何かしらの反応は示してくれるものの、特に興味もないようだった。だが彼の歩く速さに気を取られていたこともあって、それについて特に思うことはなかった。

また、〝歩くのが速い人〟であると同時に〝何か聞く度に僕の方を振り向く人〟であるという印象を覚える程、彼はしきりに僕の目を見て会話をする。気のない相槌が気にならないのはそれも理由の一つかも知れない。

「あの」

 少しの沈黙が訪れた時、今度は僕の方から切り出した。

「今からするのはどんなお仕事なんですか?」

 一昨日の電話の時も、昨日の顔合わせの時も、具体的な仕事の話は聞かされていなかった。昨日なんて、挨拶もそこそこに

『いいね! 君みたいな人を探してたんだよ』

と握手を求められる始末だ。当事者であるはずの僕は、置いてけぼりを食らっている気分がどうにも拭えなかった。

「着いたら話すよ。体験だし、やりながら説明するのが早いから」

 竹中さんは僕の目を見てそう答えた。

 やや釈然としないが、そういうことなので僕は黙って従うことにした。お金ももらえるし、昼まで学校もないので暇をもてあそぶよりはずっと効率的だ。

「着いた! ここ、ここ」

 突然に竹中さんは立ち止まる。一軒のビルの前。少し煤けたおよそ五階建てのそれは、都心の高層ビルの間に、無理やり詰め込まれたみたいにひっそりと建っていた。

 両開きのガラス戸の右側を引き、更にその中へと入っていった。戸が閉まる前に滑り込むように中に入った。

古びた外観に反して、建物内は思いのほか新しかった。湿っぽさもなく、右手の郵便受けの上にもホコリはのっていない。造りは古いが掃除は十分行き届いていて、古い建物特有の錆び付いた印象はなかった。郵便受けの向かいに管理人室があるが、その窓には内側からカーテンがかかっていた。奥には上へ続く階段があり、先を行く竹中さんはもう一段目に足をかけていた。この様子だとエレベーターはなさそうだ。

 階段も隅にホコリが溜まっている様子もなく、手すりもまだ新しい。

「場所は五階ね。エレベーターはないけど勘弁して」

 振り向いて笑みを見せると、また前を向いて上り始めた。

 三階に差し掛かった時。香水のような甘い匂いが僕の鼻を刺激した。二階まで人の気配すらなかったこの建物が、三階に来たところで、確実に人がいたことを嗅覚という形で教えてくれた。

「浅倉君がやってもらう仕事っていうのがさあ――」

 僕がむせるのを我慢していた時に、竹中さんは言った。さっきまでのようにこちらには振り向かず、足も止めない。

「はい」

「俺はすごくやりがいのある仕事だと思ってるんだ」

「はい」

「引き立て役であまり表に出ることはないんだけど、経験や実績を重ねればスポットも浴びるし、より多くの人を喜ばせることが出来る。仕事仲間も、消費者もね」

 四階を過ぎ、休みなく五階へ続く階段を上る。

「そうなんですね」

 徐々に生活感というか、人のいる気配がしてきた。三階とは違い、人そのものの匂いがする。

「入口は簡単なんだ。正直やる気があれば誰でも出来る。でも、それをずっと続けることって言うのは難しいらしい。現に浅倉君以外にもこの仕事を初めてする人は今年に入って既に数え切れないくらいいたけど、その中で今も続いてる人なんてほとんどいない。理想と現実のギャップだったり、仕事に対する偏見だったり、理由はいろいろあるけど」

 あと十段ほど。もうすぐだ。そろそろしんどくなってきた。上手く相槌を返すことは出来なかったが、仕事の話だったので真剣に聞いた。

「正直偏見を持たれやすい仕事だけど、さっきも言ったように、やる気がある人にとってはやりがいのある素敵な仕事だよ。今回は体験だから緊張せずに気楽に行こう」

 言い終えたところで、丁度僕らは五階へとたどり着いた。

造りは今までの階と同じだ。左右に二つずつ、計四つの扉がある。光が奥からしか差さない為日当たりは悪いが、じめっとした感じはない。不思議と、階を上がっていく程にそれは薄まっているような気がした。

「緊張してない?」

 竹中さんは先に進む。

「いえ、全くないです」

 強がりから出た台詞ではない。今日はあくまでも体験であるし、きちんとお金は出る。だがお金をもらう以上は、生半可な気持ちはやめようと心に決めた。くれぐれも、さっきの竹中の話に感化されたわけではない。

 右奥の部屋の前で止まった。現場はここらしい。

「じゃあ先に準備することがあるから、そこで待ってて」

 と竹中さんは言い残し、扉の中へと入っていった。

 東京の真ん中の小さなビルの五階のひと部屋――どんな仕事なのか検討もつかなかった。少しでもアルバイトの経験のある人であれば、あるいは目星のひとつや二つ、付いていたのかも知れない。物を動かす音やわずかだが人の声も、ここから聞こえてくる。男の声しか確認できなかったが、女性の少ない現場なのだろうか。

力仕事か。だとしたら僕はとても力になれそうにない。でも生半可はやめようと決めたところだし――。

「お待たせー。どうぞ」

 扉が開き、竹中さんが顔をのぞかせた。どんなに大きいものを目にしても怯まないように、イメージを持って中に入った。

 十人くらいの、従業員と思しき人間がいた。案の定、すべて男性だ。制服のようなものはなく、皆ラフな格好をしていた。人が多く、若干の窮屈さはあるが、僕の部屋の倍以上はある。間取りは普通の部屋だが、明らかに異質なものがいくつもあった。

「何かの撮影のお仕事ですか?」

 カメラやマイク、その他僕の知り得ない機械が並び、足元はそのコードでビッシリと埋め尽くされていた。竹中さんは、折りたたみ式の椅子に腰を下ろしていた。

「そう。見たことある?」

 竹中さんにそう聞き返され、僕は頷く。大学に来るテレビ関係の人も、似たような機材を持っていた気がする。目当ては〝豪腕・鷹羽仁之介〟や〝箱根路のプリンス・甲斐教平〟で、僕はただ傍観するだけだが。

 そんな自分と無関係と思っていたテレビカメラが、今はすぐ近くにある。まさかこんな形でこの場に近づけるとは思わなかった。

「とりあえず座って」

 全く未経験な僕には、一体どんな仕事が与えられるのだろう。考えながら人も物も多いここで座れる場所を探す。竹中さんの椅子の後ろに少しのスペースがあるのが見え、僕はそこに向かった。ひとりだけ椅子に座っている様子を見ると、彼はこの中でなかなかの地位にいる人物なのだろうと推測できた。

「ああごめん〝あそこ〟に座って、ってこと」

「え、〝あそこ〟ですか?」

 竹中さんが差した先には、ひとつのソファがあった。カメラもそこを向いていた。

 そのせいか、『あっちに立ち寄ってはいけない』と脳が無意識に告げていたため、まさかそこに座るなどとは考えもしなかった。

 首を傾げながらも僕はそのソファへと向きを変え、座った。

「じゃあ、面接だと思って何個か質問するね」

 機材の向こうで竹中さんは言った。表情はさっきと変わらず、穏やかだ。

「ご職業を伺ってもいいですか?」

「えっと、学生です」

 答えながら、何かモヤモヤした気持ちになった。その原因は直ぐにわかった。

「そうなんだ。大学生?」

「年齢は?」

「出身は?」

 質問の内容が、駅からの道中で聞かれたことと同じ内容だったからだ。何で今更になって。単純に忘れただけなのか、それともカメラの前で言うことに意味があるのだろうか。

「ふ、福岡です」

 加えて目の前にカメラや大勢の人間がいると、さっきも聞かれたことなのに、どうしてかすんなり言葉が出てこなかった。鷹羽や甲斐の凄さがわかった気がした。カメラを向けられると、こんなにも言葉が出てこないなんて。

「へえ。わたしも福岡なんです」

 その声は、背後から滑り込むように僕の耳に入ってきた。今日初めて聞く女性の声に、慌てて僕は振り向いた。

「初めまして。わたしのこと知ってますか?」

 エヘヘと笑うその姿を目にした僕に襲った衝撃――〝雷に打たれたような衝撃〟とは、おそらくこのことだと思った。

 下着姿で、やや派手な化粧を施した、年齢は僕と同じくらいの女性。釘付けになったのは、水色の下着ではなく、いたずらっぽい笑みを浮かべたその顔だった。

 僕は彼女を知っていた。

「……」

 言葉が出ない。三階に漂っていたものと同じ香りのする彼女を前にして、僕のあらゆる機能が一斉にダウンした。僅かな判断力のみを残して。

「あれ、固まっちゃった? 愛染ゆかりでーす」

 違う。彼女はそんな名前ではない。そこまで判断した途端に、全てのシステムが停止した。

 姿は変わってしまったが彼女は間違いなく、藤村彩季――僕の初恋の人だった。


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