『花は足でいける』
むかしは、一木一草を立てるたびに、
この枝は慈悲の枝、
この枝は智慧の枝、
この枝は諸仏が列座してる枝、
あるいは、
この枝は主君の安全を祈って立てる枝と、
美しさというよりも、
思いや願いを花に託して生けたといいます。
その後、仏前供花で花を生けるようになって
人々は自然の中で草木の営みを見ながら
見えない神さまを感じて生きていました。
そこには生きとし生ける草木を敬い、
”人は自然と共に生きる”という
自然信仰心があったのだと思います。
誰が言ったかは、分かりませんが、
『花は足で生けよ』といわれてきました。
それは、足を使って乱暴に花を生けるという意味でなく、
山野をくまなく歩き、その草の生きてきた花生を理解し
花がなにを見、なにを語りたいかを生けるということだといいます。
また、『枯れた花にも花がある』と言ったのは、池坊専応。
専応以前の〈いけばな〉は、
中国から渡来した高価な器に美しい花を挿し、
互いにその良さを競い合うという傾向にあったのですが、
彼はそれを否定し、壊れたような瓶にも風情があり、
そこにありとあらゆる植物の姿をいかすことが大切だと述べたわけです。
はんなりと 憂いを佩びた 秋草に
生きる己の 生きざまを見る
詩織♪
広口の大きな篭に秋をアレンジしました。
”なげいれ”と云います。
形式にこだわらず、
自分の感じた景色を表現すればいいのです。
花材は、
山葡萄・女郎花・桔梗・野菊・水引
山葡萄の葉は虫食いのものを選ぶことで秋の風情を。
虫食いの 葉影にみゆる 紅き頬
つるべ落としの 秋の夕暮
詩織♪
____花に込める想い。