第7話:アリッサだから
溢れるような笑顔で目の前の少女はアリッサと名乗った。目線が宗一郎の顔ではなく胸元当たりにあって(恐らく豚肉に向けられている)魚の食べかすがほっぺについているのはご愛嬌だ。
その笑顔に見惚れていると、唐突にアリッサはハッとした表情をし、両手で頭を抱え左右に何回か振った後に右手で宗一郎の頭を殴ってきた。
グーである。
「アブねっ」
とっさにその攻撃を躱すとさらに左手が。それも躱すとまた右手がというのを何度か繰り返し、疲れたのかアリッサの攻撃が止んだ。
「何すんだよ」
「忘れて。私の名前は、アリッサ。アリッサだから」
「ん?アリッサってさっき言ってたよな。…あーもしかしてアリッサ=フォン=マクスブルクってのを忘れれば良いってことか?」
アリッサは猛烈な勢いで頭を上下させた。
「OK。俺はこれから君のことをアリッサって呼ぶ。姓は忘れる。だからもう殴らないで貰えるかな?」
アリッサは納得したのか、すっと右手を差し出してきた。宗一郎は持っていた豚肉を左手に持ち替え、右手を差し出し握手を交わした。
(痛っ)
アリッサが強く手を握ってきた。抗議しようと顔を上げるとアリッサが急に手を引き、宗一郎の耳元に口を近づけ囁いた。
「この名前バラしたら……殺すわよ」
「殺すわよ」の部分は強調され、ドスが利いていた。よほど隠したい事情なのだろう。宗一郎はこの話題には触れないことに決めた。まだ死にたくないからである。
(女の子の口元が耳に近づいたのに全然ドキドキしない!)
「……はい」
そう絞りだすとアリッサは耳元から唇を離し、満面の笑顔で呟いた。
「自己紹介したんだからそのお肉くれるわよね?」
宗一郎は無言で左手を前に差し出した。その声は有無を言わさぬ迫力があった。アリッサはその肉をひったくるように取り、火にかけた。
「ありがとう。実はここのところ何も食べてなくて死にそうだったのよ。あっそういえば火にかけてあった肉を勝手に食べてごめんね。匂い嗅いだだけで耐えられなくなっちゃって、無我夢中で食べちゃった。でも食べ足りないなーって思ってたら泉に魚がぷかぷか浮いているじゃない?これ幸いと1匹拾って鱗とったんだけど、これが重労働で疲れちゃってね。他の魚は後回しでいいやって内蔵をとって、焼いて食べてたんだけど、食べてる最中にピチャピチャ聞こえてきて、何事かと思ってみたら魚達いなくなってびっくりしたよ。しかも1匹残らずね。あんなにいたんだから1匹くらい残ってもいいじゃない。ねーそう思わない?しかも魚落としちゃうし。仕方ないから砂払って食べたけどね。お兄さん、魚捕まえるの上手ね。どうやったらあんなに魚取れるの?その秘訣教えて欲しいなー。……あれっ?そういえばお兄さんの名前なんて言うの?私だけが自己紹介してお兄さんがしないなんておかしい。名前教えてよ」
アリッサは全く噛むことなく長々と喋った。宗一郎が合いの手を入れる間さえなかった。
ブンブンと手を振り回していたにもかかわらず、魚の食べかすがまだほっぺについている。
「俺の名前は宗一郎。色々言いたいことはあるが。まずこれを着ろ」
上着を脱ぎアリッサに渡す。160cmくらいのアリッサに180cmはある宗一郎の上着はブカブカであったが、そのままの格好でいられると健全な青年である宗一郎には目の毒だった。
アリッサはキョトンとしながらも宗一郎の上着を受け取り、言われるままその服を着た。
(チャックを閉めると隠れてしまう。あぁ)
「ありがとう、ソウイチロウ」
アリッサはお辞儀をした。
「どういたしまして、アリッサ。色々質問に答えてくれ。まず君はなんでこんなところにいるんだ?」
「答えないとダメ?」
「ダメだ」
「じゃあ嘘つきます」
「ダメだ。ってかそれ言っちゃ意味ないだろ」
「むー。それについては言いたくありません。一飯の恩として答えられることには答えます」
「はー。じゃあ答えられることだけでいいぜ。服や靴が擦り切れているみたいだけど、どうしたの?」
「魔物から逃げる際に木の幹とかにぶつかって」
「擦り切れたと」
「うん」
「なるほど。わかった。何日くらい食べてなかったの?」
「ここ3日くらいね。飲水だけは魔法でなんとかなっていたんだけど食べ物はちょっと。狩りなんかしたことないしね。それにこの森の魔物は凶暴で」
(むっ、アリッサは魔法が使えるのか。これは魔法のレパートリーを増やすチャンスだ)
3日食わずに、豚肉の焼けた匂いがしたらつい手が出てしまってもおかしくはない。宗一郎はアリッサを怒らないことにした。
「魔法使えるの?水魔法以外では何使えるの?」
「探知魔法と回復魔法だね。どちらも初歩的なことしかできないけど」
「探知魔法?」
「うん。物の場所がわかる魔法よ。こんな危険な森には必須ね。これがなかったら私は何回死んでるのかわかんないよ」
「へーすごいね、どんなことができるの?」
「えっとー私は大体半径50m以内がどうなっているかぼんやりとわかる程度だけど本当にすごい人になると、捜し物の場所を当てたり出来るみたい。それこそ違う国のどこそこにあるってね」
(それはすごい。是非とも使いたい。……長さの尺度はm単位なんだな)
「探知魔法見せてくれないかな?」
「いいよー。でもなんにも変わんないよ。面白くもなんともないし」
「いやいや全然大丈夫だよ。興味があって一度見たいだけだから」
「うん。わかった。やってみるね。こう神経を集中させてね」
アリッサは目をつぶり何やら呪文を唱えて両手を合わせた。傍目には何も変わっていないようだが、陽気なアリッサが笑顔を捨て去り、真顔になっていた。宗一郎は何も言わずただ黙って見ていた。
すると突然アリッサがはっと顔を上げ、焚き火へと目を向けた。宗一郎もつられるように目を向けると串に刺さった黒焦げの豚肉が目に入った。
「ああー会話に夢中になって焼いてたの忘れてたー」
探知魔法に豚肉がかかったようである。火の勢いが強いこともあって豚肉が炭化している。
アリッサは泣き顔になりながら、直火にあたっていた串を手に取りしげしげと豚肉を眺め、「うん、まだいけるよね」と危険なことを言っていたので、宗一郎は黒焦げの豚肉をひったくり、違う豚肉を空間魔法から取り出しアリッサにあげた。
豚肉を取り上げられたアリッサはふくれっ面していたが、違う豚肉を差し出したら納得がいったのか、いそいそと豚肉を火にかけて、もうそこから目を離すことはなかった。
焼けるまで目を離さないと思われるので、宗一郎はアリッサからの情報をまとめることにした。
まずアリッサはキチンと鱗をとってから火にかけたこと。そういう知識がアリッサにあることも重要だが、もっと重要なのはアリッサが豚肉を食べ、魚を拾い、鱗を取り、火にかけ、ある程度焼けるまで気づかなかったことだ。考えに没頭し過ぎである。宗一郎は一層身の回りのことに気を配ることを決めた。
次にアリッサは何かのトラブルに巻き込まれてこの森に逃げ込んだ可能性が高いこと。そうでなきゃこの森に来た理由は言えるはずである。迷ったとか、何かの素材が必要だとか。それが言えないとなるとトラブルとしか思いようがない。しかしアリッサはその事を隠したい事情がありそうなため、宗一郎は深く突っ込まないことにした。
最後はアリッサに苗字らしきものがあることだ。宗一郎にはフォンがドイツ語だった記憶がある。大学でドイツ語をとっていたのだが、寝てばっかりいたから意味はわかるはずもない。初歩的なイッヒくらいしか覚えていない体たらくである。生前の知識だと、苗字があるってことは貴族以上ということになる。そんな貴族のお嬢様が護衛も付けずに危険な森へ来ている理由はなんだろうか?
宗一郎は疑問点をまとめ終わった後で探知魔法を試してみることにした。今までとは違い、何らかのアクションがあった訳ではなく、女の子が集中している姿を見ただけなのだが、使えるのだろうか?
(可愛かったけど)
しかし封印魔法と結界魔法もピョートルのを見ただけで、宗一郎にも発動出来たので今回も出来るかもしれない。
とりあえず物は試しと思って探知のイメージをしながら【ダウジング】と唱えるとファーっと周りの状況が頭の中に入ってきた。
泉の中で感電の後遺症などはなく優雅に泳ぐ魚達、朝日に晒され日光浴をしている猫、窪んだ大地、蜜をすすっている昆虫、天に届けとばかりに伸びている大樹のてっぺんに巣を作って雛に餌をあげている鷹、肉をじっと見つめているアリッサ、恋人つなぎをしているケンタウロス。
(ん?ケンタウロス?)
宗一郎の探知魔法にはケンタウロスがこの泉に向かって歩いてきている姿がかかった。ケンタウロスの争いを見た限りでは途方もなく強そうであった。宗一郎は逃げることに決めた。
「アリッサ。まずいことになった。ケンタウロスがこっちに向かってきている。早く逃げないと」
「ケンタウロス?危険度Aクラスの魔物が?1体狩れば1年は暮らせるほどの財産を得られるケンタウロスが?冗談言わないでよ。確かにこの森に生息しているって聞いたことはあるけど、私の探知魔法にもかかってないし、1年に1回討伐されるかどうかの魔物だよ」
衝撃の事実に宗一郎は愕然とした。恋に敗れたケンタウロスの死体を持ち帰れば1年は遊んで暮らせたようである。
(ピョートル教えてよ。そうしたら空間魔法に放り込んでおいたのに。いやっよく考えたらその時は空間魔法使えなかったか。ピョートルは任務と関係ないから無視したんだろうな)
「でも本当に向かってきているんだ。俺の探知魔法に引っかかってさ」
「探知魔法?さっき私に探知魔法のこと聞いてきたソウイチロウがなんで使えるの?何年も修行が必要なんだよ」
「いやっそれはだな……俺は飲み込みが早くてすぐ使えるようになれる体質なんだ」
宗一郎は『加護』については隠すことにした。
「はぁ?そんな体質の人知らないよ。いたらすごいけど魔道士の敵じゃん。努力無しで魔法が使えるなんて」
(やっぱりそう思うよな。面と向かって言われると凹む)
「とにかくこっち来て。俺を信じて。豚肉またあげるから」
アリッサは半信半疑で付いてきた。手には生焼けの豚肉が握られていた。
泉から離れて、草陰に隠れた。勿論焚き火は水魔法で消火済みである。
「豚肉沢山頂戴よ」
「わかったやる、やるから。ひとまずじっとして」
5分程じっとしていたが、アリッサは次第に飽きてきて宗一郎の腹を肘でつつき、その反応を楽しんでいた。
「そういえばソウイチロウはどこから来たの?」
「遠いとこ。歩いたら1年とかで着かないとこだな。すごい田舎だったからこの世界のイロハがわかんないから、色々教えてくれると助かる」
「1年?そりゃ遠いねー。そんな遠くからこんな危険な森になんで来たの?……あっやっぱり良いや。私も理由を言ってないのにそっちに理由を聞くのはフェアじゃないから。うんいいよ。このアリッサさんに任せなさい。なんでも教えてあげるわ」
「フェアって……俺アリッサに大量の豚肉あげてると思うんだけど」
「あぁそれは大丈夫。お腹が減っている人に対しては見返りを求めちゃいけないってのが私の信条だから」
「いやっそれはアリッサの信条であって俺の信条ではない」
「気にしない気にしない。持ちつ持たれつ」
「はぁまぁいいか。アリッサの性格もわかってきたし」
なんてとりとめもない会話を繰り広げていると、突然アリッサが真顔になり宗一郎の頭を地面に叩きつけた。
宗一郎が「痛っ」と思って顔をあげると目の前にはアリッサの胸があった。どうやらアリッサもふせているようで目のやり場に困る。
アリッサは人差し指を唇に当てて、静かにするように訴えた。宗一郎がそれに従い黙っていると、向かい側の茂みからケンタウロスが出てきた。ケンタウロスは手をつなぎながら、泉に口をつけ水を飲んだ。
宗一郎が「ほらな」と得意げな表情をつくりアリッサを見ると、アリッサはガタガタ体を震わせながら小声で呟いた。
「そんな!?ケンタウロスが本当に来るなんて。あの時から見えていたなら半径1km、いやっもっとかも。でも半径1kmなんて人見たことない。先生でも無理だったし、あり得ないわ」
アリッサは一拍間を置いた。
「ソウイチロウ、あなた一体何者なの?」