虚像の愛
虚像の愛
携帯電話の音がする。この音は多分葵のものだ。目を開けて窓の外を見る。
雨は止んだようだ。窓の外から金粉のような光が差していた。
--昨日の晩は何をしていただろうか?
この部屋の住人である野崎優也は天井を見つめて考えた。
「優也?起きてるー?」
声は部屋の外からだ。やがて扉が開き、黒目がちな女性が顔を見せた。
霧島葵。その女性の名前だ。
「…葵…」
優也は少なからず驚いた。なぜなら葵と彼は昨晩喧嘩をしたはずだからだ。同棲中の彼女との喧嘩のきっかけはとてもくだらないことだったが、近頃うまくいかないあれこれの苛立ちも相まって瞬く間にエスカレートしていったのだった。結局葵が泣き出し、家を飛び出していった。さすがに優也もまずいと思い彼女を追いかけて家を後にした…そこまでは彼も覚えていた。しかし、そこから先の記憶がない。
「優也?起きてんなら朝ごはん手伝ってよ」
葵が焦ったそうに唇をすぼめた。
「…わかったよ…」
葵には聞きたいことがある。でも、それは朝食をとった後でも構わないだろう。
そう思って優也は体を起こした。
「…でね、その話をしたら美希、なんて言ったと思う?」
葵はパンを齧りながら友人の美希の話を延々と続ける。優也はうんうんと相槌を打っていた。テレビからは、昨夜起きたひき逃げ事件について語る声が流れている。
不意にテレビの音が途切れた。見れば葵がテレビのリモコンを持っている。
「優也、私の話聞いてる?」
唇を尖らせて葵がこちらを見つめる。
「ごめんごめん、聞いてるって」
優也が苦笑いすると、葵はいたずらっぽく笑った。
「…あのさ、葵」
「…何?」
優也は不意に真面目な顔で葵を見つめた。
「…昨日は…その…ごめん」
葵は目を丸くした。
「…優也…。ううん、いいの。そんなこと気にしないで。私こそごめんなさい」
その言葉に安心して、優也はふと息をついた。
「…ところでさ…その…俺…」
優也は事実を告げるべきか迷った。昨日の記憶が一部ない、と。葵は無邪気に首を傾げている。
「スマホなくしたこと?」
優也の言葉を待つことなく葵は声を放った。
「…え?」
「違うの?いつも朝から持って起きてくるのに今日は持ってないから…」
優也はようやくその事実に気づいた。
「…そ、そう…それ!どこいったか知らない?」
「…昨日外に出た時に落としたんじゃない?」
--外に落とした…。だとしたら探すのは大変だ。
「散歩しようよ、探すついでにさ」
葵が身を乗り出してくる。
「そうだなあ。そうしようか」
優也は頷き立ち上がり、葵の手を取った。
つないだ葵の手はほんのり冷たかった。
「あーあ、桜は昨日の雨で散っちゃったか…」
すっかりみすぼらしい姿になってしまった桜を見上げて、葵は残念そうに言った。
「でもまだ屋台はでてるよ」
大通り沿いにずらりと並んだそれらを眺めて優也は笑った。屋台を覗き見る人たちで大通りは通勤ラッシュなみの混雑だ。こんな様子ではいつはぐれてもおかしくない。その上、葵はなぜかハイテンションで人ごみの中へ飛び込んでいく。彼女の手を必死に掴んでも何度も見失いそうになった。
「葵!ちょっと止まってくれよ!」
優也の呼び声もむなしく、ついに葵の手は優也の手をすり抜けてしまった。
「葵!葵!」
呼びかけてももうどこにいるのかわからない。彼女の返事もない。それでも雨上がりの春の陽の中で、どこか遠くから葵の明るい笑い声が響いているような気がした。
どれくらい歩いただろうか。いつの間にか人ごみはなくなり、辺りは静まり返っていた。優也の目の前には大きな日本家屋がある。
「ん?これじゃ迷子は俺の方か?」
風情ある日本家屋をぼんやり眺めながら優也はため息をついた。
「…何かご用でしょうか」
突然かけられた声に優也は飛び上がるほど驚いた。見れば、黒ずくめの和装の人物がどことなく気だるそうに竹箒をもって立っている。その人物は優也の顔を見つめると不意に謎めいた微笑を浮かべた。
「…あ、いえ。桜祭りで迷ってしまって…」
「…ああ、この時期はそうですよね」
しまったと優也は思った。立ち去るタイミングを失った。それならば適当に世間話をしてタイミングを計り直そう、と彼は考える。
「大きな家ですよねここ」
なんとか話題を引きずり出す。
「…ええそうですね。一人だといささか広すぎます」
なんだかわかりにくい人物だと思った。さっきから意味ありげな微笑は少しも変わっていない。これはまるで…そう、人形のようではないか。
「申し遅れました。私は人形師のシキと申します」
「にんぎょうし?」
優也は鸚鵡返しに聞き返した。
「はい。人形を作る仕事です」
人形を作っている人物がまるで人形のようだというのは奇妙と言えば奇妙かもしれない。
「ご覧になりますか?」
「あ…はい」
シキの誘いにどうして乗ったのか、それは彼にもわからなかった。
「では、こちらへ」
言われるがまま優也は家の中へ入った。
「…そういえば、彼女さん元気ですか?」
シキに問いかけられ、優也は固まった。
「え?なんで彼女のこと…話してないですよね?」
問いかけるもシキは曖昧に笑っただけだった。
シキはどんどん敷地の奥へ歩いていく。優也はその後ろ姿をじっと見ていた。
--後ろで無造作に丸められた黒髪は、下ろせば肩くらいまでありそうだ。黒い着物は上質な生地であるらしく、木漏れ日が滑らかに滑っていく。
やがてシキは母屋の前に着き、その扉を開けた。
家は確かに広かった。土間や縁側、畳のある伝統的な作りだった。その中の板張りの床の部屋に優也は案内された。
「…うわ…」
部屋は人形だらけだった。小型のものから等身大のものまで。そしてどれもが驚くほどに精巧だった。触れれば弾力と温もりを感じそうな人形たちは冷たいガラスの目でこちらを見下ろしている。
「…ここにあるものは完成させたばかりの人形です」
シキはまた穏やかに微笑みながら言った。
「どんな人がこの人形を買うんですか?」
優也の問いかけにシキは微笑みをうかべたまま答えた。
「まあ…色々な方が色々な目的で…」
その声を聞きながら優也はもう一度部屋を見回した。相変わらず人形の目は冷たい。
--不気味だ。優也は思った。そろそろ帰りたい。そう思った時だった。
「優也ー!」
葵の声だった。
「彼女さん、来たみたいですよ」
シキがこちらを振り返った。
「そうですね。で、では。ありがとうございました!」
「楽しんでくださいね」
そういったシキの目にはどこか悲しげな光があった。
「優也、探したよ」
葵が不安げに手を握ってくる。
「ごめん」
「平気、でもここなんかちょっと怖いよ。早く行こう」
そう言って葵は優也の手をぐいぐい引いて自宅への道を歩き出した。
自宅に戻った二人はリビングのソファに腰掛けてのんびりとした静かなひと時を過ごしていた。結局、優也のスマホを探すためのはずだった散歩は全く違うものになってしまい、彼のスマホは見つからずじまいだった。しかし、優也はもうスマホのことはどうでもよくなりつつあった。
その時、玄関のチャイムがなった。
「誰だよ。俺が出てくるね」
リビングを出て玄関のドアを開ける。そして来訪者の顔を見て、言葉を失った。
「警察です」
静かな声と同時に突きつけられる警察手帳。優也は息を飲んだ。
「…なんの、ご用でしょうか」
刑事は一瞬悲しそうな顔をした。
「昨夜、この近辺でひき逃げ事件がありましてね」
ああ、そういえばそんなニュースを朝見たな、と優也は思う。しかし、刑事が継いだ言葉は彼の想像をはるかに上回っていた。
「…その被害者の身元がわかりまして…」
言いにくそうに沈黙したのち、刑事は優也をまっすぐ見た。
「霧島葵さん。…あなたの交際相手だった女性です」
「…葵…が?」
何を言っているんだと思った。葵は死んでなんかいない。今だってこの家の中にいるのだから。そう思ってリビングを振り返った時、優也は驚愕した。
--葵が、いない。飲みかけのグラスやお菓子のゴミだけを残して彼女は忽然と消えていた。
「…葵…葵っ!」
優也は叫び、刑事を押しのけて外へ飛び出した。すでに陽は傾き、黄昏時になっていた。
訳も分からず、ただ何かに引きずられるように優也は走った。
--耳鳴りがしてきた。優也は立ち止まる。
同時に目の前に昨夜のすべての出来事が蘇ってきた。
昨晩優也は、家を出た葵を追いかけて雨の中を走っていた。葵にはすぐに追いついた。家の近くの道路の歩道だった。
本来二人の喧嘩はそこで終わるはずだった。しかしこの日はどうしてか喧嘩は収まらなかった。
「お前はなんでいっつもそんなにわがままなんだよ!」
怒りに任せた優也の叫びに、葵も叫び返した。
「私はいっつも我慢してるよ!優也は何もわかってない!」
言い放つと同時に、葵はガードレールを乗り越えて車道へ飛び出した。どこかへ走り去ろうとしたのだろう。しかしそれが悲劇を生んだ。
猛スピードで突っ込んできた車をよけることなど、葵にできるはずがなかった。
優也が叫ぶ暇もなく、葵が悲鳴をあげる時間もなく、その体は跳ね飛ばされた。
車は走り去っていった。数メートル吹き飛んだ彼女の体はアスファルトに落下したあと動くことはなく、その光景を見ていた優也の体も動かなかった。
--息が上がっていた。見回してみれば、それは昨日の事故の現場だった。優也は呆然と立ち尽くしたままだった。昼下がりまで快晴だった空は、昨晩のように重苦しく曇り雨が降りそうだった。
葵は、死んだのだろうか?あの事故の後、自分は発狂したかのようにその場を走り去り、自宅に戻っていた。そして昨日の出来事は記憶から消えた。あまりにショックが大きかったのだろう。
それなら、今日、自分の目の前にいた『葵』は誰なのだろう。幻でも見ていたというのか。
--いや、そんなことがあるものか。彼女の手を握ったし、彼女はものを食べたり、飲んだりだってしていたじゃないか。
真実を、知らなければならない。
優也は思った。うつむいていた顔を上げると、車道の向こう端にスマホが落ちているのが見えた。
ストラップでわかった。自分のものだ。
--アレで葵に連絡が取れれば…。
優也の手はガードレールに掛かっていた。ゆっくりと足もそれを乗り越える。そのまま彼はフラフラと車道へ出て行った。冷たい雨が降り始めた。
一歩、二歩と彼が歩みを重ねるのに合わせて、雨脚も強くなってきた。
--昨日の夜と同じだ。
そう思った時、
「優也っ!」
葵の声だ。振り返ると先ほどまで自分がいたところに彼女はいた。
「…葵」
--よかった、ちゃんといるじゃないか。
優也は思って、彼女に向き直った。そして、彼女の目がこぼれ落ちそうなほどに見開かれ、顔は恐怖の色に染まっているのを見た。
「危ない!」
「…え?」
葵の叫びで、優也はようやく迫り来る自動車に気がついた。
目の前に車のライトが迫る。葵が走ってくる。
--葵が自分を思い切り突き飛ばしたのがわかった。
地面にぶつかる衝撃が体の底まで響いた。痛みを振り払って優也は起き上がった。
「葵…!」
あの日と同じように、車は走り去った。葵は地面に倒れたまま動かない。優也はフラフラと彼女に近づいた。
不意に葵が体を起こした。
「大丈夫なのか…?」
彼女を助け起こして、優也の心臓は止まりそうになった。
--葵の顔は、半分無くなっていた。そこから覗いていたのは、赤い血肉ではなく精巧な数々の部品だった。
ちぎれた腕も血が滴ることもなく雨に打たれて転がっていた。
優也の顔を見て、葵は申し訳なさそうに笑った。そうしてぐったりと目を閉じた。
--人形…彼女は精巧な人形だ。
優也は腕の中の彼女を見つめて震えた。
--人形師のシキ…
そうだ、あの人物はとてつもなく精巧な人形を作っていたし、なぜか葵のことを知っていた。
それなら、会いに行かなくてはならない。
大雨の中、優也は葵の人形を抱えてあの大きな日本家屋の前に来ていた。中に入ろうとして思わず立ち止まった。
門の前に、シキが唐傘をさして立っていた。赤い色が灰色の雨の中で際立っていた。
「…いらっしゃると思いました」
シキは静かにそう言って、優也に傘を差し出し、自分は葵を抱えた。
「詳しい話は中で。あなたには全てを知る権利がある」
シキがどんな表情をしていたのかはわからなかった。
家の中に入って、しゃがみ込んだまま動けなくなってしまった優也にシキは大きめの毛布をかけた。
「…さて、どこからお話ししましょうか」
そう言って隣に腰掛けた。
「あの日、葵さんが事故にあった少し後、たまたまあの場所を通ったんです」
--雨の中の惨状にシキは驚いたという。しかしそこにあったのは彼女の無惨な遺体だけではなかった。
人が死んだ後、すぐに存在が消えるわけではない。人の意識、思念、いわば魂のようなものはしばらく形をとどめている。シキは彼女のそれを見つけた。そしてそれを一時的に人形につないだ。
「葵さんが何か思い残しているのは明らかでしたから」
シキはそう言って息をついた。
「…それなら、あなたは霊媒師か何か?」
疲れたように優也は問いかけた。
「どのような認識でも構いませんが、私たち自身は自らを『魔術師』と名乗っています」
--魔術師か。まあ、どうでもいい話だ。
シキが不意に優也の顔を見た。
「死人の魂をつなぎとめられる時間は長くありません。そろそろ限界でしょう。彼女と話をしてきては?」
優也は立ち上がり、シキに導かれるままに奥の間に入った。
「優也」
葵が呼びかけた。壊れた部分はシキが修理したのか綺麗になっていた。
「葵…」
涙が出てきた。
「ごめん、俺が…ごめん葵…」
ふと葵が優也を抱きしめた。
「いいの、あなたのせいじゃない。私こそごめんね」
--彼女はもうすぐいなくなる。こんなに愛していたのに、全てが消える。
「…優也、幸せになってね。そのためなら、私のこと、忘れてしまっても構わない」
優也は目を見張った。葵は泣きそうな顔をしていた。人形の彼女に、涙はなかったが。
「…でも、お願い。できれば、忘れないで。時々でいいから、思い出して…」
強く彼女を抱きしめる。
「…忘れない。絶対に忘れない…!」
そうして優也は、葵がただの虚ろな彫像に変わるまで、ずっと彼女を抱きしめていた。
携帯電話の音がなる。この音は多分自分のものだ。雨は止んだようだ。綺麗な青空が見える。
手に取った携帯電の画面には葵の友人の名前が映し出されていた。
「出た方がいいと思いますよ」
音もなく自分の横に立ったシキが微笑んだ。
「何せ、昨日から行方不明だったんですから」
--昨日の晩、葵が消えてから涙が枯れるほど泣いていた優也は、それでも彼女の人形をシキとともに丁寧に弔った。その後この家に泊まったのだ。
優也は通話ボタンを押してそっと電話を耳に当てた。
「…もしもし?美希?」
『優也?今どこにいるの!昨日からいないって警察から連絡あって…大丈夫!?』
「…ああ。大丈夫。大丈夫だよ」
再び溢れそうになる涙を優也は拭った。
「今から、帰るから…」
--幸せになってほしいと、葵は言った。今はその言葉にすがって生きるしかない。
電話を切った優也は顔を上げた。
「シキさん、お世話になりました」
玄関で深々と礼をする。
シキは穏やかに微笑んだ。
「…顔を上げて、生きてください」
ゆっくりと背を向けて、優也は日の光と向き合った。ざわりと風が吹きぬける。
--葵を、愛していた。そして、今も。こんな気持ちはこれから先、いつか薄れて消えていくのかもしれない。愛は、実体のない、虚像のような、存在すらしないものかもしれないのだから。それでも、彼女を愛していた、愛していると思っていたことだけでも、この心に刻んでおこう。そうすればきっと、その愛は、思い出という形に残せるはずだから。
一歩、また一歩と歩いていく。やがて門の向こうに街の喧騒が見えてきた。
虚像の愛 完