初めの一歩
それは、私の第一歩の切っ掛けでした。
小中高と流されるまま進学し、何となく終わってしまい、何となく就職して今に至る訳だが。
ある冬の休日。
具合の悪くなってきた冷蔵庫を新調しようと、二つ先の町に向かおうと、駅に向かった。
微妙な気温で、少し悩んだがコートではなく、厚手のパーカーを選んだ。
外へ出ると、ギリギリ息は白くならない。
上着の選択は正解だったようだ。
東京都の23区にある我が家、住むには良い所だが、便利な商業施設や家電量販店もなく、遊ぶ場所もない所。
その為、大きな買い物をするには、他の町に行くしかない。
無駄に家具屋は多い。
午後2時を回った所なので人通りは少ない。
改札を抜けホームへ向かう。
通勤に使う路線なので、定期が使えるのはありがたい。
不思議な、両脇に小さな秋刀魚が、いくつも並んだ整列位置の左側に立つ。
ちらと横目で、電光掲示板を見ると、次の電車まで5分。
この路線にしては時間が掛かる。
他の路線と比べると、圧倒的に本数は多いのだが、何故か長く感じてしまう。
電車を待っていると、反対側の整列位置から、線路を見下ろしている男性が目についた。
何をしてるのかと眺めていると、いきなりとんでもない事をしたのだ。
「生きてるか?」と呟くと、手袋を外して、耳に装着用していたフルワイヤレスイヤホンの左側を外して、右手に持ち変えた。
男性の視線を追い、9―1のホームドアからその方向を見ると、線路脇に見慣れた灰色の丸いフォルムがいた。
鳩だ。鳩がうずくまっていた。
片足を上げている、明かに怪我をしている。
最早、飛べないのだろう。
カワイソウニ。
電車が何本も通過している事から、轢かれる心配のない場所なのだろう。
「あ…」
男性は右手に持ったイヤホンを躊躇なく、鳩の横に投げ入れた。
「え?」
線路脇の小石とイヤホンが当たり、小さな音が鳴る。
「よし!ナイスコントロール」と、小さな声で自画自賛する男性。
驚き固まっている私に目もくれず、その場を離れた。
1分後、男性は駅員を連れてきて、イヤホンを落としたと説明する。
「何故、あんなところに?」
駅員は首をかしげる。
そう、鳩がいるのは線路の反対側、つまりは壁側だ。
通常、落とすとしたら足元のはず、駅員の疑問点も最もだ。
身振り手振りで、苦しい言い訳をする男性。
「まぁ、落ちているのは事実ですからね…」と、納得はしていない表情で言う駅員。
「いつ、受け取れますか?」
「向こう側だと、電車を止めないと取れないので、終電後になりますね」
「分かりました。明日の朝一で来ますね」
「畏まりました。では、回収したら当駅で保管しておきますね」
「出来れば…あの鳩も一緒に保護してもらえますか?」
「は?」
二人の会話は続く。
一連を眺めていた私だが、電車が来たので、後ろ髪を引かれつつそれに乗り込む。
頭の中は、先程の出来事でいっぱいになっている。
私には出来るだろうか、勿論、褒められた事ではないだろう。
電車の運行に、支障がでるかも知れない行為なのだ。
だが、同時に羨ましくもあった。
その行動力が。
自分になんら関係ない、何の得もない、小さな命の為に、高価なフルワイヤレスイヤホンを、躊躇なく投げ込む意思、とでも言うのだろうか。
それが、彼の正義なのだろうと、勝手に思い込む。
出来ないと思った。
だけど、何か見えた気がした。
何でもいい、言い訳を始める前から用意する癖を、やめようと思った。
目的の駅に着き、大型家電量販店に入る。
無意識にエレベーターに乗り、無意識にボタンを押す。
当初の目的の、冷蔵庫の置いてある階ではなかった。
自身の意思を持って、商品を手に取り、直ぐ様レジへと向かう。
流されるだけの人生は、これで終わりにしようと思った。
フルワイヤレスイヤホンを手に入れた私は、足取りも軽く帰途へつく。
何故、フルワイヤレスイヤホンを買ったのか。
勿論、投げる為ではない。
彼のように、線路から外れて自ら走る事はまだ出来ない。
でも、線路の先に、分岐点、分岐器を作るくらいは出来るかもしれない。
このワイヤレスイヤホンは、私の第一歩の切っ掛けなのだ。
いつもより、空が高く見えた。
いや、最近、空を見上げる行為さえしてなかった事に、今更ながら気が付いた。
乾いた冷たい空気が、肺を満たすのが気持ちが良いと感じた事もなかった。
あの後、鳩と彼のワイヤレスイヤホンがどうなったのかは分からないが、生きていれば良いなと素直に思った。
初めて自分以外の、誰かの、何かの幸せを願った。
じわじわと、私の世界が色で満たされていく。
冷蔵庫ではなく、フルワイヤレスイヤホンを選んだ自分。
その選択を、後悔するかもしれない。
それでも良いと思った。
そう、思えるようになった。
今年で23歳になる私は、遅すぎる初めの一歩を踏み出した。




