少女を呼ぶ声
ユルドリッド領へ向かう街道は、前線とは別世界のように静かだった。
「いやー、それにしてもさ」
前を歩くロッドが、両腕を伸ばした。
「任務で貴族様のお屋敷に行けるなんてさ。なあ、エイナお嬢様?」
「その呼び方、やめてってば」
エイナは大鎌を杖代わりに歩きながら、むっとした顔をする。
「わたしなんか、ただの落ちこぼれだよ。兄さんと違って、何もできなかったし」
「何もできないやつが、あんな魔法撃てるかよ」
ロッドが笑う。
「今回の任務だって、エイナの家が関係してるんだろ?だったら胸張っとけって」
「……ありがと」
シグルスは二人の少し後ろを、無言で歩く。
やがて平坦な道は山道へ差し掛かった。岩肌が増え、道幅が狭くなったところで、ロッドが立ち止まった。
「お、なんだあれ」
道端の木に札が打ち付けられている。掠れた文字が読めた。
『この先 通行禁止
魔獣リンドウ 出没
既に多数の犠牲者あり』
「……マジかよ」
ロッドが顔をしかめる。
「リンドウって、あの“兵士を食うやつ”だろ?」
「ヴァン神族が戦の前に放つ“牙”。普通の兵じゃまず勝てないって。熟練者が数人がかりでやっとって話だよ」
エイナが淡々と言う。
「おいシグルス。迂回した方がよくねえか?」
迂回路を使えば一日は余計にかかると、シグルスは地図で知っていた。
「……遠回りをすれば、安全かもしれない」
そう言いかけたとき、エイナが言う。
「短い方でいい」
大鎌の柄に体重を預け、まっすぐ山道を見つめている。顔色は悪いが、瞳は固く光っていた。
「一日でも早く、兄さんのところに帰りたいの。こうしている間にも……なにかが悪くなってる気がする」
「確かにアヤは『このまま放っておけばエイナは死ぬ』と言っていた。それがいつになるのかがはっきりしない以上、無理をしてでも早めに屋敷に行かなければならない」
シグルスは告げる。
「うん」
エイナは小さく頷いた。ロッドもそれに従う。
山道に入ると、木々が密になり、頭上の空が細く切り取られた。土の匂いに、獣の気配が混じる。
「……静かだな」
ロッドが小声で言う。
エイナの肩が、わずかに震えた。
そのときだった。
世界から、音が抜けた。
足音も、風も、息の音も。一瞬で遠くへ押しやられる。
視界の端で、白い線が震えた。
(来た)
線はすぐに文字へと変わる。
《曲がり角の先 右上から
魔獣リンドウが飛びかかる》
《狙いは 先頭の男の首だ》
「ロッド」
「ん?」
「次の角、俺が前に出る」
ロッドは疑問も持たず、頷いた。
曲がり角が迫る。
白い文字が追い打ちをかける。
《ここで 左足を半歩後ろに》
《剣をやや斜め上に構える》
今度は文字を読んでから、自分の意志で先回りした。
体が勝手に動いたわけじゃない。左足が地面を掴み、上半身がわずかに捻れた。
その瞬間──岩陰から灰色の影が弾かれたように飛び出した。
巨大な狼にも似ているが、背から露出した骨が光り、紫がかった涎が滴っていた。
爪が空を裂く。
だがその軌道は、白い文字の予言の通りだった。
剣を斜め上に流す。爪が鉄に弾かれ、腕に重い衝撃が走る。
「っざけんな……!」
ロッドが後方へ跳ねて距離を取る。エイナはすでに詠唱に入っていた。大鎌に青い光が集まる。
《次の一撃は 右前足から》
シグルスは一歩、右に滑った。魔獣が地面を叩くより早く、剣でその前足を弾き上げる。砂埃が舞い、魔獣の体勢が浮いた。
「す、すごい……」
エイナとロッドは攻撃をする隙もないほどの身のこなしだった。
《剣を左下から右上へかけて振る》
信じるとか信じないとかではない。
頼れるものはこれしかないのだ。
剣を低く構え、地を蹴る。
シグルスは空を切るようなつもりだったが、そこにリンドウの腹が飛び込んできた。
少なくともシグルスにはそう感じられた。
魔獣の脇腹を斜めに薙ぐ。黒ずんだ血が飛び散った。骨の破片が飛び散る。
それでも魔獣は倒れない。血を吐きながら、再び立ち上がり、狂ったように突進してくる。
白い文字が視界いっぱいに溢れた。
《突進》
《爪》
《噛みつき》
《死》
(……違う)
胸の奥で、なにかがひっかかる。
文字の列がかすれ、代わりにたった一行だけがくっきりと浮かぶ。
《飛び込む 剣を逆手 一閃》
シグルスは一歩、前へ踏み込んだ。
魔獣の顎が開き、牙が迫る。その瞬間、身体は自然と沈み込み、地面を強く蹴る。
視界が伸び、音が消えた。
逆手に持ち替えた剣が、白い弧を描く。
次の瞬間、山道に血の雨が降った。
魔獣の首筋から肩にかけて一本の線が刻まれ、巨体が前のめりに崩れ落ちる。
音が戻る。
「お、おい……マジかよ……」
ロッドが呆然と呟いた。
エイナも、大鎌を握る手を震わせながらシグルスを見ている。
シグルスは自分の手を見下ろした。剣先から、魔獣の血がぽたりと落ちた。
傷は──ない。
そのとき、白い文字が遅れて浮かぶ。
《シグルスは左肩に深手を負い その場に倒れ込んだ》
《ロッドが彼を背負い 必死に山を下る》
(……どちらも、起きていない。またはずれだ。)
文字は霧のように崩れて消えた。
「……っ、あ……」
背後から、かすれた声がする。
振り向くと、エイナが膝から崩れ落ちるところだった。ロッドが慌てて支える。
「おいエイナ!? おい!」
「寒い……」
エイナはロッドの腕の中で小さく丸まり、歯を鳴らしていた。
土と血の匂いの奥から、別の冷たい気配が立ちのぼる。エイナの周囲だけ空気が冷え込み、ロッドの吐く息が白くなっていた。
「……聞こえる」
エイナが呟く。
「いつもと同じ。誰かの泣き声と、怒ってる声。たくさんの声が、わたしを掴もうとしてる」
ロッドが息を呑む。
シグルスの視界に、一行だけ白い文字が現れた。
《死者の匂いは 彼女を呼ぶ》
(死者の……匂い)
シグルスは魔獣の死体を見る。露出した骨は黒ずみ、血は底冷えする色に見えた。
エイナの呪いが、魔獣の死に反応しているのだと、直感する。
「……やっぱり、兄さんのせいだ」
エイナが震える声で言った。
「兄さんは、死を調べていたの。死者の国と、この世界の境目を。どうして死んだ人は戻ってこないのかって」
「わたしが死に近づくと、死も向こうから近づいてくる。声が聞こえて、寒くて、怖くて……」
シグルスはエイナの肩にそっと手を置いた。
「兄さんがなにをしたのか、ちゃんと知りたい。頼れるのは兄さんの研究だけ。どうにかできるなら……この呪いを、止めたい」
エイナは、かすかな笑みを浮かべる。
「行こう」
シグルスは言う。
「ユルドリッド家へ。お兄さんの研究を確かめる」
ロッドも頷いた。
「そうだな。ここまで来て引き返したら、男がすたる。エイナ、安心しろよ。お前の呪いだって、なんとかしてやるからな」
「……うん」
エイナは立ち上がる。足元はまだ覚束ないが、瞳の奥には先ほどより強い光が宿っていた。
三人は魔獣の死体を避け、再び山道を登り始める。
二人の背を見つめるシグルスの視界に、白い文字が静かに浮かんだ。
《ユルドリッド家の門をくぐる時 物語は 大きく書き換えられる》
文字は、山の木々を吹き抜ける風にあわせるように、静かに消えていった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!!
いよいよここから2章です。この章はエイナにフォーカスがあたる章となっています!
引き続き三人の旅路を応援していただければ嬉しいです!
評価・ブクマ・感想・レビュー等していただけると泣いて喜びますのでぜひお願いいたします!!
ではまた次話でお会いしましょう!




