第1話『それはゴキではありませんでした』 (後編)
「これ、ゴキじゃなくない?」
梨花の一言が、部屋の空気を一変させた。
加奈は雑誌を握ったまま固まり、
煙の中で、床に転がる“ソレ”をもう一度、よく見た。
確かに黒い。だが……よく見ると、ちょっと透明感がある。
羽は膜のように繊細で、ところどころにキラキラしたラメのような光沢。
身体は小指サイズ。頭、胴体、手足。明らかに人の形をしている。
しかも――
「えっ……服着てる……?」
加奈が絞り出すように呟いた。
“ソレ”は、葉っぱで作ったような小さな服を身にまとい、
ミニチュアの杖のような木の棒を握っていた。
目を凝らせば、顔もある。うっすらと、表情すら読み取れる。
「や、やば……これ……妖精じゃん……?」
「あー、なるほどね。ゴキじゃなくて、妖精殺ったってわけか」
梨花はあっさり言う。アイスをぱくり。
「妖精!?」
加奈は目を剥いた。
「妖精って……おとぎ話に出てくるやつじゃん!? 本当にいるとか聞いてないし!! ゴキの形してるのが悪くない!?」
「それは偏見ってやつじゃない?」
「え、ちょっと待って、本気でどうしよう……外交問題とか……賠償金とか……妖精裁判とか開かれたらどうすんの!? あたし裁判用スーツ持ってないよ!!」
「落ち着いて。まだ国際問題にはなってないから」
梨花はそう言いながら、床の“ソレ”をそっとティッシュで包むと、机の上に置いた。
羽が微かに揺れるが、動く気配はない。
「これ……死んでる……よね?」
「うん。たぶん。ていうか、殺虫剤ガン噴き+週刊雑誌フルスイングのコンボは誰でも落ちる」
加奈は崩れ落ちた。
座り込んで頭を抱え、遠い目で天井を仰いだ。
「……私、やったんだ……人類が最初に妖精を……殺したんだ……。これ、教科書に載るやつじゃない?」
「“ゴキと誤認され死亡”って注釈つけられそうだね」
そのときだった。
──ピシッ。
壁に、小さなヒビが入った音がした。
「……ん?」
「今の音、なに?」
二人が顔を見合わせると、カーテンがふわりと揺れた。
風は吹いていない。だが、何かが空間をかすめたような、異質な動きだった。
──ザワ……ザワ……
部屋の中に、微かな羽音のようなノイズが満ち始める。
不規則で、でも耳に残る、不気味なざわめき。
加奈の手が、もう一度雑誌を握り直した。
「ねえ……なんか……」
梨花が目を細める。
「もう来てない……?」
──次回、第2話『復讐の羽音』
第1話・完!