第1話『それはゴキではありませんでした』 (中編)
「来たァァァァァァァァァァ!!!!!!」
加奈は叫びながらスプレーを掲げた。
完全に腰が引けているくせに、手だけは前に突き出し、見えない敵へと全力で噴射する。
シュオオオオオオ!!
室内に白い煙が広がっていく。
床のポテチがスプレーの勢いで吹っ飛び、ベッドの上の漫画がめくれ上がる。
だが加奈にはそんなことはどうでもよかった。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
「お前なんかこの地球にはいらんんんんん!!!!」
叫びながらカーテン裏へ雑誌をブンッ! バシッ!と連打。
すでに冷静さのカケラもなく、理性は戦意に飲み込まれていた。
「この部屋は……! 平和の象徴なの!! わかる!? 人の生活空間なの!!」
バシッ! ドスッ! シュオオオ!
その時、空気が変わった。
霧の奥で、なにか小さな“影”が、カーテンレールの上からポトッと落ちてきた。
それは、黒くて、でもよく見ると――
黒“だけ”じゃない。キラキラ光ってる。
ふわっと宙を舞ったその姿に、羽が……ついていた。
加奈はそれを、床に倒れるまで見送った。
そして――
「…………え?」
正直、期待していたゴキブリ感が薄い。
なにか、こう……細い。脚が妙に長い。頭の形がちょっと人っぽい……?
羽もなんか、トンボじゃなくてチョウに近い……ような……?
「え……ええ……? え? なにこれ……え???」
放心したまま加奈が床に膝をついたその瞬間――
「……ちょっと、うるさすぎ」
ガチャッ、とドアが開き、妹・梨花が現れた。
髪を結び直す途中だったのか、ゴムを口にくわえて、手にはアイス。
表情は無。声も無。目の前の騒乱に対して、一ミリの感情も乗せていない。
「朝から殺虫剤ぶちまける姉とか初めて見たんだけど。ていうか、何と戦ってたの?」
「……で、出たの! 黒くて、カサカサしてて、羽があって、すごいスピードで、存在が罪なやつが!」
「説明が情緒。あと煙い。窓開けるよ?」
梨花は当然のように加奈の横をすり抜け、換気しながら床に目を落とす。
「……」
しばしの沈黙。
そして。
「これ、ゴキじゃなくない?」
「うそでしょ!!???」