第1話『それはゴキではありませんでした』 (前編)
「じゃ、留守番よろしくね〜♪」
サングラスにリゾートワンピ、頭にはつば広ハットという南国仕様の母親が、トランクをゴロゴロ引いて玄関から颯爽と出ていった。
まるでこれから日本を二度と見ないかのような、軽やかすぎる足取りだった。
「部屋の掃除は帰ってくる前にしといてね〜、あと冷蔵庫は勝手に食べていいから〜」
「あと夜ふかししないようにね〜、ゴミはまとめてから出してね〜、梨花の宿題見てあげてね〜」
「……っていうか、やっぱり全部忘れてくれてていいや〜!」
玄関で見送る姉妹を完全に置き去りにし、母は軽快に出発した。
その背中には「自由!」という文字が見えるようだった。
「じゃ、俺も行くわ! 何かあったら連絡してな!」
父はスーツ姿のまま、やたら南国なパイナップル柄のネクタイでガッツポーズを決めていた。
行き先はハワイ。表向きは仕事、実際は「仕事にかこつけたバカンス」である。
「仕事って何の仕事なの? ハワイで」
梨花(中2)は冷静なトーンで尋ねた。
「それは……現地調査だ。えーと、ヤシの木の本数とか」
「やっぱり数えるんじゃん」
そんな会話のあと、玄関のドアが「カチャン」と閉まる。
家の中には、**姉・加奈(高2)**と、妹・梨花だけが残された。
「……というわけで」
加奈はソファにダイブし、
漫画とポテチとリモコンを三位一体で抱きかかえた。
「我々はついに、自由を手に入れたあああああ!!」
「はいはい、せいぜい3日で文明を失わないようにね」
梨花はため息をつきながら、自室へと引っ込んでいった。
***
数分後。
部屋の中央には、だらしない格好の加奈が、
だらしなく横たわり、だらしなく笑っていた。
Tシャツ+短パン+部屋着のガウン。
髪はバサバサ、顔にはパック。片手にポテチ、もう片手に少女漫画。
床には食べかけのスナック袋、
ベッドには読みかけの漫画と倒れたジュース。
もはや文化的か廃墟かの境界線で揺れている空間である。
「ふは〜〜〜、これだよね。人間の正しい休日って。完全に文化の勝利」
自画自賛しながらソファの背もたれに足を乗せ、ゴロンと転がる。
「誰にも文句言われずに、お菓子と漫画とクーラー……控えめに言ってパラダイスじゃない?」
リモコンをぽちぽち押しながら、テレビを適当にザッピング。
スマホの通知は切った。勉強は知らん。明日のことも知らん。
──完璧な時間だった。
……ただし。
その静けさが、不自然なほど静かであることを、加奈はまだ知らなかった。
「…………カサ」
「…………」
なにか……今、音がしなかったか?
気のせいだ。多分。いや、きっとポテチの袋が落ちただけ。
そう思って、漫画に視線を戻す。
が。
──カサ、カササ。
「……いやいやいやいやいや!?!?」
完全に聞こえた。今度は確実に、何かが「動いた音」だ。
背筋に冷たいものが走る。
鼓動が倍速。視線は部屋の隅へ。
「……カーテンの裏……?」
ゆらりと揺れたその影は、どう見ても虫。
しかも、ただの虫じゃない。黒くて素早くて、視界から逃げるタイプのやつ。
「いや、ウソでしょ!? ここ、平和空間じゃなかったの!? 現代日本の一般家庭じゃなかったの!?!?」
叫ぶ間にも、カーテンの裏で“ソレ”はうごめいていた。
加奈は震える手で殺虫スプレーをつかみ、
反対の手で雑誌を武器として持つと、突撃戦闘モードに入った。
「こっちは文明人だぞ……!? 道具と知恵で支配してきた側なんだよ……!!」
そして、戦争が始まった――