その六「柏手 三ツ矢サイダー ほうじ茶」
その六「柏手 三ツ矢サイダー ほうじ茶」
「お願いします! 岡崎さん、テストのまとめノートコピーさせてください!」
委員長、学年一位、カラオケ上手、友達想いの岡崎みやき。手元で取ったメモの字の美しさから、Wordと呼ばれている。
ノートを借り受けたのは、濱上推春。「すいしゅん」と読むが、「最推し」というあだ名で親しまれている。
「ええでー。なんたってうちの最推しやから、テスト頑張ってー」
わらわらと群がってくる、クラスメイト。そろそろテストだ。高校は、一般的な都立高校で、岡崎の関西弁はとても珍しい。
二年前、高校一年だった時に、関西の一流私立中高から、家庭の事情でゆるっと転校。
勉強は自分でやるタイプだから、ノートにはたまに不可解な数式がメモされていることも多いけど、わかりやすくてクラスメイトに定評がある。
学年一位というのは、満点ということで、何も間違えない。その岡崎の結果に発奮して、いろんな子が学力を上げた。
濱上はカジュアルプレーヤーなので、ノートを借りて効率よく点数を稼ぐ。
ノートを借りた面々は、テスト前になると岡崎を拝む。中には柏手を打つ人もいる。岡崎は、神になりつつあった。
***
テストが終わると、岡崎神への奉納が始まる。
「三ツ矢サイダー好きやねん」
ということで、一・五リットルの三ツ矢サイダーが八本、岡崎の机に置かれる。もう一度柏手を打つ。
有意な点数の上昇が結果に現れる。先生もこっそり感謝している。
ぷしゅっという炭酸の弾ける音がして、ペットボトルを開けると、ぐびぐびと飲む。
「みやきちゃん、それで太らないの?」
女子がちょっとした嫌味をかけると、岡崎神信仰者の最推しが「お前と違って頭使ってらっしゃるからな」と言い、喧嘩勃発。最推しは女子にフルボッコにされた。
***
「岡崎さん、放課後何やってんの?」
「本屋とかかなぁ」
「どこ住んでるの?」
「戸山やで」
「池袋派? 新宿派?」
「うちは断然新宿」
「紀伊國屋?」
「ブックファーストはちと洒落すぎんかね」
「何読むの?」
「理学書」
「数学?」
「主に物理と数学。あと、絵描くんやで。あんま上手ちがうけど」
***
戸山に帰ると、母親がほうじ茶を淹れてくれる。
広いリビングテーブルで勉強する。母親も、在宅ワークをする。いつも娘が三ツ矢サイダーを飲んでいるのだけが心配で、せめて家にいる時だけはノンカロリーのものを美味しく飲む習慣をつけてほしいという、母心なのだが、岡崎はあんまり気にしていない。
父親は東京出身で、戸山の家は、昔祖父母が使って残してあったものを借りている。
母は神戸の人だ。
学校で神様な岡崎も、母の前では普通の女の子で、よくわがままを言う。唐突に肉じゃがが食べたいなどと申す。母の関西風の肉じゃがが好きなのだ。
関西にいた時は塾に通っていたのに、今は通っていない。だからといって、学校の部活にのめり込むでもなかった。
***
最推したちは、岡崎を崇める。それを、岡崎は受容の一形態と考えていた。
岡崎の学力は、千人に一人レベルで、まともに受け止めたらその都立高校は耐えられない。
崇めるというのに内実はない。儀礼的なものだ。崇めることで最推したちは自分の心の平穏を守る。力を持つものが、暴れないように。
もちろん岡崎が暴れることなどない。ただ、力を持つものは、単に不愉快になるだけで、多くの影響を周囲に及ぼす。最推したちはそれがわかっていた。
崇める側は、実は本気で畏怖しているわけではないのだ。全ては形だけ。
人間関係が良いのだとしたら、それはその両端の人間の協力の結果と見るべきだ。どちらか一方が力を持っていても、適切な配分が保たれていなくてはならない。
***
ほうじ茶と肉じゃがが出てきて、家族で食卓を囲み、くだらない話をする時、もう岡崎は神ではない。
力を持つものが居丈高になることほど、不恰好なことはないと、岡崎はわかっている。その分際をわきまえる態度に、信仰は集まるのかもしれない。