その四「バスタオル 上乗せ 寂寥感」
その四「バスタオル 上乗せ 寂寥感」
血を吸う。
「はやく! タオル持ってきて!」
ありったけのバスタオルを。
事務室から、清潔とも言えないような、バスタオルもタオルも、持ってきて。
救急車がサイレンを鳴らして近づいてくる。
「生きろよ! 絶対死ぬなよ。話さなくていい。痛いだろう。すぐに助けが来るから」
同僚が刺された。
犯人を恨むのはもちろんだが、今は、失血を止めることが優先。
救急車に乗ったのは課長で、僕は、救急車を見送ることしかできなかった。
***
犯人は捕まったが、同僚は復帰まで時間がかかるらしい。
見舞いに行こうとも思ったが、逆にプレッシャーをかけることにもなりそうだから、チャットを投げかけることもしなかった。
僕は、その同僚の男の子が好きだった。
よく、文学の話とかをして、盛り上がっていた。
彼の回復を祈るとともに、手元に溢れた血の、残像が、拭えなかった。
あんなに、血が流れて、大丈夫なはずがないよ。
臓器に深々と刺さったナイフ。
思い出すと涙がこぼれた。あの生温かい血。あの子の体温だ。痛かっただろう。
失血で、意識もなかった。
***
悲しいことは、上乗せされる。
取り留めた命だけでも、喜ぶべきだが、失血による後遺症で、彼の体には麻痺が残った。
職場に復帰することは叶わず、彼は、静かに、職場を去った。
チャットしても返事がない。
顔を見たいと思ったが、「助けた顔でもしたいのかよ」と、鏡の前の自分がニヤリと笑ったから、怖くてそれもできなかった。
仲良くしていたのに、残念だ。
残念なんて言葉では、本当は言い表せない。僕は、引きずり込まれるように感情を地に落とし、人が変わったかのように、冷酷になった。
二つのことが一塊で捉えられて、半身をもがれたような痛み。
あの子が、感じた痛みを、僕もこの身に受けていた。体験しなければわからないなんてことは、ない。痛い。痛い痛い痛い痛い。痛いよ。痛いよ。
あふれる血が、関係まで侵食してにじむ。
***
音楽を聴きながら、長い時間電車に乗って、会社に行く。
楽しさが悲しさに反転して、意欲が無気力へと逆転する。
寂寞も寂寥も感じない。
風景に意味なんてない。
悲しみが映っている風景なんてない。そこには、何も映っていない。単に、僕から、寂寥感を覚える感覚器が、奪われただけなのだ。
だから、彼が死んだからといって、何かを感じることもないのだ。