その三「囚われ 信仰 手袋」
その三「囚われ 信仰 手袋」
矢継ぎ早に、町継くんは、私にいくつかのことを言った。
一緒に映画を観て、私が「孤独って少しわからない」と言ったことに、興味を持ったみたいだった。
町継くんは、孤独に触れられるのだと。
もう私たちは二十を過ぎているのに、どうしてこんなことを考える?
友達として、何度となくデートをした。
大学を卒業して、入った会社で同じ職場で。
徐々に仲良くなって、今は本当に楽しい。
女として、私が町継くんのことを好きであるとか、そういうことは特にないのだけど、でも町継くんの笑顔はとても可愛いと思う。
二人とも恋人はいない。
渋谷のパルコで、私たちはよく遊んだ。
定期的に通う店があり、服を選び、ご飯を食べた。
小旅行に行くこともあった。
私たちを囲む空間が、かすかに震える。
私は、とても嬉しかった。
タバコを吸い、酒を飲み、高いご飯を食べて、お金を使う。それらをそつなくこなして、まだ私たちは、童顔で、幼くて、わがままで、残虐だった。
わずかでも、内省的なところがあれば、少しは人生に色がついたかもしれない。
「普通人ならシミ程度だよ」
そうかもしれない。
普通人。特別な人を、私は見たことがない。全てはテレビの中の出来事、あるいは動画の世界だった。
素朴に、単なる受益者であることを、恥じたり悔いたりしたことはない。
アイデンティティなんて、ちょっと洒落た言葉、くらいの認識だ。
囚われている人が、かわいそう。何かを自分に見出そうとあがいている。
でも、囚われていない人生には、なんの目的もない。ただ、生きるだけ。死なないだけ。
それはそれで誇らしくもある。そういう生は、実は全然機械的じゃない。人間的だと思うから。
表面的な人生。通帳の預金残高。
享楽的とも言えない、安全圏からの物言い。
本を読むことも、最近はしなくなった。虚しいとすら思わない。
どうでもいいのとは違う。
電車は地下に潜る。
永遠にも似た冬の始まりだった。
***
異動で、町継くんと部署は別れたけれど、呑みには行っていた。
渋谷から、代々木公園とか代官山まで歩いて、何軒もはしごした。
私は二十五歳になる。
何の当てもないことを、恐れもしない。生きることがノーコスト。面倒なことも、つまらないことも、私は何も考えずに、遂行することができた。
資本主義への信仰であり、民主主義への信頼でもあった。
自分が、社会に適応できる強者なのだということを、私は薄々気づいていた。
町継くんは、きっとまた違うタイプだけれど、ウザさやダルさを表に出すことは、少なくとも私の前では皆無に近かった。
私は、それが当たり前だと思っていた。
古かったり、新しかったりするものではない。要するに、能力があるかどうかの世界だ。
人間性を気にしたことはない。そんなものは備わっていて当たり前のリテラシーで、基盤的インフラストラクチャーでしかない。
恵まれているとか、そんなこと、優しさの表れではなく、侮りのおためごかしでしかない。
そういう意味では、私は冷たいのではなく、温かいとすら言える。ある種の尺度を持って、人を評価することができるから。
嘘つきではないから。
***
冬は綺麗に東京を彩った。
町継くんと、酒を呑むと、ふと手を繋ぎたくなった。
酔っ払っていたのかもしれない。
彼の手の甲にこんこんと甲を合わせる。
手袋をはめていた。町継くんは気づかなかった。
その時、ああ、と思った。
私は憐れな女だと。
「バカかな?」
「何が?」
「孤独を気取るなんて、愚かかなって」
「男みたいなことを言うのな」
私は首を振った。
「俺といると孤独か?」
「そうかも。少しだけ」
「冷たい真実より、温かい嘘の方が、人には必要なんだよ」
「それは、どういう意味で?」
「わからない。言ってみただけだ」
町継くんは、もちろんわかっていて言っているし、私もわかっていて聞いていた。
嘘ともホントともわからないような、半透明の言葉を、私は口にするに慣れ過ぎていた。
考えることは、実に簡単だ。答えを出すことも難しくない。割り切ることだってできる。それが私の長所だと思う。
手袋がなかったら、きっと私は、幸せを掴んでいた。そうに違いないと、しばらく考えていた。ウィスキーグラスの丸い氷を、手にしたことのない幸せに見立てて。
長い長い冬だった。