006 今後の展望
7時30という少々人が訪ねるには早いであろう時間に智之宅のチャイムが鳴り響いた。智之は不意の来訪に若干の警戒心を浮かび上がらせながら来訪者を確認すると、驚くことにそこには蓮の姿があった。
今日の蓮の装いは白のワンピースにブラウンのサンダルとまさに清楚であると評される格好であった。ワンピースに下品でない程度に施された花柄の刺繡は蓮によく似合っており、どこぞのお嬢様かのようにも見えるだろう。
「おはよ。」
「ああ。おはよう。早いな。」
「ニヘヘ。待ちきれなくて、来ちゃった。ごめんね。迷惑だった?」
そう言う蓮は予定の1時間30分前に着いていた。それも当初の予定では智之が迎いに行くという話であったのにだ。一応、蓮からしたら配慮している、蓮は当初3時間前に着くように家を出ようとしていた。しかし、流石に早過ぎると思ったのか1時間30分前までに配慮したのだ。
実情だけ話すと、配慮したというよりは服を選ぶ時間がそれだけかかったという話だ。一応、本人に早すぎるという意識自体はあったのは確かであるのだから。服は結局、シンプルイズベストという結論であったようだ。
「いや、全然いいよ。」
「ん。お邪魔しまーす。」
「ああ。いらっしゃい。」
「お茶置いとくぞ。」
「ニヘヘ。ありがと。」
「……。ま、いいか。それで本題からでいいか?」
「うー。……。分かった。」
当然のように先行して入った蓮は寝室に侵入してベットの上に腰かけて智之を待っていた。そして、ぽふぽふと自身の隣に座るように手を叩いていた。智成は無視することも考えたが、持っていたトレーを机の上において、従うことにした。
唸りながらどこか不満げな、恨めし気な視線を智之に送る蓮であるが、それを意識して無視する智之には関係ないことであった。
「じゃ、とりあえず今後の展望に関して話そうか。まず、最優先事項は二つ。会社への連絡と医者への診察だな。」
「ん。」
「会社へは診察の後だな。明日は急だけど有給とるようにな。診察結果によって会社には連絡して、対応する。」
「うー。……ねぇ。」
蓮の甘えるような、乞う様な声と眼ににピクリと智之は反応する。智之はすっとその瞳から目を離さそうとするが、視線と視線とが絡まり、ついじっと眼を見つめ返してしまう。その眼を見て、聞く前から断るのを諦めつつも用件を聞く。
「なんだ?」
「明日。着いてきて、お願い。」
「……分かった。半休とるよ。」
「いいの?」
智之が了承するとぱーと満開の笑みを浮かべる蓮。その笑みを見てふっと智之は小さく笑みを浮かべてしまった。先ほどまでの甘く、乞う様な目とは違い、くりくりと嬉しさだけを宿した瞳は見ていて楽しいものだ。
「ああ。もちろんだ。味方だって言っただろ。」
「ニヘヘヘヘ。嬉しい。」
「こらっ、抱き着くな。」
「……ぁっ。うー。……ごめん。」
口元を緩ませながら智之に抱き着いた蓮であるが、すぐに智之によって引っぺがされた。その智之の態度に名残惜しそうな、不満そうな態度を示すが、どうやら智成に効果がないとみるや、素直に頭を下げる蓮に、智之は聞こえぬように一つ息を吐き、話を続ける。
「それで次だな。最悪会社は辞めることになるだろう。休業は降りるだろうから、満了期間まではそれで時間稼ぎだな。その後は失業保険を使って時間を稼ぎながら次の仕事を探すか、それとも他の手を考えるか。臨機応変に、だな。」
「うー。分かった。その時は助けてね。」
「ああ。当然だろ。でだ、それから生活基盤を整えていく必要がある。女になったからにはそれ当然の苦労もあるだろう。そこはどうにかする他ないが、うちの母か、蓮の母。もしくはどっちもに頼るのがいいと思う。」
「……智之のお母さん。智之のお母さんがいい。ニヘヘ。」
何を意図したことか、だらしなくも口元を緩ませた蓮は智之の母を指名する。当然、そういう意味であるが、智之としては気づきようはない。正しくは少しの違和感は感じていたものの、それがどういった意味なのかまでは判断がつかなかったのだ。
それでも違和感があれば不安として表に出る。智之としてもその不安を消せぬとしても多少なりとも軽減か、理解はしておきたかった。で、あれば一旦の否定で反応を見ようとするのもおかしくはないだろう。
「ん?そうか?自分の母の方が話が通りやすいんじゃないか?」
「あ、うー。あっ、親に知らせるのはちょっと、まだ抵抗がある、かな?」
「あー、配慮が足りなかったな。すまん。じゃあ、うちの母に話しておくよ。」
「うん。きちんと挨拶するね。ニヘヘ。」
智之は蓮の言う建前に一株の不安を感じながらも、そういう理由かと理解を示した。若干蓮が言葉に詰まったところを見るに、本心をすべて明かしていないことは智之にも分かったが、しかしすべてを理解することは出来ないのは当然の事実として智之は考えていたため、他の要素もあるのだろう程度に考えた。
その後の挨拶こそが蓮の望むところであり、挨拶の機会を公認のものとして得られたのは蓮としては大きいことであった。だからと言って、何かが変わるということではないが、そういうことになったら展開が早くなるに違いはないだろう。
「ああ、蓮のことは信頼している。」
「うんっ。ニヘヘヘヘ。」
「とりあえずこんなもんかな?」
確認するように言葉を零した智成に蓮が自らの望みを離す。その時の蓮の瞳には狩りをするときの肉食獣のような、そんな鋭い光が億に宿っていた。幸いと言っていいのか、その光に気が付かない智之は自身の思考へと潜っていく。
「あっ、僕からお願いがあるんだけど、いい?」
「もちろん。何だ?」
「ニヘヘ。今日、お泊りしたい。」
「……。お泊り、か?」
突然のその言葉に智之は思考停止した。想定していた状況とは全くもって違っていたからだ。元々、智之としては距離を置くことを基本的な方針としている。それもこれも、こんな提案をしてくる蓮が普段の思考性と大きく違うことが起因している。
「うー、ダメ、かなぁ?」
「あー、控えた方がいいとは、思うが。」
「でも、僕、不安だし。明日、一緒に行動するし、いいでしょ。ね?ね?」
ね?という言葉と共に蓮は瞳に不安を浮かび上がらせる。その瞳をよくよく観察すれば不安だけでないのは分かったはずだが、智之は困ったように周囲に瞳をさまよわせて、時折り蓮の方を見て苦渋の表情を浮かべる。
そんな風に悩んでくれる智之に対して、蓮は何処かその胸に喜びと何かの仄暗い感情が宿るのを感じ取っていた。その感情がどういうものかは蓮には分からなかったが、それがよくないものと認識をしながらも、その心地よさに酔いを感じていた。
「でも、なー。」
「うー、いや、だよ、ね。」
「いやじゃない。……。分かった。今日は泊ってもいい。」
「ニヘヘ。嬉しい。今日、一緒に寝ようね。」
蓮から飛び出した爆弾発言にぎょっとした様子で智之は顔を向けて、あり得ないとばかりに首を振った。流石に智之の基準から大きく外れており、認めるわけにはいかなかった。
もちろん蓮としても、無理だろうとは思っていた。しかし、微かでも希望が、可能性があるならかけてみたくなってしまったのだろう。この日は智之にとって人生で一二を争う災難な日であるだろう。
「ちょっ、布団あるから。そこで寝るから、な?」
「……。わかった。」
「ごめんな。」
「ニヘヘ。こっちこそ、我儘言ってごめん、ね?」
「いや、いいよ。不安なんだろ。仕方ない。」
仕方ない。その言葉を蓮とそして智之もお互いに心の中で反芻して、無理に納得させた。異常事態だから仕方ない。おかしくても仕方ない。状況的にそうした方が合理的だから仕方ない。そうすべては“仕方がない“ことなのだ。
「ニヘヘ。仕方ない。仕方ない。」