003 準備
「これからどうしたらいい?」
「そうだな。まず、家にかえろう。家まで送ってく。」
「いいのか?家、反対だったよな。」
「ああ、当然だろ。」
当然という智之の言葉に蓮は嬉しそうに眼を細めてすっと、心なしか智之の方へと身体を寄せた。若干頭を下げ、見ようによれば智之が頭をなでやすいようにするかのようであった。それから智之の方に上目遣いで礼を言う。
「ん。ありがと。借りがいっぱいだな。」
「いや、借りなん……。そうだな。また今度酒でも奢ってくれよ。」
「ニヘヘ。僕に任せて。」
智之のその気遣いに蓮は気づき、それに嬉しく胸が高鳴るのを自覚した。それを表に出さないように努めて明るく笑って見せ、えへんと胸を張り、拳をとんと当てた。その仕草を自然と見ていた智之であるが、すっとすぐさま目を反らす。
「今日は何か予定でもあるか?」
「んー、ない。智之と一緒にいようかと思ってた。」
「そうか。ならちょうどいいな。服とか色々と必要だろ?」
「うー、いる、よね。」
智之の言葉で蓮の瞳には不安が宿る。潤んだような瞳で智之を見つめる蓮を見て、迂闊だったかと智之は思ったが、実際に必要なことであると頭を振る。事実、この異常事態がいつ収まるか分からないものだ。生活必需品は揃えておかねばならない。
「心配ないさ。きっとすぐ戻れる。それに折角美人に変わったんだ。着飾らなきゃ損だろ?」
「ニヘヘ。確かに。智之の好きなように着飾っていいよ。」
「……連の好きな服でいいだろ。」
「っ、智之はいや?」
先ほどより一層に不安を、それに悲壮を瞳に浮かび上がらせる。瞳からは雫が一つ零れそうになり、慌てて智之は否定する他なかった。蓮は元々打たれ弱く、涙脆い面はあった。だが、ここまで精神的に不安定になったのは、この異常事態と女になった影響が強いだろう。蓮は現状どこまでも独りで、孤独なのだから。
もちろん蓮自体がそう理屈っぽく考えているわけではなく、人としての本能が蓮の精神を揺さぶっているのだ。人は何よりも社会的な生き物で、孤独には完全に慣れることなどありえないのだから。
「いやっ、いやじゃないけど。好きな服の方がテンション上がるだろ。」
「んー、僕は智之に選んでくれた方が嬉しい。」
「そうか。……さて、そろそろ帰るか。また迎えに行くよ。」
「んー、それなら智之の家に一緒に行った方がよくないか?」
「そうか?一旦家に帰りたいだろ。」
先ほどから精神を、心を揺さぶられている影響か、蓮には途方もなく不安が心にのしかかっていた。その結果、思考が精神に寄っていき精神に配慮した思考を自然と、無意識のうちにしていた。蓮の中でそれが正しいかのような理屈が形成された。そして、計算する。より自分の思考を通せる手段というものを。
「だって、不安だし。だめっ?」
「あー、いいけど。」
「ニヘヘ。じゃ、いこっ。」
「あ、ああ。」
「ようこそ。わが家へ。まぁ、ただのマンションの一室だけどな。」
「ニヘヘ。お邪魔しまーす。」
「好きに寛いでいてくれ。風呂入って着替えてくる。」
「うん。待ってる。」
そのマンションは新築とは言い難いものであったが、内装は新築に近しい綺麗なものであった。部屋の広さは2DKであり、一人で過ごすには少しばかり広く感じるものだ。ただ、一部屋を完全に趣味部屋としている智之にとってはちょうどよい大きさであった。
部屋やキッチンは奇麗に片付けられており、几帳面な正確なのが伺えた。とはいえ、ベットの上に服が無造作に置かれているのを見るに、神経質なまでの几帳面ではないのだろう。キッチンの隅に置かれたインスタントの味噌汁やらがまたそれを表している。
「すんすん。いい匂い。すー。んっ。」
蓮は導かれるように智之の寝室へと侵入した。そしてベットにダイブしたかと思うと、次にはベットの上に置いてある枕に顔をうずめた。それからすんすんと鼻を鳴らし、その匂いを嗅いで枕を顔に押し付けて、仰向けでベットに倒れこんだ。
こんなことをやっているのはおかしいというのは、蓮の頭の中にも確かな認識としてあった。しかし、その思考とは裏腹に身体は素直と言うべきか、その欲望、本能に逆らうことが出来なかった。そして、ふと片手がふらりと宙をさまよい、すぐ後に枕を抑えるのに加わった。
「さすがに……だめ。」
最後の一線を越えることはなかった。しかして、常識的な思考よりはだいぶ線を飛び越えてしまったことを、蓮は感じていた。
そうして連は智之が部屋に来るまでついぞそのままでいた。
「すんすん。」
一方、風呂では智之がシャワーを浴びながら壁に手を付けていた。ザーと自身の鍛えられた身体を濡らす水に身を任せながら、頭を回転させる。
「はぁ、どうしたものか。明らかに様子がおかしいしな。わざとなのか、無意識なのかどうにも女っぽい。狙ってやっているのならまだいいが、無意識なら深刻だ。」
智之の脳裏には昨日からの光景が浮かんでくる。昨日のあれは完全にわざとであったとは智之の認識である。今朝の一部の行動もそうだろう。だが、それ以外のものは?昨日の寝る前に見せた表情やら今朝の乞う様な表情。それらがわざとであるとは智之にはどうにも思えなかった。
そして、それを思い出すときにやはり、蓮の煽情的な肢体を思い出してしまう。昨日、今朝どちらも智之の心を煽るには十分な威力を持っていた。耐えられたのは相手が連であったからだと断言できるだろう。智之にとって親友なのだ。
「くそっ。相手は蓮なんだぞ。はぁ~。どうにもならないか。なるようになる、か。どうにか修正していくか。困ったものだ。……。蓮は何をやっているのだろう。」
ふと、智之の頭に一株の不安がよぎる。ずっとおかしい。何かまずいと智之は感じているのだ。その感覚が智之を不安にさせる。まさか、まさかとは思いながら可能性を否定しきれない。常識的な、正常な頭なら思いつかない何かがあるのではと、そう智之は思ってしまう。
「まさか、な。」
「すんすん。」
「蓮。」
それは智之を驚愕させた。まさか、本当にあるとは。そんなことはないと思っていた。しかし、実際には蓮が枕に頭を埋め、明らかに匂いを嗅ぐ様子がうかがえた。蓮はびくりと肩を震わせて、身体を起こした。枕から顔を離し、智之の方に目を向けた。
その瞳は潤み、明らかに普通でなかった。顔をほてり身体からは少しばかりの蒸気が立ち昇った。一筋の汗がすっと首筋を伝い胸元へと零れ落ちていった。しんとした静寂を破り、蓮はだらしなく口元を緩め、上目遣いのまま智之へとにへらと笑みを浮かべた。
「……。ニヘヘ。」
「っ、何をっ……。いや。ほら、出かける準備するぞ。」
「ニヘヘ。うん。」
「はぁ~。……。なぁ。」
「うん?なぁに?」
潤んだ瞳からを智之は見つめる。その瞳から智之は何も伺うことが出来なかった。代わりに蓮は何かを感じたのか身を少し捩り、瞳に浮かべる熱が増した。蓮の服から見える白い肌は若干の桃色を含んでいた。智之はそこから視線を外して答える。
「……。何でもない。」
「ニヘヘ。そう?」
「ああ。」
「ニヘヘ。」
「……っ。」
慌てて背を向けて智之は寝室から出て行く。その背後からは熱い視線を感じていたが、それになんら反応を返さず、歩く。後ろからすんすんと何かを嗅ぐ音が聞こえるが、智之は振り返らなかった。