002 二人の朝
ラブホの一室。ピンク色のライトが怪しく光る部屋の中心には白と赤のベットで共に寝ている男女の姿があった。そのベットは激しく乱れているなんてことはなく、特に昨日の夜に何かがあったわけではない。
二人が健全な男女であるならなんとも不健全であるが、女の方が急に昨日女になってしまったのだ。それを考えると当然のことであろう。
「……すーすー。」
「んー、……はっ。今何時だ?7時50分!?おいっ、起きろ。」
「……んあ?」
「起きろって。仕事だぞ。」
慌てたように女は男を起こす。ぼんやりと目の焦点が合わぬ男に急かすように女は肩をゆする。焦点が合わぬまま女の方に顔を向け、男は思考を少しずつ始める。徐々に状況を理解してきたのか、焦っているからか自身の格好に気づかない女から視線を少し外して口を開いた。
「……あー、おはよう。なんだ?」
「おはよ。って、仕事だって。もう7時50分だぞ!!」
「はぁ?寝ぼけてんのか?今日は土曜日だぞ?」
「あぇ?今日は……土曜日?」
凛々しく美しい女のどこか幼さが残る顔にぽかんと間抜けぬにも口を開き、女は男を見やった。男はそんな女の様子に呆れたような、愉快なものを見るような目を向けた。が、すぐに目線を服の所々から見える女の艶めかしい肢体から反らした。
「ああ。それにその身体でどう行くつもりだったんだ?」
「から……だ?うわぁああ。な、なんだ?あー、くそっ。そうだ。忘れてた。」
「はぁ~。忘れてたのかよ。とりあえず家に帰るぞ。先に風呂入って来いよ。」
「ニヘヘ。……ねぇ。」
女はだらしなく口元を緩ませて、悪戯を思いついたかのように目を細める。ろくでもないことを考えている表情である。女はしなをつくり、そして甘い声音で男を呼んだ。その眼が誘うような色を帯びさせる。変化した空気に男はピクリと片方の眉を跳ねさせた。
「なんだ?」
「ん~、ただマジックミラーで覗くつもりかぁって。ニヘヘ。」
「……昨日のこと忘れたのか?」
「えっ?……ぁ。ご、ごめん……なさい。冗談です。」
「そんな風な態度はとらなくてもいい。なっ。」
怪しい空気は霧散し、女は手で耳まで真っ赤になった顔を覆い、しおらしくなる。男が美しいアイスブロンドの髪を掻き分けるように撫でると大した抵抗もなく、気持ちよさそうに身体を預ける。しばらくの間女は身体を預けていたが、満足したの顔から手をどけて立ち上がった。
するっと女の髪が男の手から零れ落ちると男は少し名残惜しいような表情を浮かべるが、数瞬の後にはいつものごとく仏頂面を浮かべていた。
「ぅん。お風呂入ってくる。」
「なんだかな。ちょっと変になっちまったのかもな。」
苦笑するように男は言ったが、ほかならぬ男にも普通でない変化があることに気づいてはいない。いや、男自身にも多少の自覚があるからこそ、呟いた言葉であったか。それでも自身のそれを男は認めるつもりなど毛頭なかった。
女が風呂から戻ってきた時には部屋にはコーヒーと焼けたパンの香ばしい香りが広がっていた。男が店に注文しておいたものである。
「朝食は頼んどいた。何か他に欲しければ頼んでくれ。」
「ん。ありがと。」
「それで、これからどうするんだ?」
「うー。どうしたらいい?」
唸りながら女は眼に不安の色を浮かべる。その女の目を一つ見て、男は顔色一つ変えずすぐに視線を上にやった。それから少しの間男はなにをするでもなく上を向いていたが、ふと女に目を向けて言葉を発する。
「……分からん。が、とりあえず女になった以外になにか異常はあるか?」
「異常?」
「あー、とりあえず身体はちゃんと動くんだよな。」
「うん。男になる前より身体は軽いかも?でも、前が……。」
女は前がと言いながらその身体の大きな胸に目をやる。釣られて男も目を胸にひかれて慌ててそらした。女は薄い男物のYシャツだけが身体を包んでいたからだ。その下には何もないことなど周知の事実であり、また身体に合わず萌え袖のようになっている。
それは見ようによっては彼シャツのようであった。
「ああ、分かった。記憶とかは?自分の名前言えるか?」
「当然。篠原蓮。27歳。趣味はスポーツ全般。特にサッカーは小学校から大学までやってたから得意だったな。最近は筋トレぐらいしか身体を動かせてなかったから、運動をしたいと思ってた。」
「今度、どっか運動しに行くか。」
「ああ、その時はお願いな。」
女の口調がどこか男らしく変化する。どちらかと言えばこちらが女の素の口調なのだ。おおよそ女の身体、脳に影響を受けて口調が変化していたのだろう。それが過去の記憶、男の時のことを反芻することでそちらに引かれた。
男はその変化に当然のように気が付いていたが、特にそこに対して何も口を出すことはなく、女の記憶に問題がないことを確認するだけであった。
「記憶に間違えはないみたいだな。」
「それはな。お前のことも覚えているぞ。」
「ははは、忘れられていたら、悲しいよ。」
「ははっ、勿論覚えているさ。なんせ親友だからな。逢沢智之。27歳。大学1年で知り合い、そこからの付き合い。今では同じ会社に勤めるくらいだ。」
照れもせず親友と言い切る女、改め蓮に対して男、智之は少しばかりの気恥ずかしさを感じたのか耳が朱がかった。それを誤魔化すように飄々ととぼけたように肩を竦めて智之は言う。
「親友と改めて言われるとはずいな。これからもよろしくな。」
「ああ。……これからも捨てないよね。」
「当然だろ。親友だぞ。」
「んっ。ありがと。」
急に蓮の口調が変化したのは不安からだろう。不安から無意識のうちに智之に対して半ば媚を売るかのような態度になった。その蓮の様子に少しばかり痛々しさを感じたのか智之は努めて明るく親友であると断じた。
その断言するような智之の肯定に耳をぴくぴくと動かし、蓮の身体に大きな安心感が包んだ。その身にめぐる幸福感を噛みしめるように。えへへ、と嬉しそうに蓮ははにかんだ。それを智之は見なかったことにして、食事を再開した。