010 夜街
「ただいま。」
「あっ。智之。」
ダイニングのソファーで電気も点けずに一人足を抱えるように座っていた蓮は智之の声が聞こえるなり、ぱたぱたと駆け寄っていった。それは忠犬が家主を出迎えるようで、もしくは幼妻が旦那の帰りを出迎えるかのようであった。
勢いあまって抱き着きかねない勢いであったが、はしたなく思ったのか智之の姿が目に入ると減速しており、手を前に組んで智之の前に立った。両脚を擦り合わせるように揺り動かし、ちらりと智之の眼を見たかと思うと、俯き、また見てを繰り返していた。
「お帰りなさい。」
「どうだった?」
「分かんない。結果は後日だって。」
「そうか。まぁ、それまでは仕事を休むしかないな。」
「……うん。」
靴を脱ぎながら話を進めていた智之は不安に揺れた声を聴くと、手を止めて目線を合わせるように中腰になり、瞳を覗き込んだ。覗き込んでくる瞳に蓮の瞳は不安を隠すことなく揺らぎ、しかし目線をしっかりと合わせてくる瞳の強さに多少ばかりの安心感を得たのか、揺らぎは収まっていく。
「ははは。心配するなよ。大丈夫だよ。」
「そう、かな。」
「そうだよ。」
「……。」
逃げないように、逃げられないようにと合わせられた瞳と瞳はしっかりとお互いの意志と感情を伝えあった。もう蓮の瞳の奥に不安はなく、それに安心したように智之は靴を脱ぐのを再開した。それを眺める蓮の瞳には不安の代わりに安心と執着の色があった。
「どこか食いに行くか?」
「……いいの?」
「蓮と食べに行きたい。」
「ニヘヘ。嬉しい。」
「ふっ、ほら着替えてからいくぞ。」
「うんっ。」
遠慮する様子を見せた蓮に喜ぶであろう言葉をあえて選択して智之は言葉を発した。その甲斐あってか、嬉しそうにはにかむ蓮を見た智之も思わず、笑みをうかべた。
「何か食いたいものあるか?」
「んー、おさけ?」
「それ食べ物じゃないが?」
「じゃ、おつまみ。」
結局のところ同じであった。その断固とした答えに思わず智之は吹き出し、笑いだしてしまう。そんな智之の様子に釣られたのか蓮の口元も緩み、ころころと笑い声も出る。ひとしきり二人が笑い合うと、お互いに見つめて頷き合った。
「ははは。まぁ、飲みに行くか。」
「ニヘヘ。うん。早く行こっ。」
「じゃ、乾杯。」
「かんぱーい。」
「それで、今後どうする。病院も定期的に言った方がいいだろ。」
「うー、今は楽しい話がいい。」
夜の街を練り歩き見つけた居酒屋に二人して入っていく。月曜というだけあり、客の入りは少ないがそれでも4割もの席が埋まっていた。辺りを響かせる陽気な音楽や話し声、笑い声は二人の気分を高めるのに一役買った。
そんな雰囲気の中、今後の話。とりわけよくない方の話をさっさと済ませようかと切り出したが、蓮はその話を嫌がった。それからは特に他愛もない話を料理を突きながら話していた二人だが、ふと何かを思いついたかの如く蓮は話し始めた。
「そうだっ、週末予定空いてたら、出掛けよ?」
「ああ。いいぞ。どこか行きたいところあったか?」
「色々買いそろえたくて。それで、金曜日泊めて?」
「……。」
「だめ?」
こてっと首を傾げ、くりくりとした瞳で蓮は智之を見つめた。その瞳で見られた智之は弱ったように頬を指で掻き、視線を左右に反らし、もう一度蓮の瞳を見つめると、不安の色が浮かんできており、その色を見た時には反射的に了承も言葉を返していた。
「……分かった。」
「ニヘヘヘヘ。あとあと、引っ越そうって思って。」
「引っ越し、か。」
「ニヘヘ。智之の家の近くにいたくて。」
「そう、か。まぁ、いいんじゃないか。」
動揺を表に出さないように智之は努めた。あまりに、親友としての言葉ではなかったからだ。とはいえ、それはもう今更のことでもあり、それが今更だと思っていることに智之は増々頭を抱えてしまう。
そんな智之の様子に気が付いているのか、いないのか蓮は口元ももごもごとにやつかせながら、己のたくらみを暴露していく。
「ニヘヘ。それと、会社も辞めようかなって。」
「それは、まだ止めておいた方がいいと思う。」
「うー、だめ?」
「だ、めではないが。ほら、生きるにはお金が必要だろ。」
「うー。……分かった。」
会社を辞めるつもりであったのに智之は愕然としていた。それでは、まるで蓮が元の生活に戻る気が一切ないようではないか、と考えたためだ。それは一部正しく、一部間違っているだろう。戻る気はないわけではない。が、現実的に、蓮の内心的に確率が低いというだけなのだ。
「いい子だな。」
「ニヘヘヘヘ。」
「あんまり飲み過ぎるなよ。」
「大丈夫。酔っても智之が何とかしてくれる。でしょ?」
智之はふと蓮の美しいアイスブロンドの髪を手で掬い上げ、手から零れ落ちるのを見ていた。そんな智之の行動を止めることなく、むしろ積極的に身を任せている様は全幅の信頼を預けているのを示していた。
「それは大丈夫だと言わないのだけどな。」
「それに、……好きにして、いいよ。」
「……っ。お前なぁ。」
蓮は服を智之にだけ見えるようにめくる。服をめくった隙間からは酒によるものであろう朱に染まったお腹とへそが覗いた。触るとすべすべしていて気持ちよさそうなすらっとしたお腹に思わず智之は手を伸ばしかけ、慌てて止め手に持っていた酒を煽った。
その様子を嬉し気に口もとをだらしなく緩めて見ていた蓮もまたお酒を煽り、酒に濡れた唇を舌でなめとり、はぁ~、と熱のこもった息を吐きだした。
「ニヘへ。……。」
「あんまりそういうこと言うなよ。」
「大丈夫だよ。」
「本当かよ。」
「だって、言うのは智之にだけだからね。ニヘヘ。」
その言葉が届いた瞬間に思わず衝動に身を任せたくなった智之は悪くないだろう。それでも衝動に身を任せず、自重している智之は褒められるべきことで、しかして男としてはどうなのだろうというところか。
「っ……。トイレ行ってくる。」
「うん。行ってらっしゃい。」
「……。」
「ニヘヘ。」
特に引き留める気がない様子の蓮の様子を智之が伺っていると、蓮は蠱惑に笑ってみせて、艶のある唇を舐めるようにちろりと舌をだした。舌の先がペロリと動くのを何も動けずじっと見ていた智之は、強い視線に導かれて蓮と視線を合わせた。
じっと智之の瞳を見つめていた蓮はによりと眼を細める。それに目線を合わせていた智之は自身の心の奥から湧き上がってくる衝動を強引に抑えて席を立った。そして、もう一度蓮の方を向くと上気した顔と唇から少し出た舌先が見えてしまい、振り切るように顔を背けてトイレへと向かった。
「……っ。」
智之がトイレという逃避場所から帰ってきたときには、蓮が他の客から絡まれていた。その客は随分と酔っているようで、身体から酒の匂いを漂わせ、顔も真っ赤に染まっていた。そんな客の男に鬱陶しそうな目線を向けて、仏頂面をしている蓮である。
「姉ちゃん、いい身体してるねぇ。」
「……。」
「酌してくれよ。な、いいだろ。」
「……はぁ。早くどっか行ってくれない?」
「そう言わずにさ。」
智之の知る蓮の様子とは全く異なり、涼やかに冷酷ささえ感じ得る雰囲気を身に纏わせていた。幼さの残るとはいえベースは美人な顔である。その美人の顔に冷酷さを浮かばせるとその威圧感は凄まじいものがあり、蓮に近づきがたいプレッシャーがあった。
それでもその圧に飲まれずにいられるのは絡んでいる男のように酒に酔い、状況判断能力が落ちているものか、または智之のように元々の蓮の性質を知っているものくらいだろうか。あとはただのドMか。
「悪いけど、うちの連れだから勘弁してくれないか。」
「ぁっ、智之ぃ。こっちぃ。」
「あ、ああ。悪いな席外して。」
「ううん。いいのぉ。ねぇ、早く店出て、行こっ。ねっ?」
智之の声が耳に届くと蓮は先ほどまでの態度が一転、すっと立ち上がると智之の腕に自分の腕を絡めて、甘えるような声と共にすり寄る。そして、他が眼中にないかのように智之の顔をうっとりと眺めて、智之の耳に唇を寄せて囁くように言葉を口にした。
「そうだな。構わない?」
「あ、ああ。ちっと悪酔いしてたようだ。悪かった。」
「ああ。あまり飲み過ぎるなよ。」
「智之ぃ、早くっ。」
「分かったよ。」
「いつまで組んでるつもりだ?」
「え、家までだよ?」
「もう大丈夫だろ。」
「うー、怖いの。だめ?」
うるうると潤んだ目で智之を見ながら、小首を傾げる。もう何度目だろうかと思うほど見た光景であるが、何度やられてもやられる男は多いだろう。それも腕を組みながら、上目遣いをしている状態だ。蓮のくらくらするような香りを受けながら、智之は呆れた表情を浮かべる。
「そうやったら、言うこと聞くって思ってたらダメだぞ。」
「やっ。家まで。いいでしょ。ね?ね?」
「お前なぁ。」
智之は今度こそ完全に呆れたように言葉を零した。それでも突き放したりしないのは智之の甘さなのか、それとも内に他の感情があるからだろうか。先ほどよりも強く抱きしめられた蓮の腕の感触を感じながら、智之は半ば達観を覚えた。
「お家着いたら、我慢するから。」
「と言うか、うちに来るつもりか……。」
「うん。寂しいもん。」
「はぁ。分かったよ。今日だけな。」
もはや言ってもどうしようもないのが分かった智之は断ることを諦めたようである。それを感じたのか蓮は花のような満開の笑みを浮かべて、より一層腕を強く絡みつかせ、智之の固く筋肉質な感触に酔いしれた。
「ありがとっ。」
「はぁ~。」




