∞特別話 零香の帰省 海暉の杞憂
∞特別話 零香の帰省 海暉の杞憂
「結構留守にして、家あけちゃったもんな」
店の入口の前、両手に持ったバッグを下ろすと鞄からアルミサッシ用の古いタイプの鍵を取り出した伊豆零香。入口上の破風部分に掲げられた『浜波キッチン』の看板をまじまじと見てから、サッシ扉の鍵を開ける。零香は自宅兼店舗の建物の中、食堂ホールに入った。市街地のはずれ、駐車五台分はあるスペースを有する昔のドライブインっぽい役目と、街までの出張サービスも行っていたケータリング・サービスの役目もやっていた兄の『浜波キッチン』は静かなたたずまいで彼女を待っていた。
「うん、少し空気がこもっているなあ。窓開けて換気だわ」
厨房の窓、店の奥の窓をあけて風通しをはかると、奥に進み祖母の部屋と兄の海暉の部屋も風通しをする。
海に面した台地に建つこの家で零香は、店舗兼住宅でずっと祖母と兄と暮らしていた。兄がペンション経営を考えて、その前の段階でカフェをやり始め、祖父母の家を改装したのが、この『浜波キッチン』である。窓を開けて風が入ってくると山側の草の香りと、海側の潮の香りが一面に漂うこの家特有の香り、その懐かしさに包まれた。
仏壇写真の二人に線香をあげると、「さてと」と言って立ち上がる零香。
彼女は手早く着替えを済ませて、短大時代に体操着として使っていたジャージーと三角巾に身を包む。こう見えて彼女は短大卒。栄養士コースの家政学科のある短大を出ている。
再びホールに戻ると、「零香!」と高校時代の友人二人が待ち受けている。
ホットパンツに脇腹でTシャツを絞って結んでいるのが理実。ミニスカートにニットでいるのが美子だ。二人とも小学校からの友人である。三人の中で一番おとなしめの性格が零香だ。
「どしたの?」と零香。
「理実が連絡受けたって言ったから、二人で手伝いにきたんよ」と理実の後ろで美子が言う。歴女の美子、見た目は若者だが古風で義理堅い。
「手伝いって言っても簡単な掃除と荷物整理なのよ」
「それでも良いから、小学校からの仲じゃないの」と笑う美子。田舎というのは学校が少ないので必然的に人生の大部分を一緒に過ごす友人が多い。
理実は真面目そうに、「お兄さんのあれから一年半以上経って、どう、少しは心も落ち着いたかな?」と気遣う。
「うん。葛西に行ったのが良かったかも知れない」
そう言うと含み笑いの理実は、
「そりゃそうよねえ。憧れの君が経営する食堂で一緒に暮らして働いているんだもの」と分かった風に言う。そして美子は肩で軽くトンと零香の肩を押して、「やらしい!」と笑う。
「もう、いやね。そんなんじゃないわよ」と気まずそうに首を横に振る零香。口ではそう言うも、結構、ひやかされて嬉しいのも事実、微妙な女心と言うやつだ。
理実も、
「図星でしょう。高校の時も、買ってもらったんだ、って嬉しそうにミニチュアのクリームソーダの食品サンプルずっと眺めていたじゃないの。心ここにあらずって感じでね。でも端から見たらただの食玩マニアかと思ったわ」と笑う。
「そうだけど……」
思いの外、外野の人たちのほうが自分の恋の実体を知っていることに驚く零香だった。女子クラスの中で、クラスメイトの大半が、他校の男の子の話をしているなか、独自路線、兄の友人で五歳以上年上の男性に夢中なのだから物好きとみられていたようだ。
「あの食品サンプル、何処にあるのよ? 久々に見せてよ。どうせアンタのことだから後生大事に取ってあるんでしょう」とあきれ顔で笑う理実。
「捨てたとは思えん」と美子も続く。
「うん、いいよ。じゃあ、自分の部屋を整理してくるから、こっちはお願いね」と零香が言うと、
「オッケー、任しときな」と理実と美子。
零香が家の奥に姿を消すと、理実と美子は互いに頷き合って、「零香が元気を取り戻したね。よかった」と理実の言葉に肩をなで下ろした美子だった。
「おばあちゃんとお兄さんが続けて数年でいなくなったじゃない」
美子の言葉に「精神的にキツいよねえ」と理実。
「将来像すら見えない真っ暗な世界だった、時間が途切れた終点なんて言ってたもんなあ、あの頃の零香。でも葛西での時間はもともとの零香の時間と繋がっていて、軌道を外さないでそのまま進んでいける日常の時間の先、その続きにあって、上手くとなりの道へと途切れることなく切り替えさせてくれたんだね」
「良いやつじゃん、葛西の唐変木」と美子の言葉に笑う理実。もちろん『葛西の唐変木』は一色のことだ。しかも二人ともあった事もないのにこの言いよう。葛西で一色はくしゃみしていそうだ。
「歌の文句じゃないけど、涙の数だけ強くなったのよ、零香は」と彼女を称える美子。
「東京のアスファルトで花を咲かせたか?」
モップで床を擦る美子も理実の言葉に「そうだと良いけど」と嬉しそうだ。
暫くして、「あったよ」と言って、零香はホールにいる二人の方に戻ってきた。
写真立てに貼り付けられた食品サンプルを持ってきて理実の前のテーブルに置いた。
「うわ、高校生の時のあんたじゃん。こんな秘蔵のツーショット写真、知らぬ間に撮っていたんだ」と理実。
「やり手だな、おぬし!」と美子も続く。
そして「優しそうな人だね」と二人は声を揃えた。
少し照れた顔で「うん」という零香に、肘鉄一発の理実。
「のろけんなよ」
箒をポイッと放ると「ごちそうさま」と美子も下目でへの字口を作って見せた。「女三人かしましい」というのはこういうことである。
その日の夜に、自分の部屋で零香は夢を見た。学生時代に一色が兄の元に遊びにやって来たときの夢だ。まだ改装前の普通の古風な住居だった伊豆家。
「ねえ、おにいちゃん。一色さんは明日の何時に帰るの?」
風呂上がりに濡れた髪をタオルでもみ手しながら乾かす零香。
一色は近所にビールを買いに出ている時だ。
「夕方六時の新幹線って言ってたから、お昼頃に出て車で熱海駅まで送ろうかと思っているけど」
海暉の言葉に、
「私も送りに行くから、家を出るの私が帰ってきてからにして」と願い出る零香。
「なんでまた? オレの友人だぞ」と不思議そうな海暉に、キッと眼差しを向けると零香は「いいの、私もお世話になったし、お礼もあるし」といつになく強い語気だ。こだわりがありそうな気配である。
「ふーん」
見透かした目で零香を見て不敵な笑いが海暉の口元に現れている。
「なによ」と零香。奥手で大人しいが、兄には強気の妹だ。
「別に」と海暉。何か含みを感じる言い方だ。だが海暉は多くを語らないタイプ。そこで会話は終わる。
少し赤くなった頬のまま、プイとそっぽを向くと零香は「いいわね、明日は私の帰宅を待ってから出発よ」とタオルを頭に巻きながら自分の部屋に消えた。
すると海暉は「あいつも、お年頃か。まあ、一色なら悪くないけどね。人間的にも良いやつだ。見る目はあるな、我が妹よ」とひとりごちた。
翌日お昼前。町はずれにある学校から自転車を飛ばして、帰路を急ぐ零香。あぜ道を無理矢理舗装したような細い田舎道。しかも両脇はスイカ畑で、ごろりと辺り一面にたくさんの緑色した大玉が所狭しと寝そべっている。その中央を走る一本道。道の先の行く手にはどこまでも続く青空が広がる。夏特有の真っ白な雲が前方の水平線に綺麗なコントラストを描いていた。その目的地、自宅だけを彼女の瞳は見つめている。
見えてきた家の前には、兄の車が止められている。そこに一色がバックパックに詰めた大荷物を車のバックシートに押し込んでいる姿があった。
「一色さん!」と零香。急ブレーキで一色の前に自転車を止める。
一色は右手を挙げると、「お帰り!」と言う。Tシャツの半袖を肩までまくり上げた二の腕は、真っ黒に日焼けしていた。
「すっかりお世話になっちゃった。いまおばあちゃんにもご挨拶したんだ。零香ちゃんもありがとね」と別れの挨拶を忘れない一色。
「今、着替えてくるから待っててね、わたしも一緒に送りに行くから」と嬉しそうに弾む声で念を押す。
聞いていなかった一色は、あれっと言う表情だ。
「そんな、いいのに」と頭を掻いて、申し訳ない顔をする一色。自分ごとき、そんなに重要人物ではない、そう言いたげだ。
すると海暉は「そうじゃないんだって。その義理、礼儀の話じゃないし……」と誰にいうでもなくほくそ笑む。
一色はサングラスをかけて夏の日差しを遮る準備。そして何故か近鉄バッファローズの野球帽を前後逆に向けて被る。
「お前近鉄ファンなの? もう無い球団なのに」と古びたその帽子に海暉は笑う。
「違うんだ。昔、時の迷い人になりそうになった時があってさ。この帽子のおかげで命拾いしたことあるのよ。まあ、オレの守り神ってところかな?」
「守り神ねえ。おれもそういうの欲しいなあ」
「無理矢理作る物でも無いだろう」と困った表情の一色。
「まあね」と肩をすくめる海暉。
するとそこに「お待たせ!」と家から出てきた零香。見れば、この日のために用意したような水玉模様のワンピースに、同じ模様の髪留めリボン。やはり白くて可愛いフリルの付いた麦わら帽子。映画に出てくる避暑地の美少女設定とでも言ったところだろうか? 彼女と一緒に祖母も出てきて、一色にと近所で買ったわさび漬けのお土産を抱えている。
「まためかし込んできたな、我が妹よ。ものすごく分かり易すぎだよ」と笑みを堪える海暉。
「一色くん、これお家の方に持って行ってね」と海暉の祖母は一歩前に出て微笑んだ。両親の代わりをしている祖母は、社交的な大人の配慮を忘れない。
「ああ、それって伊豆名産の……」と一色の言葉に、
「そうよ。名産品。これからも海暉と仲良くしてやってね」と言う。
「勿論です。こんなに気の合う男は初めてですから。ありがとうございます。家の者にも伝えます」と一色は包みを受け取り、海暉の祖母に頭を下げて礼を言った。
なにやらごそごそと荷物の移動をしている零香。後部座席にあった一色の手荷物を助手席に移している。
「えっ?」と海暉。
「一色さん、今日は後部座席で私の横にいてね」となんと内気な零香が大胆発言。
「おい、俺ひとりで運転なの? 孤独じゃん」と海暉。
「当たり前じゃない。おにいちゃんの運転に気が散らないように、私が一色さんのお相手をしてあげるから、安全運転でね」と嘯いた言い分けをする零香。海暉からしたら、俗に言う『よけいなお世話』というヤツだ。
海暉は「しょうがねえなあ」とあきらめ顔で車に乗り込むと、祖母に「じゃあ、熱海まで送ってくるよ」と片手を挙げる。一色は窓越しに「お世話になりました」と言って頭を下げる。海暉の祖母は優しい笑顔でゆっくりと手を振った。
バックミラーで小さくなる伊豆家の家屋と祖母を見ながら、零香は、
「おにいちゃん、今日は、少し時間あるから城ヶ崎公園によってよ」と言う。
「どこ?」と一色。
「南国的な感じで風光明媚な自然公園です」と言うと「いいね」と一色。
「はいはい」と困った顔の海暉は、
『こりゃ、重症だな。一色もお子ちゃまの相手で大変だ』と呟く。
「何か言った?」とギロッと横目の零香。
「なんにも」と言ってから海暉は、
「それにしても、零香、お前今日よくしゃべるんだな」と意表を突く言葉で、少しやり返す海暉。
「何か言った?」とふたたび同じ台詞。鋭い眼差しで兄を見る殺気だった零香の目。
「いや、なんでもない」
兄は『そう言えば、人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて死んじまえ、って地口があったなあ』とムリに自分に言い聞かせて、運転に集中することにした。
ここで夢の行方と雰囲気がガラリと変わる。
「でもその前に、零香、また良い夢見させてやるよ」と意味深な言葉の海暉。
その言葉で夢から覚め、我に返る零香。
『そっか、ここ自宅だわ。浜波キッチンだった』と夢から突然連れ戻された零香だった。
見れば隣、両脇には枕を並べて、理実と美子がすやすやと寝息をたてていた。自分だけが見た過去の夢なのだ。
外は静かに、しとしとと雨が降っている。落ち着いた空気が辺りを支配していた。
『おにいちゃん、私に何か伝えたいのね』と脳裏に思いながらふたたび睡魔に襲われ、眠りに就いた零香だった。
「零香」と呼びかけたのは海暉。
「おにいちゃん、どうしたの?」
海暉はいつものように笑うと、
「我が家のお家芸でね、夢に入る術がある」
「我が家のお家芸?」
「ああ、明晰夢を使った陰陽道の術だ。お前にも出来る筈だよ。おばあちゃんの部屋にある昔の古文書を読んでごらん。我が家に伝わる家宝だ」
「ええ?」
戯言にしか聞こえない兄の蘊蓄。
「なによそれ?」と零香が訊ねる。
「全ては答えられないけど、要はレム睡眠時の明晰夢に自分の実体を投影させることで、その人の夢の中に出演できる手法を習得できるんだ」
「うちってそんな家系だったの?」
「うん。おじいちゃんの家柄はあの鎌倉に出ていった北条平氏とたもとを分かつんだ。あちらは鎌倉に移住してしまったけど、ウチは伊豆に残った方の血筋だ。そんな中で、都の陰陽師に諸学を乞い、この技を確立させたようだね。その頃にはお武家をやめたので名字も変わったようだ」
「へえ」
「それでさ、あいつと結婚したらこの食堂の庭に咲く菫と紫陽花を持って行って欲しい。プランターでも良いので、育ててやってくれ。枯れたらまたここの庭のモノを株分けしてくれ。そうすればおじいちゃんとおばあちゃん、そしてオレの思念が常にお前たち二人を守ってくれるはずだ」
「なに? 結婚って? ばかじゃないの!」と照れて赤くなる零香。
「大丈夫、お前両思いだから」
「またいい加減な事言って。夢の中でもお兄ちゃんは適当なんだから」としっかり者の妹を演じる零香。
「ははは。いずれ分かるよ。とにかく頼むよ」
「植物なので手荷物で持って行くわ」
零香の言葉に海暉は優しく頷くと、
「あのツーショット写真も手荷物で持って行けよ。きっと一色は、それを見て、お前をずっと置いてくれるよ」と意味深な笑いでアドバイスにした。そのまま海暉の姿は彼女の夢からスッと消えた。
零香は、蒲団から、がばっと起き上がると、
「なによ、もう。人の恋心を見透かしたように……ふん、おばけのくせに」としかめっ面で朝陽を浴びて光る庭の紫陽花の葉に目をやった。雨は止んで雲の隙間から青空が広がり始めている。雨上がりの水滴は爽やかなほど彼女の心に潤いを与えていた。
友人二人をおこさないように、そっと庭先に出た零香。
ノビをしてから、「しょうが無い。お兄様のお願いですしね。株分けの準備でもしますか!」と言って、裸足にサンダルで渡り石を飛ぶようにぬかるみを避けて紫陽花と菫の前に立った。
高台に位置するこの庭先、彼女の視界には風と雲が景色を動かしている様が飛び込んで来た。
「ここに今の私がいる。あの時とは違う、きっと明日は、私のために新しいページを開けてくれるもん。そうでしょう? おにいちゃん」と植え木ばさみで元気そうな紫陽花の枝を数本切る。全てを閉塞感に包まれて家に閉じこもっていた兄を亡くしたあの頃とは、同じ景色なのに今の彼女の目には全く違って見える。それが克服であり、痛みを乗り越えた人間が見ることの出来る景色なのだろう。
「紫陽花は接ぎ木でも、挿し木でも根付くから大丈夫ね。菫は鉢植えだからそっくり回りの土ごと植えないとね」とひとりごちた。
朝日を浴びて新しい朝が始まる。夢幻でもいい、兄に会えた嬉しさと一色と一緒に歩む人生を暗示してくれた優しさが彼女の心を満たしていた。
そして勿論、縁側の奥ですやすやと寝息を立てている幼なじみの二人も、一色と同じくらい大切な存在だ。
「ひとりじゃない」
自然とそう思った彼女は、暗雲立ちこめていた過去を振り払って、幸せになる準備に取りかかっているようにも見える今回の帰省であった。
了




