∞第十一話 かき揚げ丼が描き上げるプロット
∞第十一話 かき揚げ丼が描き上げるプロット
「FM葛西公園、お昼までのひとときをお楽しみ頂きました。お相手は青砥美和、最後のナンバー、大滝詠一『君は天然色』を聴きながらのお別れです。シーユーネクストマンデー」
そう言ってヴォリウム・レバーを引き、ヘッドフォンを外す。『君は天然色』が流れるモニタースピーカーの音を聴きながらスタジオを出る準備に入る美和。平日帯のお昼までの時間帯番組、一週間が終わる。
「美和ちゃん、お疲れ。今日もノッてたねえ」
ディレクターの柿本は編成ブースからガラス越しに手を振る。マイクを通した声に美和も軽く手を振る。
スタジオから出て来た美和は柿本に軽く会釈。すると柿本は足早に美和の元に駆けつけ、
「美和ちゃんちの食堂に一度お邪魔したいんだけど、局の関係者が行っても大丈夫?」
「ああ、兄のやってる店なので特に問題はないかと」と美和。
「そっか。私の知っている限り、美和ちゃんのお兄さんって、凄い霊感がはたらくって巷では有名みたいだから私のことを見て欲しいなあ、って思って」
ディレクターの柿本は三十二歳、遅咲きの美女である。
「いやいやウチのアニキは占い師でも霊媒師でもありません。食堂のおじさんです」
あきれ顔で肩をすくめる美和。
「じゃあなんで、予知夢の店ってインターネットに出ているのかな?」
「ひやかしでしょう」と笑う美和。
「そっか、好きな人に告白でも、と思ったから相談しようかな、って思ったのに……」と少し悄気た感じの柿本。
「今気になる人でもいるの?」
柿本の突然の『恋バナ』に、少し驚く美和。
「うん、二十年も片思いしている人がいるのよ」
「二十年! すごっ!」
ドングリ眼に目を見開いた美和。
「売れっ子のマンガ家で青田貝って人がいるの」
「知ってる。別冊マルガメールや少女フレンチで書いてる少女マンガ家さん。私も好き。『描き上げたラブストーリー』って、いま連載中の人気作品。いいわよね。で、その人がなに?」
「実は同級生で、幼なじみなのよ。ずっと好きだけど、告白できずにいるの」
普段のクールビューティーな柿本はどこかに消え失せ、今目の前にいる乙女チックな彼女の姿に戸惑う美和。
同じ頃『潮風食堂』の扉を開けたのは話題の青田貝である。この店の常連でもある。
「おっ、海くん。久しぶり」
いつものように厨房の奥から声を出したのがこの店の主人、青砥一色だ。もちろんラジオ・パーソナリティー美和の実兄である。
そしてこのお客はペンネーム青田貝こと、本名青田海である。
「煮詰まっちゃってさ。気分転換に一色さんの料理でも、ってここに来たんだ」
「少女マンガ雑誌の新人賞とったら、あれよという間に連載抱えて、ベストセラーを出しまくってもう大先生だ」と笑う一色。
「やめてよ、一色さん。僕は前と全然生活変わっていないんだから。食べる物からスケジュールからなにも変わらない。ちょっと忙しくなったってだけだよ」
照れ隠しというよりも、本当に日常を愛する性格のようだ。泰然自若とは彼のためにある言葉だと思う。
「そっか、そっか。で、何にするの?」
海はもう決めてきたようで、即座に「かき揚げ丼!」とオーダーした。
「了解。いまの季節ね、湘南産のしらすと焼津産の桜エビが入ってきたので、それのかき揚げになるけどいいかな?」
「好都合です」と嬉しそうな海の顔に一色も頷くと天ぷら鍋の前に移動した。ラードと菜種サラダの油の程良い香りが店内に広がる。
カウンターを陣取って海が座る。ちょうどそこに入ってきたのはFM葛西公園から潮風食堂に向かってきた美和と柿本だった。
「あれ、せっちゃん」
海は美和と入ってきた見覚えのある顔に右手を挙げる。
「か、か、か、海くん」
その『せっちゃん』という名前にピンときたのは一色だった。油の温度と揚げ時間を気にしながらもそれは聞き逃さなかった。いつも海が言っている片思いの相手だとすぐに気付いた。
「海くん、久しぶり」
赤面のクールビューティは美和に隠れるように小さく手を振った。
「折角だから一緒に食べようか」という海に、「うん」と小さく頷く。レディの筈の彼女が今はまるで乙女だ。
和風のプレートの上に丼を載せてカウンター前に一色は来たが、それをテーブルに移った海の前に向きを変えて差し出す。
「おまちどうさま」と一色。
美和が「ああ、さくらえびとしらすのかき揚げか。そんな時期だねえ。おにいちゃん、私もこれ食べたい」と言う。
「本当美味しそう」と柿本。
「じゃあこれ二つね」と美和。
「いいけど、ちゃんと払ってくださいよ、有名DJさん」と美和に釘を刺す一色。そしていたずらな顔で一色は笑う。
「あの今日は私が美和さんをお誘いしたので、私がお支払いしますので……」と柿本。
「これはこれは。どちらさん?」と美和に視線を移す一色。紹介してよ、のサインだ。
その言葉に、美和は、
「ウチの局のディレクター。アニキに霊感があるって噂を聞いて会ってみたかったらしいんで、連れてきた」と惚ける。
「霊感? オレに? まさか」
不思議そうな顔の一色に、「だよね」と被せる美和。
「まあいいわ。アニキ、私たちにも同じかき揚げ丼」
「あいよ」
一色は特に気にする様子もなく厨房に戻った。
その日の夜。寝静まった深夜、海は懐かしい風景の夢を見る。それは高校時代に雪に呼び出された公園の観覧車がみえるゲート前だった。
「なんだよ、学校で毎日会っているのにこんなところに呼び出して。僕忙しいのに」
彼女が海の家庭の事情も知らずに脳天気に海を待たせていると思っているのだ。
実は海の家庭は、もともと母子家庭だったのだが母が病に倒れたのだ。入院である。
そこで美術部きっての画の上手さを持つ海は、この日、当の雪の勧めもあって、マンガ懸賞に応募することを決めたのだ。その後それがなんと特選入賞となり、読み切りページを埋めるだけでなく、その続編で連載をもらった。現役高校生の少女マンガ家青田貝の誕生の日である。すなわち雪の勧めなくして彼のマンガ家人生はあり得ないのだ。その記念すべき日が再現された夢だ。
しかもしばらく、受賞後もプロットの数回分は、大学生だった雪とともに作った経緯もある。見方によっては海の恩人である。
「ごめん、待った?」
まだ制服を着た青春時代の雪は抱きかかえるように分厚いマンガの本を数冊持って来た。
「なんの真似? 僕に読書でもしろと?」
「違うよ。マンガを書いて欲しいのよ」
海は意外だった。成績優秀の優等生、学校一の美少女と呼ばれた雪が、陰キャで、ぼっちの海を忘れずにいたのだ。幼なじみとはいえ、日に数回しか挨拶もしなくなった二人だ。でも彼女は相変わらずの昔ながらの口調で彼と話す。思春期には気恥ずかしさから口調が変わる女性もいるのに、彼女は相変わらず幼い頃と同じいつもの調子だった。優しい性格の女性だ。
彼女は、会話をしながらも、それらの雑誌の原稿募集のページを開く。規定枚数やらマンガ原稿用紙の使い方の指示にチェック、それらを確認するために目を通している。
「おばさんの具合やお見舞いもあるし、バイトも出来ないでしょう。病室で寄り添っていても出来る仕事だからやってみようよ。私協力するし。ダメ元でさ。入れば結構な稼ぎになるよ」とニカッと笑う雪。
「マンガを? 僕が?」
「だってプロットは私と二人で考えれば大丈夫だし、画は海くんの実力なら申し分ないわ。ウチの姉がね。昔漫研で使っていた筆やペンがあるの。そっくり姉がくれるって言っているから、突貫工事で書いてみよう。この二つの雑誌に募集要項があるし、連載作品を分析するとその傾向も分かるから長くても半年もあればいけるわよ。まずはネームの取り方を物にするわよ」
他人のことなのに、海のことを我が身のように親身に接する雪。
なんとも背中を押される形で海は、ネーム、即ちプロットとコマ割りと足したようなラフな台割り原稿を考え始めた。
『そうだ、あの時から雪のおかげで僕の家の家計は助かったんだ』
夢の中なのに、鮮明なほどのリアル映像が映る海の見ている風景。
そこで海の夢は覚める。
『行ってみたくなった』
夜明け間際、まだ朝早いあの観覧車の見える公園の入り口にあるコリドー風のプロムナードに向かって散歩を始めた海。オレンジ色の東の空が明け始める。まだ朝もやが行く手の視界をかすめる時間だ。潮風もどことなく涼を運ぶ。
その朝もやの中に人影がポツリとあった。スカートをはいているので女性と分かる。
長い髪をなびかせている。ちょうど耳の辺りでそのそよぐ髪を押さえてかき上げている。ただ呆然と観覧車を見つめている。
「せっちゃん」
その呼び名に雪は振り向いて、「やっぱり来てくれた」と小さく呟いた。光が差すように彼女の表情は笑顔になる。彼女も同じ夢を見たのだろうか? 以心伝心のように二人は同じ場所を目指して夜明けの街を歩いていたのだ。
「あの日、ここから始まったよね。そして描き上げてから忙しい僕の毎日も一緒に始まった。おかげで弟の学費も母の入院費も全て賄えたなあ」
「そうだったね」と頷く雪。
「みんなせっちゃんのおかげだ」
「海くんの努力と実力よ」と笑う雪。
遠くで海鳥の鳴き声が響く。
「ねえ、キスして良い?」
海とは一番縁遠い台詞が吐かれる。
思わず意味が分からず聞き直す雪。
「なに?」
「キスしたい、せっちゃんと……」
雪はフッと笑うと、
「私とキスなんかしたら高く付くわよ」と首を傾げながら言う。
「いいよ、それだけ出す価値のある女性だ。対価だよ」と怯まない海。
「そっか」
彼女の頬が赤いのは朝焼けのせいだけではない。
「僕のお嫁さんになって欲しい。僕のそばで僕を支えてくれないかな?」
「私もう三十二歳だけどいいの? もっと若い女性も回りにいるんじゃないですか、センセイ?」
「奇遇だね、僕も三十二なんだよね。一緒じゃん。ちょうど良い」
言葉が途切れる頃に、二人の影は静かに重なり、二つの人生の軌跡はひとつの軌跡へと交わって重なった。
「アニキ、ウチの柿本さん、海くんと今度結婚するんだって」
かき揚げ丼を頬張りながら仕事帰りの美和が一色に話しかける。
お客の途切れた午後のひとときにスポーツ新聞を読みながら一色は「らしいね」とぼんやりの返事。
「聞いてないの? 私の話」
「聞いているよ」
「アニキ。どうせまた、零香さんのことでも考えていたんでしょう?」
一色はパタリと新聞を折りたたむと、厨房からカウンター席に身を乗りだして、
「ところで妹君、今日はお代を頂戴してもよろしいですかな? 立て替えてくれる人は誰もいませんよ」と意地悪そうに訊ねる。
「ええっ? 可愛い妹からお金をせしめるの? 時代劇の悪徳代官以上ね」
「おいおい、九百八十円の商品をご購入頂いてお支払い頂くのは当然ですよ。食い逃げはしないでね。妹だからって容赦しないよ」
お互いに火花を散らすような問答していると、店の扉が開いて零香が戻ってきた。
零香はジト目で二人を見てから、クスリと笑うと、
「またじゃれ合っているんですね。仲の良いご兄妹なことで。皆が仲良しなのが一番ですね」と別段相手にもせずに、買い物袋を下げたまま店の奥へと入って行った。
了




