20 サンドロ王 (1)
祖母に不思議な力があった、というのは、コンスタンツァには初耳だ。けれども、腑に落ちる話でもあった。だって実際に、祖母から教わった呪文によってミラーが飛べるようになっている。なにがしかの力があるのは、事実なのだろう。
「それならなおのこと、陛下をお見舞いしたいわ。たとえ気休めにしかならなくても、おばあさまに教わった呪文を唱えて差し上げることができるもの」
「そのような呪文があるのですか」
ここでグレタは、急に真剣な表情になって身を乗り出してきた。期待の大きさを感じ取り、コンスタンツァは少々ひるんだ。あまり期待されても困る。だから彼女は、正直なところを伝えておいた。
「ええ。『治れ、治れ』って、子どものためのおまじないなのだけどね」
しかしグレタの期待は、少しも損なわれた様子がない。相変わらずの真剣さで、ゆっくりと何度もうなずいた。
「ぜひお試しくださいませ。このグレタが、責任を持って侍医を説得してまいります。必要とあらば、夫からも圧をかけさせましょう。少々お時間をいただけますか」
「もちろんよ」
グレタの夫ならば、宰相である。つまりは強権発動も辞さないという意味だ。突如グレタが前向きな姿勢を見せたことに面食らいながらも、コンスタンツァは鷹揚にうなずく。グレタは慌ただしく部屋を辞して行った。
驚いたことに、グレタが戻ってきたのは、ホリーが紅茶のお代わりを入れて間もなくのことだった。時間をほしいと言っていたから、どれほど早くとも昼食後になるだろうと思っていたのに。
グレタは謎の達成感に満ちた、誇らしげな笑顔で報告をした。
「侍医の同意をもぎ取ってまいりました。さあ、いつでもようございますよ」
「なら、すぐにでもお目に掛かりたいわ」
「かしこまりました。いざ、まいりましょう」
先導する侍女長について、部屋を出る。声をかけるまでもなく、ホリーもコンスタンツァに続いた。
案内されて行った先は、サンドロ王の居室。コンスタンツァが滞在している客室は東翼の二階にあるが、国王の居室は本棟の二階にある。同じ宮殿内といえども、棟が違うと結構な距離があった。
「こちらでございます」
グレタの案内に従って部屋の中に入ると、侍医とおぼしき老年の男性が振り向いて立ち上がった。見るからに迷惑そうな渋い表情をしていて、まったく歓迎されている様子ではない。
「陛下はさきほどお休みになったところです」
いかにも病人の眠りを邪魔してくれるなと言いたげである。だがグレタは「そうですか」と受け流して、何ごともなかったかのようにコンスタンツァに侍医を引き合わせた。
「こちらは、侍医長のルーベン・アンセルミ卿です」
「はじめまして。陛下の婚約者となった、コンスタンツァ・オルドリーニよ。よろしくね」
コンスタンツァの挨拶に、ルーベンは眉間に深くしわを刻んだまま頭を下げる。グレタはルーベンの態度を歯牙にもかけず、にこやかに紹介を続けた。
「コンスタンツァさまは、あのコルネリアさまのお孫さまなのですよ。しかも、おばあさまから呪文を習ったとおっしゃっているの。ルーベン卿なら、きっと意味がおわかりでしょう?」
すると驚いたことに、ルーベンは目を見開き、苦々しげな表情を一変させたではないか。
「それは本当ですか⁉」
「ええ、本当よ。でも、あまり期待はしないでちょうだい」
あまりの食いつきように、コンスタンツァはほとんど無意識に牽制の言葉を口にした。この変わりようは、いったいどうしたことだろう。自分で望んだこととはいえ、あまり大きな希望を持たれても困る。だが彼女が腰の引けた様子を見せても、一条の光を見たかのようなルーベンのすがる視線に変化はなかった。
「陛下はこちらでお休みです」
ルーベンは、居室から寝室につながる扉にコンスタンツァを案内する。開かれた扉から寝室へ進むと、カーテンが半分ほど閉められていて、室内はほんのりと薄暗かった。大きな天蓋付きのベッドに向けて、静かに足を踏み出す。
ベッドには老人がひとり眠っていた。サンドロ王だ。顔色が悪く、目の下にくまがあるのが痛ましく感じられて、コンスタンツァは眉根が寄るのを抑えられなかった。国王はかすかに眉間にしわを寄せており、どこか苦しそうだ。
コンスタンツァは枕元に身を乗り出し、サンドロ王の額に手を当てた。熱くはない。むしろ彼女の手のひらよりも、温度が低いくらいだ。コンスタンツァは額に手を当てたまま、ささやくように小さな声でおまじないを唱えた。
「治れ、治れ、すぐ治れ。今日が無理なら、明日治れ」
正直なところ、彼女は自分でもあまり期待はしていなかった。だがおまじないの結果に、コンスタンツァは目をまたたかせることになる。ミラーにおまじないを唱えたときと、まったく同じことが起きたのだ。キラキラと光の粒がサンドロ王の上に降り注ぎ、空気に溶けるようにして消えて行く。すぐ後ろでグレタとルーベンの二人が同時に息をのんだのが、気配でわかった。
国王の顔色に大きな変化はないものの、眉間に寄せられたしわがわずかに緩んだように見える。コンスタンツァは二度、三度とおまじないを繰り返した。
三回目のおまじないを唱え終わったときのことだ。サンドロ王はうっすらと目を開き、かすれた声で名を呼んだ。
「──ネリー?」
ネリー。それはコルネリアの愛称だ。コンスタンツァはサンドロ王に微笑みかけた。
「ごきげんよう、陛下。残念ながら、コルネリアではございません。わたくしは、彼女の孫のコンスタンツァです」
「すまないね。寝ぼけてしまった。ネリーが迎えに来たのかと思ったんだ。あなたは若い頃のネリーと本当によく似ているね」
「そうなのですか?」
「ああ。顔も似ているが、特に声がそっくりだ」
国王が身を起こそうとすると、即座にルーベンが体を支え、グレタが背にクッションを当てた。流れるような連携だ。コンスタンツァはサンドロ王がクッションに背を預けるのを待ってから、背筋を伸ばし、丁寧にお辞儀をした。
「ご挨拶が遅れましたが、コンスタンツァ・オルドリーニでございます。このたびは婚姻を申し入れてくださり、ありがとう存じます」
「いくら方便とは言え、相手がこんな死にかけの年寄りですまなかったね」
「何をおっしゃいますか! お陰さまで、困ったことになる前に国を出ることができました。本当に、ありがとう存じます」
「うん。無事でよかった」
気さくに笑う国王は、心なしか顔色がよくなっているように見える。コンスタンツァはうれしくなって、さっそく自分の下心を隠すことなく打ち明けた。
「陛下には、早くよくなっていただかなくては。だってわたくし、陛下にお願いしたいことがあるんですもの」
「おや、何だろう。あなたの頼みなら、何でも聞いてしまいそうだ」
「あら、うれしい。その言葉、決してお忘れにならないでくださいませね!」
「いいとも。私にできることなら、何でもしてあげるよ。約束しよう」
サンドロ王は目を細め、願い事の内容を聞きもせずに、にこにこと安請け合いをした。




