02 鏡の中の青年
その人影は、青年の姿をしていた。彼女のいる場所よりもだいぶ奥のほうにある、背もたれのない長椅子に腰掛けて、本を読んでいる。
見たところ十八歳のコンスタンツァより、いくつか年上のようだ。椅子に座っていても遠目からはっきりわかるほどの長身で、長い足を持て余すように組んでいる。顔はよくわからない。うつむいているため、見えるのは金髪のつむじばかり。
いったい誰なのだろうかと、コンスタンツァは静かに観察を続けた。
服装は見るからに上質で、金糸で見事な刺繍が施されている。よく見るとその刺繍の模様は、タリーニ王家の紋章をモチーフにしていた。ということは、ただの貴族ではなく、王族なのだろう。
(この国に王子なんていたかしら。国王陛下の子どもは、王女ひとりだったはずよ)
考えてもさっぱり見当がつかない。だから彼女は彼の正体を確かめるべく、近づく前に声をかけてみることにした。
「ごきげんよう」
礼儀正しく挨拶してみれば、青年は顔を上げて辺りを見回す。あらわになったその顔を見て、コンスタンツァは驚きに目を見張った。彼女が今まで見たことのないほど、涼やかな顔立ちの美青年だったのだ。
彼女の元婚約者も容姿には恵まれているほうだったが、それとはまた次元の違う美貌だ。まるで彫刻のように顔立ちが整っている。人間離れしていると言ってもよい。
彼はコンスタンツァに気づいて眉を上げ、彼女のほうを見た。だが、なんということだろう。そのまま興味を失ったように、本に視線を戻してしまうではないか。その青い瞳に、間違いなく彼女を映したはずなのに。
思いもかけないこの無礼な態度に、コンスタンツァはあっけにとられた。
(え? 今、間違いなく目が合ったわよね?)
顔を上げてこちらを見たのだから、聞こえていないはずがない。彼女は眉間にしわを寄せ、礼儀をかなぐり捨てて青年に食ってかかった。
「ちょっと、あなた。どうして無視するの? 無礼にもほどがあるでしょう」
とげのある彼女の声に、青年は再び本から顔を上げ、今度は辺りを見回した。しかし腹立たしいことに、怪訝そうに首をひねっただけで、またもや本に視線を戻してしまう。
コンスタンツァは目をむいた。ここまでこけにされたことは、未だかつて一度もない。苛立たしさのあまり、幼い子どものように片足を強く踏み鳴らした。
「ねえ、あなた。そこのあなたよ! 目が見えて、耳も聞こえているでしょうに、どういうご了見なの? 何かおっしゃいな」
青年は三たび本から顔を上げ、今度こそじっとコンスタンツァを見つめた。
「もしかして、僕に声をかけてる?」
「当たり前でしょう。他に誰がいると言うの」
「これは驚いた。僕が見えてるんだね」
あたかも心底驚いたかのように、青年は目を見張る。その表情に嘘があるようには見えず、コンスタンツァは毒気を抜かれた。
「まるで普通は見えないかのようなおっしゃりようね」
「そのとおりだよ。生まれてこのかた六十年余りで、きみが初めてだ。しかも見えるだけじゃなくて、ちゃんと声も聞こえてるんだね」
青年の言葉の中の「生まれてこのかた六十年余り」という部分が引っかかり、コンスタンツァは眉根を寄せた。
「ホラを吹くのも大概になさいな。あなた、どう見てもせいぜい二十代よ。絶対に三十なんて超えてないわ」
「普通の人間ならそうかもね」
その言い草は、自分は人間ではないと言っているかのようだ。これ以上、まだふざけたことを言うつもりなのか。コンスタンツァは眉間のしわを深くした。彼女の疑念に満ちた眼差しに、青年は苦笑した。
「そこからだとわかりづらいのかもしれないな。ぶつからないよう、ゆっくりこちらへおいで」
これまた失礼な物言いだ。ゆっくりでなくとも、ぶつかるわけがない。彼女をいったい何だと思っているのか。憤然と青年に向かって歩き出したものの、じきにコンスタンツァは足をとめた。青年の後ろに人影が見えたからだ。
彼女が足をとめると、その人影も動きがとまる。歩みを再開すれば、その人影も動き始める。よくよく見てみれば、それは鏡に映った彼女自身の姿ではないか。なんと図書室の奥の壁は、一面が鏡になっていたのだ。道理で妙に奥行きがあるように見えたわけだ。
ところが、壁面が鏡になっている割には、おかしなことがひとつあった。青年の姿が映っていない。いや、むしろ映った姿しかない。本当なら実体と鏡像と、二人分の姿が見えるはずだ。けれどもどうしたわけか、鏡の向こう側からこちらを見ている姿しかなかった。
(いったい、これはどういうこと?)
鏡の前には、長椅子が置かれている。そこには誰も座っていない。鏡の中の長椅子には青年が座っているというのに。コンスタンツァは長椅子の後ろから近づき、鏡の中で青年が座っている場所にそっと手を伸ばした。
もちろん、そこには何もない。
何もないのだが、鏡の中にいる青年の姿を見て、コンスタンツァは悲鳴を上げそうになった。彼の頭部から、彼女の手がにょっきり突き出ていたからだ。あまりにグロテスクなその姿に、彼女はあわてて手を引っ込めた。
彼女はきっと恐怖に息をのんで、目を見開いていたのだろう。目の前の青年は、いぶかしげに長椅子から立ち上がって歩み寄ってきた。
「どうしたの? 何かあった?」
「あなた、何ともなかったの?」
「何が?」
「わたくしの手が、あなたの頭から……」
何と説明したらよいのかわからず、コンスタンツァは言葉を詰まらせた。青年はしばらく彼女の言葉の続きを待っていたが、ややあってから「何ともなかったよ」と請け合った。
それを聞いて、彼女は安堵して肩から力を抜いた。見えたものは恐ろしかったが、彼を傷つけたわけではなさそうだ。あり得ないものを見た恐怖が落ち着いてくると、今度は別のことが気になってくる。
「あなたは、見てなかったの?」
「何を?」
「ええっと、その、わたくしの手が、あなたの頭から……」
またしても彼女が言いよどむと、青年は考え込むような様子で「そうか。きみにとっては鏡だものな」と独りごちた。
「たぶんきみと僕は、見えてるものが少し違う」
「あなたには、どう見えているの?」
「僕にとって、これは鏡じゃなくて窓なんだ」
「窓?」
「そう。だから自分の姿は映らない」
どうやらこの青年は、鏡の中の世界にだけ存在しているらしい。
これがコンスタンツァと鏡の中の青年との出会いだった。