表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/44

02 鏡の中の青年

 その人影は、青年の姿をしていた。彼女のいる場所よりもだいぶ奥のほうにある、背もたれのない長椅子に腰掛けて、本を読んでいる。


 見たところ十八歳のコンスタンツァより、いくつか年上のようだ。椅子に座っていても遠目からはっきりわかるほどの長身で、長い足を持て余すように組んでいる。顔はよくわからない。うつむいているため、見えるのは金髪のつむじばかり。


 いったい誰なのだろうかと、コンスタンツァは静かに観察を続けた。


 服装は見るからに上質で、金糸で見事な刺繍が施されている。よく見るとその刺繍の模様は、タリーニ王家の紋章をモチーフにしていた。ということは、ただの貴族ではなく、王族なのだろう。


(この国に王子なんていたかしら。国王陛下の子どもは、王女ひとりだったはずよ)


 考えてもさっぱり見当がつかない。だから彼女は彼の正体を確かめるべく、近づく前に声をかけてみることにした。


「ごきげんよう」


 礼儀正しく挨拶してみれば、青年は顔を上げて辺りを見回す。あらわになったその顔を見て、コンスタンツァは驚きに目を見張った。彼女が今まで見たことのないほど、涼やかな顔立ちの美青年だったのだ。


 彼女の元婚約者も容姿には恵まれているほうだったが、それとはまた次元の違う美貌だ。まるで彫刻のように顔立ちが整っている。人間離れしていると言ってもよい。


 彼はコンスタンツァに気づいて眉を上げ、彼女のほうを見た。だが、なんということだろう。そのまま興味を失ったように、本に視線を戻してしまうではないか。その青い瞳に、間違いなく彼女を映したはずなのに。


 思いもかけないこの無礼な態度に、コンスタンツァはあっけにとられた。


(え? 今、間違いなく目が合ったわよね?)


 顔を上げてこちらを見たのだから、聞こえていないはずがない。彼女は眉間にしわを寄せ、礼儀をかなぐり捨てて青年に食ってかかった。


「ちょっと、あなた。どうして無視するの? 無礼にもほどがあるでしょう」


 とげのある彼女の声に、青年は再び本から顔を上げ、今度は辺りを見回した。しかし腹立たしいことに、怪訝そうに首をひねっただけで、またもや本に視線を戻してしまう。


 コンスタンツァは目をむいた。ここまでこけにされたことは、未だかつて一度もない。苛立たしさのあまり、幼い子どものように片足を強く踏み鳴らした。


「ねえ、あなた。そこのあなたよ! 目が見えて、耳も聞こえているでしょうに、どういうご了見なの? 何かおっしゃいな」


 青年は三たび本から顔を上げ、今度こそじっとコンスタンツァを見つめた。


「もしかして、僕に声をかけてる?」

「当たり前でしょう。他に誰がいると言うの」

「これは驚いた。僕が見えてるんだね」


 あたかも心底驚いたかのように、青年は目を見張る。その表情に嘘があるようには見えず、コンスタンツァは毒気を抜かれた。


「まるで普通は見えないかのようなおっしゃりようね」

「そのとおりだよ。生まれてこのかた六十年余りで、きみが初めてだ。しかも見えるだけじゃなくて、ちゃんと声も聞こえてるんだね」


 青年の言葉の中の「生まれてこのかた六十年余り」という部分が引っかかり、コンスタンツァは眉根を寄せた。


「ホラを吹くのも大概になさいな。あなた、どう見てもせいぜい二十代よ。絶対に三十なんて超えてないわ」

「普通の人間ならそうかもね」


 その言い草は、自分は人間ではないと言っているかのようだ。これ以上、まだふざけたことを言うつもりなのか。コンスタンツァは眉間のしわを深くした。彼女の疑念に満ちた眼差しに、青年は苦笑した。


「そこからだとわかりづらいのかもしれないな。ぶつからないよう、ゆっくりこちらへおいで」


 これまた失礼な物言いだ。ゆっくりでなくとも、ぶつかるわけがない。彼女をいったい何だと思っているのか。憤然と青年に向かって歩き出したものの、じきにコンスタンツァは足をとめた。青年の後ろに人影が見えたからだ。


 彼女が足をとめると、その人影も動きがとまる。歩みを再開すれば、その人影も動き始める。よくよく見てみれば、それは鏡に映った彼女自身の姿ではないか。なんと図書室の奥の壁は、一面が鏡になっていたのだ。道理で妙に奥行きがあるように見えたわけだ。


 ところが、壁面が鏡になっている割には、おかしなことがひとつあった。青年の姿が映っていない。いや、むしろ映った姿しかない。本当なら実体と鏡像と、二人分の姿が見えるはずだ。けれどもどうしたわけか、鏡の向こう側からこちらを見ている姿しかなかった。


(いったい、これはどういうこと?)


 鏡の前には、長椅子が置かれている。そこには誰も座っていない。鏡の中の長椅子には青年が座っているというのに。コンスタンツァは長椅子の後ろから近づき、鏡の中で青年が座っている場所にそっと手を伸ばした。


 もちろん、そこには何もない。


 何もないのだが、鏡の中にいる青年の姿を見て、コンスタンツァは悲鳴を上げそうになった。彼の頭部から、彼女の手がにょっきり突き出ていたからだ。あまりにグロテスクなその姿に、彼女はあわてて手を引っ込めた。


 彼女はきっと恐怖に息をのんで、目を見開いていたのだろう。目の前の青年は、いぶかしげに長椅子から立ち上がって歩み寄ってきた。


「どうしたの? 何かあった?」

「あなた、何ともなかったの?」

「何が?」

「わたくしの手が、あなたの頭から……」


 何と説明したらよいのかわからず、コンスタンツァは言葉を詰まらせた。青年はしばらく彼女の言葉の続きを待っていたが、ややあってから「何ともなかったよ」と請け合った。


 それを聞いて、彼女は安堵して肩から力を抜いた。見えたものは恐ろしかったが、彼を傷つけたわけではなさそうだ。あり得ないものを見た恐怖が落ち着いてくると、今度は別のことが気になってくる。


「あなたは、見てなかったの?」

「何を?」

「ええっと、その、わたくしの手が、あなたの頭から……」


 またしても彼女が言いよどむと、青年は考え込むような様子で「そうか。きみにとっては鏡だものな」と独りごちた。


「たぶんきみと僕は、見えてるものが少し違う」

「あなたには、どう見えているの?」

「僕にとって、これは鏡じゃなくて窓なんだ」

「窓?」

「そう。だから自分の姿は映らない」


 どうやらこの青年は、鏡の中の世界にだけ存在しているらしい。


 これがコンスタンツァと鏡の中の青年との出会いだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] コンスタンツァにとっては鏡の仲の青年。 彼はにとって、鏡じゃなくて窓。 では、彼は窓の外に何が見えているのでしょう? ミステリアスでワクワクします。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ