17 ミラーの世界 (4)
けれどもミラーの事情を聞いてみれば、自分の顔を知らないのも道理だった。
彼にとって鏡とは、異世界をのぞき見ることのできる窓なのだ。そこに彼自身の姿は映らない。つまり彼の世界には、本当の意味での鏡というものが存在しない。だから彼は、自分の顔かたちがどんなものなのか知らないのだった。
コンスタンツァは念のため、もう一度尋ねてみる。
「自分の姿を映すものが、本当に何もないの?」
「ないなあ」
ミラーはそう答えてしばらくしてから、「あ」と声をもらした。
「あら? 何か思い当たった?」
「そう言われてみれば、一度だけ、自分の姿の映るものを見たことがあったかもしれない」
「なら、それをのぞいてごらんなさい」
「無理だ。どこにあるかわからない」
この答えに、コンスタンツァは「まあ」と眉をひそめた。
「どうしてわからないの?」
「すぐに消えてしまったんだよ」
「どういうこと?」
ミラーによれば、それは彼が鏡の中の世界に生を受けた瞬間に目にしたものだそうだ。手のひらほどの大きさの小ぶりな手鏡で、宙に浮いていた。その手鏡の中に、自分の姿を見たような気がするのだと言う。しかし、その手鏡はすぐに消えてしまった。だからそこに一瞬だけ見えた若い男の顔が、彼の見た最初で最後の自分の姿というわけだ。
「一瞬しか見えなかったけど、これといって特徴のない男の顔だった」
ミラーのこの感想を聞いて、コンスタンツァはため息をついた。
「これといって特徴がないわけじゃないわ。それを言うなら、これといって難点のない顔なのよ」
「同じことじゃない?」
「全然違うわよ!」
コンスタンツァは腰に手を当てて、きっぱりと断言した。
「難点がひとつもないって、言葉を変えれば完璧ってことでしょう。つまり、あなたの顔の造作は、完璧に整っているの」
「おやおや。過分なお褒めの言葉をありがとう」
面白がっているようなミラーの表情を見れば、明らかに彼女の言葉を本気に受け取っていないことがわかる。きっとお世辞だと思っているのだろう。もっとも、自分の顔を見たことがあってもほんの一瞬だけ、それも五十年以上も昔の話とあっては、どんな顔だか記憶に残っていなくても不思議はなかった。
けれども今は、彼が自分の顔を覚えているかどうかは重要ではない。
「だからね、あなたがおっしゃったように顔の美醜がものを言うなら、あなたは間違いなく精霊にお願い事を聞いてもらえるはずよ。試してごらんなさい」
ミラーは「わかったよ」と苦笑して、コンスタンツァの教えた呪文を唱えた。
「光の精霊ソリステア、どうか力を貸したまえ」
二人でしばらく待ってみたが、彼女が唱えたときと違い、何も起きない。ミラーは「ほらね」とでも言いたげな顔で、両手を広げて肩をすくめてみせた。コンスタンツァは少し考えてから、もう一度呪文を唱える。今度は願い事も一緒に口にした。
「光の精霊ソリステア、どうか力を貸したまえ。ミラーが好きな場所に飛んで行けるようになりますように」
彼女が言い終わるが早いか、キラキラと光の粒がミラーの上に降り注いでから消えて行った。ミラーとコンスタンツァは、どちらからともなく目を丸くして顔を見合わせる。コンスタンツァのほうがいち早く気を取り直し、ミラーをうながした。
「もう一度、試してみたら?」
「そうだね」
ミラーは先ほどと同じように目を閉じる。そして、消えた。
「できたじゃないの!」
コンスタンツァは思わず快哉を叫び、手を叩く。だが次の瞬間、ふと鏡の上で視線をとめた。そこには、うれしそうに手を叩く自分の姿だけが映っている。こんなふうに誰もいない場所で、声を上げてはしゃぐ自分の姿を客観的に見てしまうと、急にすうっと興奮が冷めていった。
(誰かに見られでもしたら、頭のおかしい娘だと思われそうだわ……)
ホリーが入り口を見張っているから、そうそう人が入ってきたりしないはずではある。とはいえ、少しは自分でも気にかけておくほうがよいかもしれない。ミラーと話しているとつい忘れてしまいがちになるが、自分以外の人間に彼の姿は見えないのだから。
すっかり彼女が冷静になったところに、ミラーが戻ってきた。
「飛べたよ!」
「そのようね」
彼はにこやかに報告したものの、なぜかそれほどうれしそうに見えない。
「ただ、想像してたほどには便利じゃなかったなあ」
「あら。どんなところが?」
「風景を思い浮かべた場所に飛べる代わり、知らないところへは飛べないんだ」
「ああ、なるほど。行ったことがなかったら、思い浮かべることもできないものね」
「そうなんだよね。あと、必ず鏡の前に飛ぶ」
つまり、鏡の置かれている場所限定ではあるものの、一度でも行ったことがあれば、彼は瞬時に飛んで行けるようになったということだ。制限付きとはいえ、徒歩以外に移動手段がなかったのと比べれば、雲泥の差である。もっとも、ミラーは王宮から外に出たことがない。ということは、やはり外へ飛んでいけるわけではないのだった。
それに鏡というのは、高価なものだ。街中にホイホイと置かれているわけがない。
「まあ、でもこれで、迷子になるのを恐れることなく、外へ探検に出かけられるのではなくて?」
「あはは。確かにそうだね」
とりあえず、ミラーにリヴォルタ公国へ行ってきてもらおうという目論見は、残念ながら外れてしまった。それはそれとして、コンスタンツァにはもうひとつ、試してみたいことがあった。
ポケットからコンパクトミラーを取り出し、パチリと留め金を外して蓋を開けてから、鏡面をミラーに向ける。
「ミラー、ここにあなたは映っているかしら」
「合わせ鏡になっているのが見てわかるけど、僕の姿は映らないね。そちらの世界のものしか映らないんじゃないかな」
ここまではコンスタンツァの予想どおりだ。彼女の予想は、もうひとつある。それを確認するため、彼女はミラーに問いかけた。
「あなたの世界に、この鏡は存在していて?」
ミラーは辺りを見回し、ある一点で目を見開いてから二度見をした。それは鏡の中で、彼女の掲げているコンパクトミラーのある位置だった。彼は彼女に背を向け、少し腰をかがめるようにして鏡の中のコンパクトミラーをのぞき込む。
「どう? あなたの顔は映っていたかしら?」
ミラーは「いや」と首を横に振る。まあこの返答も、十分に予想の範囲内だ。コンスタンツァは「そう」と相づちを打って、コンパクトミラーの蓋を閉じてポケットにしまった。すると彼は再びギョッとしたように、コンパクトミラーがあった場所を振り向く。
「どうかして?」
「鏡が急に消えたから。びっくりした」
「ああ。やはりそうなのね」
彼女が確認したかったのは、これだった。
ミラーの世界には、人間がいない。つまり人間が身につけているものごと存在していないということだ。だが、鏡だったらどうだろう。ミラーが生まれた直後に目にした手鏡は、すぐに消えてしまったと言う。ならば、消える条件があるのではないだろうか。だから手鏡と条件が近い、コンパクトミラーで試してみたというわけだった。
「鏡面が覆われていると、そちらの世界から消えるのではないかしら。その手鏡を誰が手にしていたかわかれば、あなたの出生の秘密も明らかになるかもしれないわね」
「大きい鏡のある部屋ではなかったからなあ。誰がいたのかわからない。それにまだそのときには、鏡から人間の世界がのぞけるとは知らなかったから、見てみようとも思わなかったんだ」
「そうよね」
結局、ミラーからは特に情報を得られそうもなかった。ただ謎が増えただけだ。




