16 ミラーの世界 (3)
コンスタンツァは上気した頬をごまかすように、「そうだわ」とミラーに話しかけた。
「ちょっとリヴォルタ公国へ行ってみたらどうかしら」
「何のために?」
「あちらの貴族年鑑を確認するためによ」
「そんなことのために、わざわざリヴォルタ公国まで行くのかい? のんびり国外旅行なんか行ってたら、帰る頃にはきみの婚約者は寿命が尽きてるかもしれないよ」
からかい半分、本気の心配半分といった様子のミラーの言葉に、コンスタンツァは「何を言っているの」と吹き出した。
「わたくしではなくってよ。行くのはミラー、あなたよ」
「無理じゃないかなあ。行ける気がしない」
ほんの少しのやる気も見せないミラーに、彼女は呆れる。
「どうして行ける気がしないの?」
「城の外に出たことがないからね」
「出られないの?」
「出られるとは思うよ。でも迷ったらおしまいだからなあ。ここには道を聞ける相手がどこにもいない。それに、外には鏡がないだろう? 人間の声を聞くこともできないじゃないか。だから外に出てみようとは、思ったことがないんだよね」
筋は通っている。彼女はうっかり納得してしまいそうになった。だが、言っていることが人間くさすぎる気がする。コンスタンツァはミラーに疑わしげな視線を向けた。
「まさか、歩いて行こうなんて考えてないでしょうね?」
「え? 歩くしかないだろう? こっちには、馬も馬車もないんだから」
「精霊なら、もっとやりようがあるでしょう!」
あまりにもミラーがとぼけたことを言うものだから、ついついコンスタンツァはピシャリとはねつけてしまった。言ってしまってから、彼女はハッと我に返る。またきつい言い方をしてしまった。そっと彼の様子をうかがってみる。
すると幸いなことに、彼は少しも気にした様子がなかった。ただ単に彼女の言葉を受けて、「やりよう?」と首をひねっているだけだ。だから彼女は、具体的に説明してやった。
「精霊らしく、パッと消えてパッと現れればいいじゃないの」
「簡単に言ってくれるなあ」
彼女の簡潔な説明に、ミラーは苦笑を見せた。
「精霊には簡単なことなのではなくて?」
「そうなのかな。でも、やり方がわからない」
もちろんコンスタンツァにだってわからない。だが、言い出したのは彼女だ。何とかして案をひねり出さなくては。
「たとえば、そうね、目をつむって行きたい場所を思い浮かべてから、『飛べ』って念じてみたらどうかしら」
「試してみよう」
ミラーは立ったまま静かに目を閉じる。微動だにしない立ち姿は、まるで彫像のようだ。そのまま二度と動かないのではないかと心配になってきた頃、彼は薄く片目を開けた。そして落胆したように嘆息してから、パチリと両目を開いて肩をすくめた。
「だめみたいだ」
「そのようね」
「もしできるとしても、こういうのって、きっと何か呪文が必要なんじゃない?」
ミラーの言葉に、コンスタンツァはしばし考え込んだ。言われてみれば、確かにそうかもしれない。「呪文……」とつぶやきながら、呪文として使えそうなフレーズを頭の中で探してみた。
真っ先に思い出すのは、祖母コルネリアに教わった癒やしの呪文。
母の実家には子どもの頃から何度か泊まりに行っているが、あるとき庭でお転婆をしてけがをした。擦り傷が痛くて涙目の孫を抱き上げ、祖母は傷の上に手をかざして、歌うように短いフレーズを唱えてくれたものだ。
『治れ、治れ、すぐ治れ。今日が無理なら、明日治れ』
不思議なことに、本当にすぐ治った。あれは呪文と呼んでもよいように思う。ただし、ミラーが飛んでいくのに使える気はしない。
あのとき祖母は「大人になったら、使い方を教えてあげるわ」と言いながら、他にもフレーズを教えてくれた記憶がある。そのフレーズはもっとずっと汎用的だったはずだ。どんなフレーズだっただろうか。確か精霊に呼びかけていたと思う。その精霊の名は──。
コンスタンツァはしばらく目を閉じて記憶の中を探り、ひとつの名前をたぐり寄せた。
「──光の精霊ソリステア、どうか力を貸したまえ」
記憶を頼りに、祖母が歌うようにふしをつけて唱えたのを真似て、小声でつぶやく。すると、なんと目の前に光の粒がキラキラと降り注いでから消えいくではないか。コンスタンツァは驚きに目を見張ったが、すぐに気持ちを切り替えて満面の笑みをミラーに向ける。
「ほら! あなたも試してごらんなさい」
「それ、きみみたいにきれいで魅力的なお嬢さんが唱えたから、光の精霊も応えてくれたんじゃない? 僕が唱えたところで、何も起きない気がするよ」
「顔の美醜は関係ないでしょう」
「大事なのは中身とは言うけど、第一印象は見た目で決まるものだろう? 僕がその精霊でも、きみみたいにかわいらしいお嬢さんの頼みなら、きっと何でも聞いてあげたくなっちゃうと思うよ。でも僕みたいに平凡な男が頼んでもなあ……」
ミラーのぼやきに、コンスタンツァはもの申したい気持ちでいっぱいになる。何から言おうか迷って、逆に言葉に詰まってしまったほどだ。
まず、彼女が「かわいらしい」というところからして間違っている。コンスタンツァは、自分の容姿がかわいらしいと呼ばれるたぐいのものからほど遠いことをよく知っている。かわいらしいというのは、従姉妹のソフィアのような少女のことを言うのだ。あの子は本当にかわいらしい。
それに、第一印象を決める「見た目」とは、性格からにじみ出るものや清潔感など、見た目に表れる雰囲気を意味するのであって、美醜ではないだろう。
そもそもミラーのいったいどこをとったら平凡だと言えるのか。もう存在自体が普通ではないし、容姿も同様だ。彼の容姿が平凡だと言うなら、この世に美形は存在しない。あまり謙遜などしそうにない性格のように見えるが、もしかして謙遜しているのだろうか。あるいは、本気でそう思っているのか。
あまりのことにコンスタンツァは眉根を寄せて彼を見やり、呆れた声を出してしまった。
「あなた、鏡を見たことがないの?」
「うん」
まさかないわけはないだろうと思って尋ねたのに、あっさり肯定されてしまった。そればかりか、ミラーはハッと何かに気づいたようにペタペタと両手で顔を触り、焦った顔で尋ね返してくる。
「ずっと普通だろうと思ってたんだけど、もしかして平凡だなんて言うのが厚かましいほど不細工だった……?」
どうやら、本当に自分の顔を知らないらしい。




