不治の病とチョコレイトウ
バレンタイン記念短編です~!
大正時代の、とある病弱なお嬢様と軍医のお話です。
私には、許嫁がおります。
その方は聡明で、とても優しく、穏やかな方です。いつも、背広や軍服の上に白衣をお召しになられていて、その黒と白の色彩がよく似合うお方です。
私は小さなころから体が弱く、生まれた時には生死をさまよったほどでした。
彼はそんな私を助けてくださった命の恩人です。父の所属している軍のお医者さまでした。以来、その方は、私が病気になると必ず見舞いにきて、その病気を治してくださるのでした。
そんな彼の、少しカサついたひやりとした手が私の額に触れる瞬間。
近頃、私の心臓はひどく高鳴るのでした。
――どうやら私は、何かの病気にかかっているようなのです。
その病気は、彼との婚約が決まってからのことでした。原因は分かりません。色々と治療を試したものの、よくなる気配はありません。彼は幾たびも私のもとに往診してくださりました。
許嫁というよりは、医師としての正義感がそうさせているのでしょう。
そんなことを思えば、私の胸はツキリと痛みました。
「熱はないようですね。食欲はいかがですか? 何か、軽いものでも」
「いいえ、先生。時折胸が締め付けられて、食事ものどを通らないことがございます」
私は、その方を先生と呼びます。そのたびに、先生はどこか寂しそうな、少し困ったような顔をするのでした。
そして、そんな先生の顔を見れば、私の胸もまた、ツキン、ツキン、と痛みました。
どうして、先生のことを考えると、こんなにも苦しいのでしょう。
正直に、そう打ち明けるべきなのです。お医者様というのは私たちの体のために、私たちの体の状態をよく知っておかねばなりません。それこそが、正しい治療につながるのだと、先生も以前おっしゃっておりましたから。
けれども、先生を目の前にすると、なぜだかそのようなことは一言たりとも口にすることは出来ませんでした。
先生が、私との婚約をどのようにお考えなのか。そればかりが気になって、泣いてしまいそうでした。
先生。そう呼ぶたびに、顔から笑みを消す先生の心の内を知ることが、怖くてたまりませんでした。
私と先生は、年が二十も違います。先生は大人で、私はいつまでたっても子供です。
先生は、そんな私をどう思っているのでしょう。
婚約などという親の取り決めに従う必要はない、というデモクラシイの声が、ここまで聞こえてきております。自由恋愛という言葉が生まれたことも知っています。
私は、古い人間なのでしょうか。モダンガアルなるものを装い、洋装に身を包むこともありますが、考え方は変えられません。
どうか、先生が私との婚約を反故にしてしまいませんように。そんな意地の汚いことを――先生の幸せを奪ってしまうような、そんな酷いことを考えてしまうのです。
「あまり無理をしてはいけません。季節の変わり目というものは、無意識のうちに心や体が疲れるものです。お嬢様、どうかご安静に」
先生は、私を決して名前では呼びません。
上官である父の娘だからでしょうか。お嬢様とは、どういう意味なのでしょう。どうして先生は、私を名前では呼んでくださらないのでしょう。
私は張り裂けそうな胸の痛みをひた隠しにして笑みを浮かべました。
「わかりました。どうもありがとうございます」
先生はお忙しい方です。引き留めてはいけないと、私は頭を下げました。
本当は、その白衣の裾を――どんなにはしたないと言われようと――引っ張って、引き留めてしまいたいと思うのですが、そう考えるとまた胸がツキン、と痛むのでした。
「……先生」
少し大きめの、使い古された皮の鞄を持ち上げた彼に声をかけると、その瞳が私を貫きました。美しい黒曜石の瞳が、私の鼓動を早めます。
「どうかされましたか、お嬢様」
どうして呼び止めてしまったのか、私は自分が不思議でなりませんでした。
まるで、私が私でないような、そんな気がしてしまうほどでした。
「また、来てくださいますか」
なんとか声を絞り出せば、先生はふっと優しく口角を上げました。二十も年の離れた男性の、こんなに柔らかな笑みは、先生のもの以外知りません。
「もちろんです、お嬢様」
先生はそうして、いつも私が望む言葉をくださいます――けれども。
先生のその正しさが、優しさが、聡明なお言葉の数々が、私には痛いのでした。
*
窓の外に白く小さな雪がちらちらと舞うその日、先生はゆっくりと口を開きました。
「大変申し上げにくいのですが……」
婚約まで後半月、といったところでした。
私の病状は回復せず、それどころか、そのころには私は毎夜、先生のことを夢にまで見てしまう始末でした。夢の中での私は、とてもはしたない女です。その夢を思い出し、悦と快楽の浅ましさに浸り、罪悪感と羞恥の醜さに沈む日々を繰り返しておりました。
だから、先生がこういうのも無理はない、と私は素直に納得したものです。
「お嬢様のご病気は、不治の病です」
先生の言うことで、間違っていたことなど今まで一つもありませんでした。先生の治療はいつだって的確です。だからこそ私は、こうして生きながらえているのです。
先生なりに、私との婚約を遠回しにお断りされているのかもしれません。
せめて、後半月はこのままで。いいえ、本当は。一瞬でもいい、先生と夫婦になりたい。そう願ったものでした。
先生は、予想に反して、穏やかな笑みを一つ浮かべました。そして、白衣の内側のポケットから何やらごそごそと取り出してみせました。
「これは、チョコレイトウというものです」
先生は、私にそれを差し出します。
製菓会社の名前が印字された茶色い板状の包みから、銀紙がのぞいておりました。
「チョコレイトウ?」
私が首をかしげて、それをじっと見つめておりますと、先生は私の手をとって、茶色い包みを半分ほどずらしました。
先生の手はひんやりとしているのに、心地が良い。
そんなことを考えれば、頭がぼんやりとするようでした。
「栄養価が高く、少量でも気分が良くなります。お嬢様のお口に合うのではと」
変わった薬だ、と私はそれを見つめました。最近は、西洋のものがずいぶんとこの国にも持ち込まれていますから、この銀紙に包まれた板もその一つなのでしょう。
先生に言われるがまま銀紙をはがせば、中から包み紙と同じような深い茶色の板が現れ、ふわ、と甘い香りが広がりました。
「チョコレイトウ……」
私はもう一度、その薬の名を呟きました。まじまじと見つめて、どうやって口へ入れるべきかと悩みました。
「小さく割って、一口食べてみてください」
その言葉に従って、私はその板を小さく割り、それからゆっくりと口へ運びました。
先生がくださったものです。毒でも、なんでも、かまいませんでした。
けれどそれは、砂糖菓子のようにとても甘く、今まで食べたどんな菓子よりも濃厚で、舌がピリピリとしてしまうくらいでした。口の中で飴玉のように転がしていると、飴玉よりもうんと早くに溶けてしまいました。
なんと幸せな気持ちになるのでしょう。
頭のぼんやりとしたような感覚や、胸の痛みがずいぶんと引いたような気がしました。
代わりに、ふわふわと夢を見ているような心地でした。
後味は、少しだけ苦くて――先生と一緒に過ごしている時間のすべてが、そこに詰まっているようでした。
「先生、これは……」
言葉をさえぎるようにして、先生は私の髪をそっとすくいました。いつものように、額の温度をはかるのかと思いましたが、やがて先生の体が私の方へ近づいてきて、私の胸がキュ、と締め付けられました。
その時、私は初めて、先生が少しばかり香水をつけていることを知りました。
やけにうるさい鼓動が耳元を通り過ぎたかと思うと、柔らかな感触と、先生のあたたかな体温が額のあたりにありました。
「せん、せい」
私は、先生の顔を見ることが出来ませんでした。
ただ、バクバクと落ち着かない心臓が、全身に血を送ってゆくのを受け止めるので精いっぱいでした。
婚礼まで後半月とはいえ、婚礼前の男女がしていいような行為ではない、ということは分かっていましたし――何より、先生が私のことをそんな風に思ってくれているとはまさか夢にも思いませんでしたから、私はどうして良いのか分からなかったのです。
「名前で、呼んではいただけませんでしょうか」
先生は、いつもの、どこか切なげな瞳で私を見つめましたが、その顔はいつもと違って耳まで真っ赤に染まっておりました。
――あぁ。この方は。
私は、その不治の病の正体に、ただただ驚きを隠せませんでした。
そして、どうやら先生も、私と同じ病にかかっていたようだ、と知って、私は小さく割ったチョコレイトウを先生の方へ差し出しました。
「私のことも、名前で、呼んではいただけませんでしょうか」
先生は、少しだけ驚いたような顔をして、けれど、そっとチョコレイトウを受け取りました。
*
それから、私は毎年その時期になると、飽きもせず先生に尋ねたものでした。
「どうしてあの日、私にチョコレイトウを贈ってくださったのですか」
けれど、先生は柔らかに微笑むばかりで、その答えを教えてはくださりませんでした。
二月十四日が、バレンタインといって、思い人に贈り物を渡す日だということを知ったのは、それからおよそ六十年が経過してからでした。
私は、彼の墓に手を合わせて、あの日々を思い返します。
胸を焦がした不治の病は、チョコレイトウによく似ておりました。
お手に取ってくださった皆様、本当にありがとうございます♪
ハッピーバレンタイン! 皆さまにとって素敵な一日となりますよう、心よりお祈り申し上げます!