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拾ってあげるから、私の犬になりなさい

 話が、長い。動き出せない苛立ちでつい幸太郎は貧乏揺すりをしてしまう。確か今日はいつもよりも早く帰ってくるはずなのだ、彼女は。だから幸太郎はいつも以上に迅速に帰宅しなくてはならない。それだというのに担任はいつまでもぐだぐだと次の期末こそ平均点がどうのこうのと――。


「それじゃあちゃんと勉強もするように」


 担任の最後の「に」の言葉と同時に教室を飛び出した。ここ最近ですっかり慣れてしまった最短ルートで自転車置き場まで走る。鍵をポケットから取り出して解錠すると、スマホに通知が届いた。確認すると「二十分後に到着」と画面にメッセージが表示されている。


「よっしゃ!間に合う!」


 勢いにまかせたまま幸太郎は自転車をこぐ。幸太郎の学校から目的地までは、いつもだいたい十五分もあれば到着する。どうやら今日も無事に間に合うみたいだという安堵もあって、先程までの無駄な焦りは無くなった。

 軽快にペダルを踏んでいると、額から汗が流れる。梅雨もほぼ終わりだ。これからどんどん暑くなる。上がる気温のことを思うと、明日も明後日も自転車ダッシュを繰り返すという未来についてほんの少し憂鬱になる。


(俺、なんでこんなことしてるんだろう……)


 勿論理由があるからこんな疲れることを日々しているわけだが、貴重な高校の青春の一ページを自分は何で埋めようとしているのかと考えると現実逃避の一つくらいしたくなるのだ。

 幸太郎が自分の未来について思いを馳せていると、もう見慣れた目的地の近くだ。

 長く続く塀。塀の隙間からちらちら見える庭園。そして不必要にでかい、門としか表現出来ない入り口。インターホンを押すと名乗らずとも柵が自動で開いた。自転車を押しながら気持ち早足で、整えられた庭園を横目に玄関に向かう。

 いつもの場所に自転車をとめていると、目の端に開いた柵から車がやってきたのが見えた。

 彼女が帰ってきたのだ。

 どうやら今日は本当にギリギリだったらしい。幸太郎は急いで玄関前に待機した。

 車が幸太郎の前で止まると、ドアが開き車内からセーラー服の少女が降りてくる。


「…………おかえりなさい」

「ただいま帰りました。よく間に合ったわね」


 艶やかな黒髪。涼やかな綺麗な顔立ち。素っ気ない声色で彼女は今日もただいまと言った。


「それはもう、犬ですから、走りましたよそれはもう、なんてったって犬ですからね」


 自棄になったかのような幸太郎の発言に、セーラー服の彼女はそれまでの無表情に呆れを滲ませた。


「あなた自転車通学じゃない」

「自転車のペダルを踏むのは俺の足ですよ」

「屁理屈は可愛くないわよタロ」

「揚げ足とるのも品がないですよ、あんたお嬢様でしょう」

「残念ながらお嬢様という生き物はね、建前と揚げ足とりで出来ているの」


 さらりと靴を脱ぎながら彼女が言う。


「最悪です、お嬢様への夢が崩れました。もうちょっとこう、穏やかっていうかおおらかな生き物じゃないんですか?」

「おおらかな子もいるけれど、……あなたお嬢様なんかに夢もっていたの」

「俺の日常では本来会わないはずの人種なので」

「……そう?」


 遊びのような会話をしながら二人は玄関からリビングへ向かう。

 出迎えにやって来たお手伝いさんと一言二言交わすと、主人の義務を果たすように彼女は幸太郎を手招いた。


「今日のお茶請けはフルーツタルトですって、タロも食べてから帰りなさい」

「……いつもどうも」


 幸太郎が毎日放課後自転車を必死にこぐのは、ただ彼女に「おかえりなさい」と言うため。

 ただそれだけだ。それ以外は何もない。

 彼女は幸太郎の家族ではない。恋人というわけでもなければ友達ですらない。

 二人の関係性は、彼女が帰宅したら幸太郎がおかえりなさいと言って、お手伝いさんが毎日用意してくれるおやつを食べたらそれで終わり。それ以外で会うこともない。

 端からすれば相当に奇妙な関係性だが仕方ない。幸太郎にとっては不服な面が多いがそれも仕方ない。彼に決定権など無いのだから仕方ない。


 多賀谷幸太郎は、拾われたのだから。




 二人の出会いは二ヶ月程前のことになる。

 五月。ゴールデンウィーク明け。春というには暑い日に、西園寺菫は人間を拾った。

 その日、敷地から公道に出ようとした瞬間に車が急停車した。驚かせてしまったことを菫に一言謝ると、お待ち下さいとだけ残して運転手はドアを開け車から降りる。

 窓を開け運転手の様子を菫が伺うと、どうやら何かが地面に落ちているらしい。

 運転手が何度か声をかけている所を見ると生き物のようだ。こうも動かないなら猫だろうかと、菫も興味本意で車から降りてそれを見に行った。

 ふてぶてしく猫でも居座っているのだろう。テコでも動かない意思の強い猫はどのような見た目だろうと期待しながら近付いていくと、運転手の吉田が根気強く呼び掛けるそれは全くもって菫の予想外の存在だった。

 学ランを着た恐らく高校生らしき男の子が自宅の前に倒れていたのだ。


「行き倒れって本当に存在するのね」

「人が簡単に行き倒れていたら困りますよお嬢様」


 菫の率直な感想を吉田が否定する。菫も所詮は箱入りのお嬢様なので、簡単に認識がズレかねないのだ。


「けれど吉田さん、それではこの人は行き倒れではないの?」

「………………転んで気絶した人ですかね」


 無理があるなと分かっていながらも吉田は言い切った。


「それを行き倒れというのではないですか?」

「お嬢様ここは比較的安全な日本ですよ、行き倒れなんか本当にめったにないはずなんです。行き倒れる要素がそもそも満たされることがあまりないんですよ。行き倒れに遭遇するなんて宝くじが当たるよりも珍しい確率です」

「宝くじが当たる確率」

「比喩ですので気になさらないで下さい」


 真剣に菫が確率について考えそうだったので吉田は即座に話を打ち切る。


「早くこの子起こして学校へ向かいましょう。お嬢様が遅刻してしまいます」


 先程までは声をかけて起こそうとしていた吉田だがらちが明かないとみて、うつ伏せで倒れる彼の肩を叩いている。しかしそれでも彼は目を覚まさない。


「君。起きて。どこの子ですか。学校は?どうしてこんなところにいるの。起きな……さい…………」


 あまりにも起きない彼を心配に思ったのか、吉田は急に彼の脈を確認している。ほっとした様子をみると生きてはいるようだ。

 生きてはいることを確認したあとも、吉田は目を覚まさせようとするが彼は身動ぎ一つしない。さすがに苛立ち水でもかけてやろうかと思うが、腕時計を確認するとそんな時間すらもう残っていないようだった。このままでは本当に菫が遅刻してしまう。


「起きないですね。仕方ないから警察にでも頼んで保護してもらいましょう」


 車が通れるように、吉田は男の子を柵の内側に入れるため両腕を持って引きずった。顔が大惨事にならないように仰向けにしてやってからだ。男子高校生を抱えるのはさすがに重いし疲れるし、そもそもこんないつまでも起きない奴を丁寧に運んでやるなんて気は更々思わない吉田だ。


「吉田さん……人を引きずるのはどうなんでしょう」

「大丈夫です。男子高校生なんてちょっと手荒に扱っても問題ないです。こいつ頑丈そうですし。そんなことより米山さんに彼の事情説明しますね」


 米山はお手伝いさんの名前だ。吉田はスマホを取り出し、米山に電話をかけようとした。が、それを何か考え込んでいた菫が止める。


「吉田さん、お願いがあるのですが」




 彼が目を覚ますと、見慣れない天井がそこにあった。


「は……?」


 部屋を見渡しても見覚えはない。なるほど。夢だな、と結論づけて幸太郎はもう一眠りすることにした。


「おはようございます。もう夕方ですが」


 幸太郎が目を閉じかけたところで、部屋のドアを閉める音と共に女性の声が聞こえた。


「…………誰?」


 起き上がって声のした方に目を向けると、四十代くらいに見える女性が呆れたように幸太郎に近付いてきた。


「本当にただの寝不足だったんですね。一応診てもらいはしましたが、あんまりにも起きないからやはり何かの病気ではないかと思っていました」

「はあ……、え?診てもらったって医者にですか?どうして?」


 ぽかんとした幸太郎に、すでに呆れていた女性は聞こえるように溜め息をついた後、説明をしてくれた。

 今日の朝、彼がこの家の前に行き倒れていたこと。目を覚まさないので仕方なく、この家の客間で寝かせていたこと。学ランでどこの生徒かは分かるので不審者ではなさそうだったが、念のため学生証の確認はしたこと。あまりにも目を覚まさないので医者に診てもらったこと。そしてこの家のお嬢様が先程帰宅したこと。


「なんか、物凄くご迷惑をかけたようですいません……お嬢様?」

「はい、お嬢様です」

「あの……え?じゃあ、あなたは?お母さん、ですか?」


 母親が娘のことをお嬢様とは言わないだろうと分かっていながらも、幸太郎は聞いてしまった。


「私はこちらのお宅の家政婦をしております、米山と申します」


 家政婦って何だっけ、と幸太郎はつい考えてしまった。家政婦というのは、要するに仕事として家事を代わりにしてくれる人なわけで、サスペンスドラマでうっかり事件を目撃してしまう人だったりするわけで、それじゃあ俺はもしかして今事件に巻き込まれていたりするわけだろうか。そんなしょうもないことをぐるぐると幸太郎は考える。寝ぼけているのもあって頭がきちんと回らない。


「問題ないようでしたら、こちらに。案内しますので着いてきて下さい」

「へあい、…………分かりました」


 自分の顔が赤くなるのが分かる。家政婦について考えていたら「はい」と「へ?」が混ざったのか情けない返事をしてしまった。

 ベッドの脇に置いてあった鞄を掴み、幸太郎は米山の後を追う。

 客間だと米山が言っていた部屋もそうではあったのだが、目に入る端々から高級そうな気配がする。客間に飾られていた絵画。細やかな模様の入った扉。一目だけでは無地に見えるがよく見ると薄く柄になっている壁紙。そして幸太郎が履いているふかふかのスリッパ。

 もしかしてさっき米山が言っていたお嬢様というのは本当にお嬢様のことで、自分はこれから話でしか聞いたことの無いお嬢様という人種に会うのだろうか。迷惑をかけたのは申し訳ないと思いながらも幸太郎は少し浮き足だってしまった。日常ではお目にかからない存在なので、芸能人と会うような感覚になっていたのだ。


「失礼します。目を覚まされましたのでお連れしました」


 米山に連れられ向かったリビングのソファに、セーラー服の女の子が座っていた。


「おはようございます。お身体はもう大丈夫ですか?」

「あ、はい。おはようございます。大丈夫です」


 艶やかな長い黒髪。整った綺麗な顔。品のある所作。理想のようなお嬢様がそこにいた。

 西園寺菫と申します。と名乗ると、彼女は自分の向かいのソファを右手で指した。


「立ち話もなんですし、お座り下さい」

「ありがとうございます。あ、俺。……僕?いや、私か?ええと、とにかく多賀谷幸太郎です。ご迷惑かけたみたいですみません」


 ソファに座ると、米山がお茶を用意してくれたのでお礼を伝える。せっかくなので口をつけ一息ついていると、菫が幸太郎をじっと眺めていた。


「随分寝不足だったようですね」

「あー、まあ、そうですね。バイトしてるんで」

「寝不足で行き倒れる程にアルバイトをしているのですか?」

「今ちょっと忙しいんですよ。でも今だけです」


 この子は一生バイトなんかとは縁がないんだろうなと幸太郎は思い、少し複雑な気持ちになった。しなくてもいいなら幸太郎だってバイトなんてせずに遊びたい。


「アルバイトはいつまで続けるのですか?」

「いつまでって、辞める予定はないですよ」


 きっと小遣い稼ぎのバイトだと思っているのだろう。けれど幸太郎の場合はそうではない。幸太郎はバイトを止めるわけにはいかないのだ。


「親御さんも心配されているのではないですか?」

「西園寺さんの場合は倒れたりしたら相当心配されるでしょうけど、俺のとこはこれくらいじゃ心配なんてしませんよ」


 心配は、まあ知ったらするだろうがバレなければ問題はない。幸太郎が愛想笑いをしていると菫が「そのようですね」と言った。……そのようですね?


「この資料によりますと家族構成は父と妹との三人家族。父親は遠洋漁業の漁師で長期間家を空けるようですね」

「ちょっと、いやちょっと、待って」

「妹さんはあまり身体が丈夫でないようですが、お父様が家にいない間はあなたと二人ということですよね。お父様からそれだけあなたが信頼されているということなのでしょう」

「いや、去年まではばあちゃんがいたから……じゃなくて本当に待てよ資料って何だ」


 二回瞬きすると菫はことりと首を傾ける。


「資料は資料です」

「あんたが手に持ってる紙に俺の家族構成が書かれてるのは分かったよ。どうしてそんなものを持ってるかって話を聞いてるんだよ」

「米山さんに手配して頂いたからですね」


 「手配させて頂きました」と、どこかから米山の声。


「手配って……どこに?」

「興信所ですね、迅速に対応して頂いたようで何よりです」


 何よりじゃねえ!と叫びたい気持ちを幸太郎は必死に押さえる。


「分かった。興信所なのは分かった。でもな、俺が聞きたいのは理由なんだよ理由。何故俺の家族構成を調べたのかを教えてくれよ」

「身元の分からないものを招き入れるのは危険なので、そうさせて頂きました。近隣の高校の制服を着ていましたので不審者ではないだろうとは思ったのですが、憶測で楽観視して何か起きてからでは遅いので」

「お手間とらせてすみませんでした」


 理由が百パーセント自分の落ち度だと気付き、深々と幸太郎は頭を下げた。


「頭をあげて下さい。それでアルバイトについてですが」

「こだわりますね……俺のバイト」

「あなたがアルバイトする理由は妹さんですか?」

「……まあ、それもあります」

「それもとは?」


 曖昧な返答では菫は引き下がってくれないと分かり、幸太郎は腹をくくる。大きく溜め息を一つ吐いてから正直に話し出した。


「妹ですよ。理由」

「つい先程は、それも、とおっしゃっていましたが」

「嘘ですよ、見栄ですよ、本当のことを言いたくなかっただけ」

「不必要な嘘をつくんですね」


 言葉を飲み込むために奥歯を噛みしめた。怒鳴りそうになったからだ。本来なら幸太郎は家庭の事情を誰にも話したりはしない。これまでも、そしてきっとこれからも学校の友達に話す気は一切ない。それを不必要な嘘だなんて言葉で片付けられたくはなかった。


「俺は……西園寺さんと違って、吹けば飛ぶような無力な庶民なので、弱味になりそうなことをぺらぺら他人に喋れないんですよ」

「そうですか」

「……それだけ?」

「はい」


 お嬢様の考えはどうやら自分には分かりそうもない。そもそも価値観が決定的に違うのだろうと、幸太郎は割りきることにした。


「今も入院してるんですよ妹。入院したり退院したりの繰り返しで、親父も頑張って働いてくれてるけど、お金はあるに越したことはない」

「けれど、それであなたが身体を壊しては意味がないのではありませんか?」

「は?」

「あなたが居なくなってしまったら妹さんは一人ですよ。そう考えたことはおありですか?」


 話の雲行きが変わった。まさか幸太郎のアルバイト問題からここまで踏み込んだ話を菫がするとは思わない。


「いやでもだって、一度倒れたくらいで大袈裟だろ。だって俺まだ高校生だし」

「何歳だって倒れる時は倒れるし、死ぬ時は死にますよ」


 淡々とした声色だった。それはただ事実を告げる声だった。


「そうだとして、それがなんかあんたに関係あるのか。ないだろう。今日初めて会った他人だもんな。それとも俺の記憶にはないけど実は親戚だったりするのか?そんなわけないよな。家の前で倒れてたのは俺が悪かったよ。ぐっすり寝かせてくれて感謝してるよ。寝心地の良いふかふかのベッドをありがとうございました。……だけどさ、だからといってそこまで言われる筋合いはないよな」


 突き放すように捲し立てた。どうせ幸太郎と菫が会うことは二度とない。恩人に砂をかけるようなことをしたくはなかったが、言われっぱなしでは気がすまなかったのだ。


「そうですね。今は、私とあなたは他人ですね」


 反応の不可解さに幸太郎が黙ると、菫は一度目を泳がせた。しかし何かを決めたように、しっかりと幸太郎を見据えてこう言った。


「拾ってあげるから、私の犬になりなさい」


 助けを求めるように右を見ると誰もいない。左を見ると、部屋の奥に米山を見つけた。米山は無言でこくりと頷く。助けてはもらえないらしい。幸太郎は菫に視線を戻す。


「…………………………は?」

「聞こえなかったのならもう一度言いますが拾ってあげるから私の犬になりなさいと言いました」


 お嬢様は、やべえ奴だった。と、幸太郎は思った。


「…………意味分かんねえ。なんかの例え?」

「そのままの意味ですよ」

「そのままの意味ならやばいだろ」

「そうですか?」

「だいたい拾ってあげるってなんだよ。倒れたのを助けたって意味なら、あんたもう今の時点で俺を拾ってることになるんじゃないのか?」


 菫は少し驚いたような顔をしながら幸太郎をじっと見つめた。


「なに?」

「いえ……以外と頭の回転が速いなと思いまして」

「それって遠回しに馬鹿だと思ってたって言ってんのか!?」


 怒りのままに幸太郎が立ち上がるとソファが鈍い音を立てた。睨み付ける幸太郎などお構いなしに菫は穏やかに紅茶を口にする。あまりの反応に幸太郎は今度こそ怒鳴りそうになったが、静かにティーカップをソーサーに置いた菫の方が先に話し出した。


「拾ってあげる。とは、資金的援助をしましょうという意味です」

「はあ?」

「妹さんの入院費や治療費を私が手配しましょうと言っています」

「…………どうして」

「人生で一度くらい犬を飼ってみたかったんですけど。私、言葉の通じない生き物は苦手なんです」


 あまりにも理解出来ない言動に足の力が抜けた幸太郎は、ソファに座り込んで頭を抱える。


「金持ちの考えることまじで理解出来ねえ……」

「そうですか?」

「服とか鞄とか買うみたいに気軽に言ってるけど、入院費って安いもんじゃないって分かって言ってるのか?」

「子供の頃から私がお正月に頂くお年玉の額だけでもお教えしましょうか?」

「聞きたくない。話すな」


 人生の格差に頭が痛くなってきた。何か、神様とか、運命とか、形の分からない何かを呪ってしまいたい気持ちだ。

 ふざけるなと一蹴してしまえば話は終わる。変な奴にからかわれたのだと、早く立ち去って忘れてしまえばいい。

 金持ちからの施しなんて最悪だ。人を何だと思ってる。どうせ気まぐれだ。そんなものに振り回されてたまるか。貧乏だと哀れまれるなんて最悪だ。惨めだ。可哀想だなんて絶対に思われたくない。ふざけるな。誰のせいだよ。誰かのせいに、したい。ムカつく。心の底から腹が立つ。ふげけるなと一言口にすればいい。それで菫との縁は切れる。――だけど。だけど、だけど、だけど。

 限界だった。

 病院からの請求書の金額を見るたびに血の気が引いた。

 妹のせいだと恨みそうになった時、自己嫌悪で死にたくなった。

 祖父もいない。祖母もいない。母親は大昔にどこかに行った。父親はいるが、ここにはいない。相談相手がどこにもいない。苦しい。ずっと一人だけ酸素が薄い世界に生きているようだった。

 今、菫からの提案をのめばそれから解放される。

 心臓の奥底でぶちりとプライドを踏みつける音が幸太郎には聞こえた。


「犬に、なるって、具体的にはどうすればいいんだ」

「………………どうしましょう?」

「どうしましょうって、あんたが言い出したんだろ!?あんたやっぱ頭おかしいんじゃっ……」


 痛い。幸太郎の後頭部は誰かに思い切り叩かれた。話している最中だったので舌も噛んだ。とても痛い。


「吉田さん暴力は」

「大丈夫ですお嬢様。男子高校生なんて頑丈に出来ていますので。力いっぱい後頭部を叩かれたくらいじゃ何ともなりません」


 いつの間にか運転手の吉田が幸太郎の背後に立っていた。とてもにこやかに笑っている。


「誰だよこの胡散臭い男」

「お前を丁重に道路から敷地まで運んでやった恩人だよ」

「引きずっていましたが丁重ですか?」

「丁重に引きずってやった恩人だよ」

「引きず……あ!腕とか足とか痛いのあんたのせいかよ!倒れたときにでもぶつけたんだと思ってたのに」


 袖を巻くって確認すると青痣が出来ている。自分のせいだと思っていた痛みが他人のせいだと思ったら、余計に痛いような気がしてきた。


「おっさんのせいで痣になってんだけど」

「うるせえ黙ってお嬢様の話を聞け。あと俺はまだ三十代だからおっさんじゃねえ」

「そのお嬢様がどうしましょうって言い出したからこんなことになってんだろ」


 吉田は幸太郎を無視した。


「お嬢様どうされますか?」

「そうね、それでは……。それでは、私が帰ったら「おかえり」とでも、言ってもらおうかしら」

「なんだそれ」

「飼い主の帰りを待つってとても犬らしいと思いません?」

「そうかよ。……じゃあそれ以外には?それだけってのも変だろ。いやそもそも変なのはこの状況全てだけどな」


 菫は顎に手を当てながら真剣に考え込んでいたが、どうやら何も思い付かないらしい。


「申し訳ないけれどそれ以外は特に希望がないですね。よろしければ多賀谷さんにもし希望があればおっしゃって下さい」

「どうなってんだよ本当」

「なんかないのか駄犬」

「駄犬呼ばわりは止めろおっさん」

「俺はおっさんじゃねえ」


 幸太郎の顔面は吉田に力強く鷲掴みされた。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い」

「吉田さん暴力は」

「しつけですお嬢様。あまりにも駄犬ですので」

「吉田さん駄犬というのはちょっと」

「駄犬としか言いようがないので……ああ、お嬢様そうですよ。呼び方でも決めたらどうですか?」


 名案だとでも言いたげに吉田は幸太郎の頭をべしべしと叩いた。


「呼び方ですか?」

「そうですよ。なんか犬っぽい名前で呼ぶのが良いと思いますよ」


 反論すればまた顔面を掴まれると思った幸太郎は、心の中で「握力ゴリラかよ」と悪態をつきながらも黙って話の成り行きを待った。


「犬っぽい名前……。多賀谷幸太郎。多賀谷幸太郎。多賀谷幸太郎」

「なんで顔赤くしてんだよ駄犬」

「いや、なんか、名前連呼されるの恥ずくね?」

「思春期かよ……」

「高校生は思春期だよ、おっさ………………吉田、さん」


 舌打ちをしながら吉田は幸太郎の顔に向けた手を下ろした。菫は二人のやり取りの間も名前を何度も繰り返している。


「多賀谷幸太郎。多賀谷幸太郎。……決まりました。私はあなたをタロと呼ばせて頂きます」

「お嬢様さすがです。ぴったりな名前ですね。犬っぽいしアホっぽい」

「吉田さんそれは全国のタロと名付けられた犬に失礼ではないでしょうか」


 俺には失礼じゃないのか。という言葉を幸太郎は必死に喉元でとどめる。


「おーけー、分かった。タロな」

「よろしくお願い致します」

「お嬢様に敬語使えタロ」

「………………分かり、まし、た!……俺はあんたのこと何て呼べばいいんだ?ですか?……スミレ?」

「お嬢様とお呼びするに決まってんだろうが馬鹿犬」


 すぱーんと幸太郎の後頭部から良い音がした。


「ばしばし叩くなよ!本当に馬鹿になったらどうすんだよ!」

「吉田さん暴力は」

「申し訳ございませんお嬢様」


 幸太郎の人権はこの場においては守られないらしい。というのが頭をよぎったが即座に、いや俺そもそも犬だった……と一人虚しくなる幸太郎だ。


「そういえばペットは三ヶ月間本来の飼い主が現れなかったら、拾った側がそのまま飼ってもいいそうです。タロの飼い主、もとい保護者の方はいつお帰りになられるのですか?」

「親父?確か七月終わりまでには戻るって言ってたけど」

「そう……それでは一学期が終わるまでを期限にしましょう」

「期限って、何の期限だ」

「タロが私の我儘に振り回される期限です」


 まさか菫からの申し出がたった三ヶ月弱の出来事になるとは思っていなかったので、幸太郎は呆気にとられた。


「俺、てっきりあんたが飽きるまでずっとだと思ってた……」

「そこまで人でなしではありません」


 人生で一番の覚悟で決意したことが、渡されてみれば軽いもので拍子抜けだ。心なしか肩も軽く感じる。


「私は妹さんの入院費治療費を一年分お支払します。自動的に私に請求されるよう手配しますので、何もなさらずとも大丈夫です。あなたは三ヶ月タロとして放課後こちらにいらして下さい。ああ、休日は用がない限り外出しませんので結構です」

「それ、……釣り合ってないよな」

「釣り合ってない、とは?」

「俺に都合が良すぎないか、だって、一年分って、なのに三ヶ月って、それは、いくらなんでもさ、ああ、いや、俺は、俺からすれば、ありがたいけどさ、でも、でもあんたはそれで本当にいいのか?」


 菫はぽそりと何かを口にしたが、小さすぎて幸太郎には聞き取れなかった。


「なんだ?言いたいことがあるなら言えよ。やっぱ三ヶ月じゃなくて一年にするとかか?」

「……いえ、期限は変えません」

「あんたがそれでいいなら、いいけどさ。……いや、でも」

「それでは条件を付けましょう。あなたが一度でも私が帰宅するまでに間に合わなかったら、犬失格ということで費用の援助も何もかも全て終わり。というのはどうでしょうか」

「いいじゃん。やってやるよ」


 こうして多賀谷幸太郎は西園寺菫の犬になった。




 多賀谷幸太郎と西園寺菫のそれからの日々は、とても静かに過ぎていった。

 犬になりなさい。と、最初に言った以外には菫がめちゃくちゃなことを言い出すことは一度もなかった。

 毎日のアルバイトで削られていた睡眠もまともに取れるようになり、幸太郎はそれまでよりもむしろ健康になったくらいだ。

 もともと幸太郎は放課後すぐにアルバイトに向かう生活をしていたから、前よりも少し慌ただしく学校を出るようになったくらいで、同級生からは相変わらずよく働いてるなとしか思われていない。

 時折、間に合うかギリギリで息も絶え絶えになりながら「おかえりなさい」と言う日もあったが、それくらいだ。吉田のフォローのおかげもあって、一度も遅れることはなかった。

 月曜日が来て、火曜日が来て、水曜日が来て、木曜日が来て、金曜日が来て、土日を挟み、そしてまた月曜日が来る。その日々をただ繰り返した。何回も何回も「おかえりなさい」と「ただいま帰りました」を繰り返した。

 特別に二人が仲良くなるということもない。ただ淡々と一日一日を積み重ねた。それは静かにそれは穏やかにそれは優しく積み重なっていった。

 それは多分もしかしたら、幸せともいえるような穏やかな日々だった。

 菫と出会う前の、自分が徐々に削られていく日々は異常だったということに幸太郎はやっと気付いた。

 それぞれの一日を過ごし、夕方にお茶をしながらぽつりぽつりとお互いの話をたまに交わす。二人ともそこまで饒舌な方ではないので、会話しているよりも沈黙の時間の方が多かったが、その静かさは嫌なものではなかった。

 嫌なものではなかった、のだ。嫌なものではなくなったのだ、いつの間にか。

 幸太郎はいつの間にかこの時間が終わる日を、惜しいと思うようになった。


「お兄ちゃん彼女出来た?」


 どさりと、妹の着替えを詰めた鞄が床に落ちた。動揺のような何かを隠すように幸太郎は鞄をゆっくり拾い上げ、ベッドの隣にある椅子に座る。


「……出来てませんけど」

「何で敬語」

「いやなんか、なんかなんとなく」

「それで彼女は」

「いない。どうしてそんなこと急に思ったんだ」


 妹の美幸は、にやにやと笑いをこらえるようにしている。


「お兄ちゃん優しくなったから」

「俺はもともと優しいだろうが」


 髪の毛をぐちゃぐちゃにするように頭を撫でると、「やめてよ」と美幸から抗議の声が上がる。


「もう!髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃん」

「ごめんごめん」


 子供の頃ねだられて髪の毛を結んでやっていた日のように、幸太郎は美幸の髪の毛を丁寧に手で梳いた。

 中学生になってからはそうされることに気恥ずかしさがあるのか、少しむすっとした表情をしているが、口元が緩んでいるので嫌なわけではないらしい。


「やっぱ前よりも優しいよ」

「そうか?」

「うん。なんか、前は、ちょっとピリピリしてた」

「……ごめんな」


 今なら分かる。学校とアルバイトとお見舞いの毎日に幸太郎は窒息しそうになっていた。当然、妹への態度だってどんどん雑になっていたのだ。


「私のせいでお兄ちゃんの時間を使わせてごめんね」

「違う!……違う。お前のせいじゃない、誰のせいでもない、俺が、ただ」

「うん。誰のせいでもないね。だからお兄ちゃんもごめんなんて言わないで」


 じわりと感情が目元から滲み出そうになった。妹の前では絶対に情けないところを見せたくないという一心でそれを堪えた。

 美幸は小さくて、細くて、笑っていた次の日にすら会えなくなるんじゃないかと思うほどに、身体が弱くて。守ってやりたくて、大事にしたくて、でも疎ましく思う日もあって、でも可愛くて、子供で、だから、自分ばかりが守っているのだと思っていた。――それなのに。


「美幸、お前、大きくなったなあ」

「お父さんみたいなこと言わないでよ、お兄ちゃん」

「中学生だもんな、そうだよな」

「お兄ちゃん、だから……」


 美幸が自分の目元を見ていることに気付いて、幸太郎は椅子から立ち上がって背中を向けた。


「ちょっと、あれだ、あれ、俺トイレ行ってくるわ」

「じゃあ戻ってくるとき売店行って飲み物買ってきてよ」


 涙が収まるまで戻らなくていいための、遅くなっても構わない遠回しの理由をくれる。なんて察しのいい妹だろう。

 病室から出ると情けないと思いながら鼻をすすった幸太郎だが、不思議と胸は軽かった。




 プリントをぼんやりと眺める。が、内容はちっとも頭に入ってこない。高校二年生の夏。本来なら受験も就職も関係ない最後の夏休みを誰もが喜ぶものだ。そういう空気がホームルーム前の教室には漂っている。


(付き合いたいとか、そういうんじゃないんだよな……)


 菫に対する自分の感情を幸太郎はもて余していた。友達でもない、付き合いたいわけでもない、嫌いではない知り合い。飼い主と犬。というには、あまりにも自由すぎる関係性。

 嫌いではない。けれど好きかと問われれば分からないと答えるしかない。奇妙な関係性で繋がりながらも、どこまでも知り合い以上の関係性ではない。

 菫が何を考えているのかも、いまだに分からないままだ。

 聞こうとした日は何度もあった。けれど訪ねられないまま毎回終わった。多分、聞けば、終わってしまうのだろうと漠然とした予感があった。


(だけどどうせ、今日が最後だ)


 聞いてしまおう。全部。菫と会うことはきっと今後ないのだから。

 菫のことは嫌いではないから、ほんの少し惜しいと思うが、そもそも出会うはずのない二人だったのだ。戻るだけだと思えばそこまで嘆くほどのことではない。


「幸太郎!幸太郎は夏休みもバイトばっかか?」


 後ろの席の松本に背中を叩かれ振り返ると、夏休みが楽しみで仕方ないという笑顔が幸太郎に向けられた。


「あー、まあ、多分」


 菫との約束は今日までだ。アルバイトはもう辞めてはいたのだが、夏休みくらい短期で何かやってもいいだろう。


「皆で花火行こうって話してんだけどさ、一日くらい遊ばね?」

「……そうだな」

「まじ!?おい幸太郎来るって!」


 「まじで?」「珍しいじゃん」「え、俺も行こ」「幸太郎来んの?」「俺たこ焼き食いたい」「俺はお好み焼きがいい」とわらわらとクラスメイトが幸太郎の机周りに集まってきた。


「奢らねえよ!」

「自分の食い物は自分で買うに決まってんだろ」


 お好み焼きがいいと言っていた細山が、腕を組んで誇らしげにしている。どうやらそういう主義らしい。


「え?じゃあ何でお前ら集まってきたの?」

「幸太郎が行くって言うから」

「な、え、なに、お前ら……気持ちわる」


 幸太郎は出来るだけ周りのクラスメイトから距離を取ろうとした。


「おい気持ち悪いはやめろ」

「すまん。いやでも俺それはちょっと男より女子から言われたかった……」

「幸太郎中学の時は彼女いたじゃん」

「一週間で振られたやつな」


 中学も一緒だった松本が、幸太郎よりも先に答えて笑っている。


「こいつなんだかんだ女子に優しいからそこそこモテるんだよな。妹のおかげ?」

「妹がいる人生なのを両親に感謝しろ。俺だって妹欲しかった。そしてモテたかった」

「そんないいもんじゃねえよ妹も。人間扱いされない兄がここにいる」

「来世にでも期待しとけ」


 話は脱線しまくっているが、誰も気にしていない。


「いや本当になんなんだよ、いつもはそんな……」

「こう見えてもさあ、気を遣ってたのよ俺ら」


 後ろの席で頬杖をつきながら、松本が珍しく真面目な顔をする。


「幸太郎、すぐ帰るのは変わんないけど最近は余裕ありそうだし。じゃあ一日くらい遊べんじゃん?って。せっかくの高二の夏休みだろ?一緒に遊べるなら遊びたいじゃん」


 そう言って、にかりと笑った松本は控えめに言っても良い男で、自分の格好悪さに幸太郎は気付いてしまった。

 相談相手がどこにもいないとか、自分ばかりが妹を守ってると思ったりとか、友達に自分の事情は隠せてると思い込んでたりとか、俺はなんて傲慢で恥ずかしい奴だろう。格好悪い。格好悪いなあ俺。


「お?泣くか?」

「泣くのか?泣いちゃうのか?」

「写真撮ってやるよ」

「記念記念」


 撮るなと言って松本のスマホを奪うと、どいつもこいつも馬鹿みたいに笑って、幸太郎も久しぶりに腹が痛くなるまで笑った。




 ホームルームが終わっていつも通り迅速に自転車置き場まで向かう。これで最後かと思うと少し感慨深くなった。

 あの日、菫と会った日。倒れる前に幸太郎が思っていたのは、眠いと疲れた。これだけだった。学校バイト学校バイトの繰り返しに重ねて、その日は登校中に自転車がパンクした。もう自分の人生はこれから先ずっと不幸なんじゃないかと、下を向きながらずるずると歩いていた。――それがまさか。


(人生ってわかんねえもんだな)


 妹は笑ってるし、友達と遊びにも行く、幸太郎は今自分のことを不幸だなんて思えない。

 それを幸太郎にくれたのは、どう考えても菫で、だから幸太郎はこれから先少しずつでも菫にお金を返していこうと思っている。今すぐは無理だけれど、高校を卒業して、就職して、大人になってからでも返していこうと。そうしないと幸太郎と菫が対等になる日は来ないのだ。

 幸太郎は今日で菫との関係を、おしまいにする気はもうない。

 やべえ奴だと思った変なお嬢様だったが、幸太郎にとっては恩人だ。感謝しているし、菫の隣は、まあ、そこそこ居心地も良い。だから菫も望んでくれるなら、たまに会うくらいはしたいと思う。


「おかえりなさい」

「ただいま帰りました」


 じりじりと太陽に照らされながらも菫は涼やかに帰宅する。


「今日はレモンタルトだそうですよ」

「さっぱりしてよさそうね」


 幸太郎の菫に対する敬語もここ三ヶ月の間にすっかり板についた。逆に菫はいつの間にか敬語を使わずに話せるようになっていた。

 基本的に菫は誰に対しても敬語で話すのだが、最初の頃に幸太郎から敬語で話すのは飼い主としておかしいと言われてから変えたのだ。


「米山さん、ありがとう。今日は席を外してもらえるかしら」

「かしこまりました」

「吉田さんも覗くのは止めて下さいね」


 棚で死角になっていた場所から吉田がしぶしぶ現れる。


「かしこまりましたお嬢様。おいタロ、お嬢様に変なことするなよ」

「するわけねえだろ」


 話し出せば言い合いをよくしている二人だが、ある意味とても仲が良いともいえる。最初とは違って気安さからくる憎まれ口だ。これも三ヶ月の間に変わったことの一つ。


「顔色、良くなったわね」

「……顔色?」

「初めて会った日のタロは、これはもしかして死んでいるのかしらってくらいに顔色が悪いし、目の隈がひどかったのよ」


 菫はあんなにも疲れ果てた同世代を見るのは始めてだった。菫の通っている高校はエスカレーター式の女学院で、基本的に実家が裕福な生徒が多い。校則でアルバイトも禁止されているし、そもそもアルバイトをしようと考える生徒がほぼいない。


「放っておいたらこのままここで死んでしまうのではないかと思ったの」

「もしかしてそれが俺を拾った理由ですか?」

「……さあ、どうでしょうね」


 優雅な仕草で菫はレモンタルトを一口サイズにし、口に入れる。


「理由くらい教えてくれてもいいんじゃないですか」

「美味しいわね、このレモンタルト。タロも話していないで食べるといいわ」


 どうやら話す気はないらしい。けれど幸太郎だって簡単に引き下がるつもりもない。


「妹。明日、退院します」

「それは良かった」

「父親。来週帰ってきます」

「それも良かった。これからのことよく話し合うといいわ」


 他人事だ。いや他人事なのだが、入院費を工面しているとは思えないくらいにあっさりとしている。


「俺は感謝してますよ。お嬢様のおかげで助かった」

「あなたあの日は私のこと頭おかしいって言っていたわね」

「それは、まあ、俺も混乱していたというか、だってするでしょう。いきなり犬になりなさいとか言われたら」

「そうね」

「人生で一番の衝撃発言でしたからね、あれ」

「そう。それなら良かった」


 菫の返答に何かが少し引っかかった気がしたが、幸太郎は説得を続けた。


「お嬢様に肩代わりしてもらった入院費ですけど、今は無理ですけど、いつかは返したいと思ってます」

「………………そんなことしなくていいわ」

「返します」

「いりません」

「返したいんです」

「別のことに使いなさい」

「返させて下さい」

「タロいい加減にして」


 ぴしゃりと菫は強く拒絶した。


「俺は、……これからだってお嬢様とたまに話すくらいはしたいんですよ。でもそれには負い目がある。だってやっぱり釣り合ってない。俺ばっか貰ってばかりだ」

「……え?」

「だってそうでしょう。俺がお嬢様に返せたことなんて、ただ玄関で待っておかえりなさいって言っただけですよ。それと一年分の入院費なんてちっとも釣り合ってない」

「そうではなくて……これからって……」


 菫がこれほどまでに動揺しているのを幸太郎は初めて見た。


「タロ、あなた、まさか明日からも私と会う気だったの……?」

「いやこれまでみたく毎日ではないですけど、たまにならって思ったんですが……お嬢様まさか今日で、はい、さようなら。だとか考えてただなんて言わないですよね?」


 凝視する幸太郎から菫は目をそらした、その動作が全てを説明している。


「ひっでえ!三ヶ月とはいえ週五で会ってた相手をそんな簡単に切り捨てますか?」

「切り捨てたわけではないわよ」

「じゃあ、何でですか」


 レモンタルトを一口。そして紅茶を流し込んでから菫はやっと幸太郎に目を向けた。


「だってタロ本当は不本意だったでしょう」

「何が」

「犬になるなんて嫌だったでしょう」

「それは、……まあ、そうでしたけど」

「不本意なことを押し付けてきた女となんて、もう会いたくないって思うのが当たり前ではない?」


 当たり前の顔をして菫が言うので、幸太郎はだんだん腹が立ってきた。

 最初は、確かにそうだった。菫は意味の分からないことを言うし、吉田は幸太郎の後頭部を容赦なく叩くし、金持ちの道楽に付き合わされて最悪だと思っていた。けれどそれは最初の話だ。

 菫は幸太郎に何かを強要するようなことはその後一度もなかった。吉田だって幸太郎が間に合うようにいつも到着時間を連絡したりフォローしてくれていた。米山の用意してくれるお茶もお菓子もいつも美味しかった。

 だから始まりだけを見て、二度と会いたくないと幸太郎が思うはずはないのだ。それなのに、菫はそれを全て無視するようなことを言う。

 幸太郎と菫がこれまで過ごしてきた時間を、悪くはないと思っていたのは自分だけだったのかと虚しさも覚えた。


「俺は、会いたいですけどね。さっきも言いましたけど、俺はこれからもお嬢様に会いたいと思ってます」

「無理しなくてもいいのよ。それにちゃんと妹さんの治療費は一年分ちゃんと私に請求されるわ」

「そうじゃない」

「タロ、どうしたの?」

「あんたは、少しもそうは思ってくれなかったんですかね」

「分からないわ。……私、タロの言いたいことがちっとも分からない」


 本当に困っているような菫に、幸太郎はもう何と言えばいいのか分からなくなってきた。


「ならせめて教えて下さい。だっておかしいじゃないですか。俺がこの三ヶ月見てきた西園寺菫は、初対面の相手に犬になれなんてめちゃくちゃなことを言う人間じゃない」


 幸太郎がこれまで見てきた西園寺菫は、生粋のお嬢様で、表情は少し薄いが情はある人間だ。我儘なんて一度も聞いたことはないし、むしろ吉田の幸太郎への仕打ちはいつも止めに入る。常識人のはずだ。あの一言だけが異質だった。


「もう会わないっていうなら、せめてそれくらい教えろよ」


 うなだれるようにそうこぼした幸太郎を見て、それでも躊躇はしていたが菫はやっと口を開いた。


「あなたなら、泣いてくれそうだと思ったの」

「…………は?」

「いつかどこかで私が死んだって知ったら、あなたなら泣いてくれそうだと思ったの」


 想像もしていない理由だった。


「私のために泣いてくれる人を探していたの」

「あんたのために泣く人間はもういるだろう」

「……どうでしょうね」


 冷めた目をした後、菫は薄く微笑んだ。


「タロは、私が死んだら泣いてくれるでしょ」

「……どうだろうな」

「泣くわよ。泣くわ。泣いてくれる、私には分かる」

「そんなのその時にならないと分かんねえよ。……それでそれがどうして犬になれに繋がるんですか」

「だって私いつ死ぬか分からないもの。健康だしずっと先のことになるかもしれない。けれど犬になれなんて言う頭のおかしい女のことは、中々忘れられないでしょう?」


 菫が冗談ではなくずっと本心で話していることに、幸太郎はやっと気付いた。


「馬鹿だろ」

「期末テストは学年一位よ」

「そういう馬鹿じゃねえよ、馬鹿」

「私は馬鹿ではありません」

「馬鹿じゃなかったらズレてんだよ。馬鹿だろ、なんでそんなことで、」

「私にとってはそんなことではないからよ」


 リビングの時計の針の音が聞こえる。それくらいの沈黙が二人の間に流れた。


「……タロと会うのも今日限りになることですし、振り回したお詫びに少し話しましょうか」

「話?」

「だって、納得しないとタロ明日からもここに来てしまいそうなんだもの。それに、私はあなたのことを知っているけど、あなたは私のことを知らないからフェアじゃないかなとさっき思って」

「そうかよ」


 顔に出さないようにはしていたが、菫の今日限りという言葉に幸太郎は傷付いていた。




 西園寺菫の人生の話をしよう。

 子供の頃から西園寺菫はいつでも一人だった。これは一人ぼっちだったという意味ではない。西園寺家はお手伝いさんを雇っているし、それ以外にも使用人がいるので家に人はいた。

 だから正しく言うのなら心理的な意味で、西園寺菫はいつでも一人だった。

 祖父も祖母も母親も父親も彼女にはいる。でも、いるだけだ。

 朝、目を覚ませば両親はすでに出社している。

 夜、菫が眠るまでに両親は帰ってこない。

 物心つく頃からずっとそんな調子だ。

 挨拶もしない、食事も別、休日もたまにしかいない。いたとしても会話がない。会話したとしても、成績か進路の話だ。

 祖父母が住んでいるのは別邸で、頻繁に会うこともなかった。それに菫の祖父母は世の一般的な祖父母とは違って、孫を溺愛するタイプの人達ではなかった。

 だから西園寺菫は家族の愛を知らない。無償の愛など、この世にはないと思っていた。

 友達もいなかった。出来なかった。

 西園寺家は、華族の流れをくむ家柄だが昭和初期に事業を始め成功した歴史のある家系だ。無駄に箔のある家に産まれると、それだけでレッテルが貼られる。

 明確な格差の前では、純粋な友達は菫に出来なかった。

 もしも菫がもう少し子供らしく言葉や態度の裏を読めず、単純であればそれは出来たのかもしれない。けれど菫の立場がそれを許さなかった、菫はなるべくして今の菫になったのだ。

 西園寺菫が小学三年生の秋、曾祖父が亡くなった。お通夜も葬式も両親と参列した。菫は身内の式はそれが初めてだった。広い会場にひしめく喪服の人々。はばかりながらも囁かれる声。

 曾祖父の葬式では、涙を流す人は一人もいなかった。

 その時は、まだ、分かっていなかった。それがどれほど乾燥した葬儀であったのか。けれど成長するにつれ、心に引っ掛かりを覚えるようになった。

 その刺はいつしか菫の内側で成長して、中学生になり高校生になった今では明確なものとして存在している。

 ――あれだけは、嫌だ。と。

 誰かに自分のために心から泣いてほしい。一人でいい。たった一人が泣いてくれるだけで、菫は。

 子供の頃から一人で過ごしていた菫は、家族と会わなくても友達がいなくても淋しいと思うことはなかった。それまでの菫の人生に淋しいは存在していなかった。けれど曾祖父の葬式をきっかけに次第に生まれた。

 淋しいを知ってしまった。

 自分の隣を見ればいつだって誰もいない。自分から望むこともなかったのだから当たり前だ。曾祖父と同じだ、私も、きっといない。

 嫌だと強烈に思った。せめて、せめてと思う。せめて一人。一人でいい。一人だけでいい。せめて。せめて。一人。だって、だって、最後に誰も泣いてくれない人生の何て惨めなことだろう。

 菫は、淋しい人間になりたくなかった。


「そこで見つけたのがあなた」

「…………うん」


 幸太郎は、ただ静かに菫の話を聞いていた。


「家の前に倒れていた日のことじゃないわよ」

「え?」

「まあ、あなたが知ってるわけないわ。一方的に私が見かけただけだもの」


 それは、去年の冬の話。


「横断歩道から飛び出した子供を助けたことは覚えている?」

「子供……あ、ああ、そういえば」

「私、あの時対抗車線の車にいたのよ」


 横断歩道を渡った後に、子供が急に戻っていった。どうやら何か落とし物をしたようで、それ目がけて真っ直ぐに走っていった。タイミングの悪いことに子供が走り出したと同時に信号は赤に変わっていた。


「あれは、まあ、間に合って良かったよ。あの子も膝擦りむいたくらいだったし」

「あなた泣きながら怒っていたわ」


 急に方向転換して走り出した子供に驚いて目で追うと、赤信号に突っ込んでいったのだ。幸太郎は咄嗟に追いかけ歩道側に子供を引き寄せた。


「見てたのかよ!」

「だから見かけたって最初から言ってるでしょう」

「……あの日は、美幸が、ちょっとよくなくて、病院に行った帰り道で、それで、もし助けられてなかったら、腕の中の、この、ちっさい子死んでたかもって思ったら、その」

「子供が泣く暇もないくらいあなたが泣いてたわね」


 子供が無事なのを見てほっとしたのもつかの間、幸太郎はボロボロと大粒の涙を溢しながら「気をつけろ」「怪我はないか」「信号はちゃんと見て渡れ」「本当に危なかったんだぞ」と子供に説教を始めたのだ。

 菫は車の窓を開けてその様子を見ていたが、子供の無事を確認した吉田によってすぐに車は動き出してしまった。


「ああ、まあ、まあそうですね」

「だから、この人、いいかもなって思ったの」


 知り合いではなさそうだった。縁もゆかりもない子供のために、本気で泣いて怒る彼。

 衝撃だった。

 これまでの菫の人生にはいない人間だった。


「私のために泣いてくれるなら、この人が良いって思ったの」


 菫が出会っていないだけで幸太郎のような人は他にもいることは分かっていた。でも、彼が良いと思ったのだ。

 この人にいつか私のために泣いてほしいと。


「家の前であなたが倒れてるのを見た時は本当に驚いた」

「偶然だよな?」

「偶然に決まっているでしょう。私あなたの名前も知らなかったもの」

「それで、俺にいつか泣いてもらうためにこんなこと始めたのか」

「……ええ」


 もうこんなチャンスが来ることはないと思った。菫の人生はもう決まっていて、その中で出会う相手もだいたい予想がつくのだ。


「馬鹿だろ」

「私は馬鹿ではありません」

「馬鹿だよ馬鹿すげえ馬鹿だ」

「ですから、私は……」


 この時の、菫の気持ちは、きっと他の誰にも分からない。


「あの、ええと、泣くのがちょっと早いわ」

「そうかよ」

「私、あの、お葬式の時にでも泣いてくれれば、それだけで良かったのよ」

「うるせえ馬鹿」


 一人でいいから誰かに泣いてほしいなんて、そんな些細な願いを幸太郎は考えたこともなかった。だってそんなの願わなくたって、叶う。

 菫に一人だと思わせた周りの人間にもムカつくけば、一人だと思い込んでいる菫にもムカつく。

 けれど、何より、菫が淋しいを分かっていないことが無性に悲しくて仕方なかった。

 葬式がどうのじゃない。今、生きているお前が、淋しいのだろうと、どうすればこの頑固な女に伝わるのだろう。


「菫」

「……はい」

「吉田さんとか、米山さんとか、年齢の問題は、まあ置いといて。もしもお前が死んだら泣く人間はいただろう」

「そうかもしれないわね。……確かに吉田さんも米山さんも私によくしてくれる。でも、所詮は勤め先の娘というだけよ」


 菫の返答を聞いても幸太郎は驚かなかった。どうせそう思っているんだろうなと予想していたのだ。


「だからあんたは俺のこと手放そうとしてるの?」

「そう、なのかしらね……」

「分かってねえんだ。いつも理性的なお嬢様のくせに珍しいな」

「だって、いつまでもあなたの時間を奪うのは悪いし、これだけインパクトのあることをすれば、これからも忘れられなさそうだし、あなたはきっとそれでも泣いてくれそうだし」

「菫は多分勘違いしてると思うけど、俺、そこまで優しい人間じゃねえよ」


 ここ最近涙もろくなってしまっていたが、もともと幸太郎はそんなに泣き虫というわけではないのだ。


「でも今あなた」

「俺は菫が思っているより菫のことが好きだよ」


 ぽかんと菫が何を言われたのか分からないように固まっている。


「ちょっと知り合いくらいの相手のために泣くほど、俺はお人好しじゃない」


 幸太郎は立ち上がると菫の座るソファの隣にしゃがみこんだ。

 俯く菫の顔を下から覗きこむと、菫は迷子の子供のような顔をしていた。


「明日からは他人です、みたいなこと言うな。淋しいだろう」

「でも、だけど、それだと」


 菫は最初から三ヶ月で終わらせることを前提に全てを始めた。幸太郎とはもう二度と会わないと思っていたから人生で初めて我儘を言えたのだ。


「ならいっそ最初からやり直せばいいだろう」


 もうこれしかないだろうと幸太郎は菫に手を差し出した。何を言っても菫は納得しないのだから仕方ない。


「はじめまして、多賀谷幸太郎です」


 幸太郎が差し出した手を、おそるおそる菫が取る。


「………………はじめまして、西園寺菫です」


 幸太郎は息を吸い込んだ、言葉に力が宿るように。


「西園寺菫さん、俺と友達になって下さい」


 じわりと喜びが滲んだように彼女の表情が笑顔に変わった。それは、幸太郎が初めて見た菫の心からの笑顔だった。


「はい」


 彼女のその笑顔を見て、幸太郎は友達と言ってしまったことをほんの少し間違えたかなと思った。けれど彼が自分の発言を大いに後悔するのは、今はまだ先の話。

 これは、拾われた男の子と拾った女の子がただ友達になるために遠い回り道をする話だ。

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