救急隊員から連絡がかかってくる回
―――大人になるにつれて、自分の人生に意見をくれる人は どんどん少なくなっていきます。
そんな人たちを大切にして。だけど、自分でしっかり判断することを忘れないで。
この3年間、みんなにアドバイスができる立場にいられて、幸せでした。
胸に刻まれた言葉を、何度も何度も繰り返す。
「宮下先生!」
げ。と思った。一体どこの学年のどこのクラスの誰だろう。だけど違和感にすぐに気づいた。声が低すぎやしないか。いや、中3か?恐る恐る振り返ると、よく知った、だけど懐かしい顔が見えて、知らない間に名前を口にしていた。
「…………晴斗?」
「おーー、さすが先生!」
俺たちへの愛は本物だったんですね。懐かしい声の主はそう言った。目の前にいたのは、私がかつて担任した生徒。忘れるわけがない、彼は正道晴斗。中学一年生から三年生までの3年間すべてを担任することになった、唯一の生徒だった。
「久しぶりです。先生、今は東京で勤務されてるって聞いてたけど、会えるって思ってなかったす!」
「久しぶりだね!なに晴斗、東京に来てたの?知らなかった」
晴斗が卒業するまでの3年間は、私は講師として地方で働いていた。それからようやく正規教員として東京で採用されたから、まさか当時の子達とこうして会うことがあるなんて思っていなかったけど、そうか。この子たちは、もう大学生の歳なんだ。こうして県外に出ている子もたくさんいるだろう。
「宮下先生に会えたって言ったら、3組のやつら絶対羨ましがりますよ。先生、いつのまにか受かって東京行くんすもん」
「ごめんて。でも、先生も会えてよかったよ。今、大学生だよねえ。2年生?どこの大学行ったの」
晴斗はなかなか賢い子だったはずだ。県外に行っていても不思議ではない。大学名を聞くと、日本人なら誰でも知っている私立の名門だった。
「晴斗…知ってたけどすごいね。先生嬉しいよ…」
「はは、先生のオーバーリアクション懐かしすぎ。あ、あと、憲人と七香もこっちいますよ」
「あ、そうなの?会いたいなあ、次会えるのなんて成人式だと思ってたから」
「七香とかカレンとか、あの辺めっちゃ落ち着きましたよ。あんな頭悪かったのに」
「そんなこと言わない…」
次々に出てくる懐かしい名前に、自然と顔はほころぶ。何年経っても、その代の子に会えば忘れていたことも思い出すものだ。昔話に花が咲き始めて我を忘れ、つい立ち話しすぎてしまった。晴斗はきょろきょろと辺りを見渡すと、コーヒーショップを指さした。
「先生暇ですか?あそこにスタバが見えますけど」
「奢れってことだよねそれ。確かに卒業式で言ったけどさあ」
次に会ったら先生がおごるからお茶でもしようね。泣きながら卒業生たちに約束したことを確かに覚えているし、晴斗はどうしたって思い入れの強かった生徒に入る。…話したくないわけではない、が。
「私も晴斗には色々聞きたいけど、また今度にしよ。憲人も七香もいるんだったら、みんなで会おうよ」
「えー。それ絶対成人式まで会わないやつ…じゃあ連絡先教えてくださいよ」
晴斗はもう携帯を出している。かなり残念そうな顔をしている晴斗を見ると居た堪れなかったが、卒業生とはいえ、やっぱり彼は生徒だ。二人きりで話す気にはなれなかった。でもその代わりに、私も携帯電話を出す。
「いいよ」
「え、嘘!」
「卒業生だし、もう大学生だもんねー。大人同士だよ」
卒業したての子たちに連絡先なんて教えない。もちろん教えている人もいるし悪いわけではないし、当の私も「大学生にもなるともういいかな」という、なんとも曖昧な基準である。晴斗は私が了承すると思っていなかったようで、かなり嬉しそうにしている。晴斗に連絡先が渡ったということは、少なくとも中3のときのクラスには私の連絡先は知られることになるかもしれない。成人式には少し早かったが、まあいいだろう。
「ていうか、先生ってもう30くらいですよね?変わらなさすぎてちょっと怖いです」
「教員って不思議と変わらない人が多いからね。私だけの話じゃないと思うよ」
毎日最低でも30人の人間に見られ続ける仕事なんて、なかなか無い。そのせいか、この仕事をしている人間は年齢不詳の者が多い、と思う。若さを吸い取っているだの、そもそも社会人としての苦労をしていないからだのという悲しい説もあるが。
「じゃあ先生、また連絡するんで!」
「はいはーい。単位落としちゃだめだよー」
晴斗はあの頃と変わらない笑顔で、大きく手を振って去っていった。まさか東京に来ているとは思わなかった。元気そうなその姿に、心から、会えてよかったと思った。
「また連絡するんで」。その時は、思った以上に早く訪れることになる。
「…お?」
それは土曜の部活指導終わりだった。つい数日前、連絡先を交換した晴斗から着信が来たのだ。もう飲み会の約束か、いやいや、こいつらの中にはまだぎりぎり10代がいるはずだ。飲みましょうだったらお茶会に変えないと、などと思いながら電話に出る。しかし声の主は、晴斗より数段声の低い男性だった。
『もしもし。宮下めぐ様の携帯電話でお間違いないでしょうか』
「えっ。あ、はい。そうですが…」
何やら電話の向こうが騒がしい。不穏な空気を感じ取り、冷静に対応をする。
『突然申し訳ありません。正道晴斗くんとはどういったご関係でいらっしゃいますか?』
「…中学校時代の担任ですが…あの、彼が何か…」
荒れた学年を受け持った時にかかってくる警察からの電話に雰囲気が似ていて胸がきゅっとなる。しかし電話の主は焦ってはいるが、こちらを責めるような声色ではなかった。嫌な予感は消えない。
『ありがとうございます。お待ちください。……はい、本人の言っていた通りです。
……宮下様、突然で驚かれると思うのですが、正道晴斗くんが交通事故に遭いました。意識不明の重体で、救急車に乗っています』
「え!?」
駅前ですれ違う人たちがこちらを見るくらいの大声を出してしまった。晴斗が、事故。意識不明…ぐらりと地面が揺れる感覚がして、ぐっと足に力を入れて堪える。今度は、倒れなかった。
おそらく飲酒運転のトラックに突っ込まれ、自転車に乗っていた晴斗は強く体を打った。事故直後は意識があったらしく、救急車を呼んでくれた人に「家の人の連絡先は言えるか」と聞かれたときに、晴斗が見せたのが私の連絡先だったそうだ。混乱する頭で救急隊員の説明を聞きながら、搬送先の病院名を聞いた。行かなくては。電話を切り、水を一口飲んで深呼吸をする。駅前でタクシーを捕まえ、病院の住所を告げた。
病院に着くと、すぐに医師のいる部屋に通された。50代くらいの男性医師だった。
「宮下さんですね。お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ、あの、晴斗くんは…」
「一命は取り留めました。意識は戻っていませんが、命に別状はなさそうです」
「そうですか。よかった…」
こんなに安心したことは今までにないかもしれない。大きな大きなため息をついた。
「…あの。もうご存じだと思いますが、晴斗くんは、ご両親が存命ではないんです。私が担任だった頃はお祖母様の家にいたのですが…もしかしてもう」
私の連絡先を伝えたということはそういうことだと思ってはいたが、やはりそのようだった。あのおばあさんもいないということは、今の晴斗は本当に身寄りがないということか。晴斗の生活状況も心配になったが、それよりも今は容態だ。武下というらしい医師は、分かりやすく今の晴斗の状態を教えてくれた。
「今は集中治療室におります。本来ならご家族の方のみですが、現状宮下さん以外に該当する方がおりませんので、ご案内します」
「ありがとうございます…」
もう私は晴斗の教師ではないので、ここまでするのは筋違いなのかもしれない。しかし放置するわけにもいかないし、何より晴斗が心配だった。武下医師に連れられて、ICUに向かう。とにかく無事に意識が戻ってくれることを祈るしかなかった。
「こちらです」
「…晴斗…」
たくさんの管が晴斗に繋がっている。見ただけで重傷ということが分かり、動揺が伝わったようだ。武下医師が再度「安定しており、命には別条はないんです」とはっきりと言った。あとは意識が戻るのを待つだけで、それは時間さえ経てば解決するだろう、とも。
晴斗は静かに胸を上下させ、呼吸をしていた。思わず頭に触れる。晴斗の、生徒の体に指導上必要だという意図なしで触れたのは、あの時以来で、そしてその時もその相手は晴斗だった。祈るような、自分が救われたいからそうしているような、それしかできることがないような、無力感に苛まれたのは、今も昔も同じだった。
「………」
「…あっ!」
その時だった。晴斗の目が薄く開き、天井をぼうっと見つめていることに気が付いた。医師たちが動き出す。
「晴斗、よかった!わかる?私だよ、宮下先生!」
「………ん」
「うん!」
晴斗と目が合い、ぶわっと目頭が熱くなるのを感じる。ようやく無事であることを実感できて、次にはふつふつと晴斗をこんな目に遭わせた人間に怒りが湧いてくる。一体どこのどいつで今何をしているのか。無事なら早く謝りに…
「……姉ちゃん」
「え?」
姉ちゃん。晴斗ははっきりと、私の目を見ながらそう言った。私だけではなく、武下医師も戸惑っているようだ。
「あの、晴斗。その…」
「姉ちゃん、…俺、事故ったの?」
身体中痛いし、と晴斗が力なく呟く。聞こえづらいが、確かに彼は私を「姉ちゃん」と呼んでいる。違うよ私は宮下めぐで、君の先生だよ。なんて、不用意に言えるような姿ではない。晴斗のこの状況について、医師の判断を待とうと思った。
「晴斗くん、意識が戻ってよかった。僕は君の担当医で、武下というんだ」
「はい…」
「今、少し話せるかな?」
「はい…」
武下医師は私に優しく「別室で待っていてください」と言った。この状態について答えを見つけるつもりなのだろう。頷いてその場を去ろうとすると、晴斗が私の腕を、この状態ではかなり強い力で掴んだ。
「待って姉ちゃん、行かないで!」
「晴斗……」
やっぱり、私のことを誰かと間違えている。雰囲気がまるで違う、甘えたような晴斗の姿に胸が痛んだが、後でまた来るから、と言って、看護師に連れられるまま別室に移動した。
「……晴斗くんですが、記憶が混乱しているようです」
「でしょうね…」
そうでしょうよ。予想通りではあったが、本当にそんなドラマみたいなことが起こるとは。武下医師も珍しいケースだと前置きしたうえで、確証は持てないが、そこまで長く続く現象ではないだろうとも説明を加えた。
「晴斗くんと話をしました。事故直後ですし時間はかかりましたが、生活状況については概ね話すことができました。お祖母様も半年前に亡くなり、今は身寄りがない…いや、晴斗くんにとってはお姉さんだけはいることになっていますね。遺産やアルバイト、援助制度などを使って生活しているようです。お友達には恵まれているようで、寂しい思いは全くしていないようですがね」
「それは…そうでしょうね」
晴斗の学生時代を思い出して少し笑った。色々大変なことはあったが、とにかく友人関係でのトラブルには全く縁のなかった子だ。それはずっと変わらないだろう。
「宮下さんを姉だと思いこんでいることに関しては、すぐに誤認だと分かり、脳が受け入れていく…つまり思い出していくと思います。今までの生活と矛盾がありすぎますから」
「はい…」
そもそも苗字も違いますしね。武下医師は笑った。全然笑える状況ではないが、とにかく晴斗が無事だったことがこの人も嬉しいのだろう。私も、自分が姉だと思われている事実など、武下医師のアドバイスを聞きながら対応していけばよいと安易に考え始めている。
「しかしですね、晴斗くんの精神状態を鑑みると、今すぐに宮下先生…が姉ではないと言うのは危険そうなんです。…本来、肉親ではないあなたにこんな話までするのは申し訳ないのですが…」
「いえ、私も彼を不用意に傷つけたくはありませんので…」
要は、「私はあなたの姉ではない」と全否定するのではなく、少しずつ事実確認をしていくのがよいということだった。武下医師は「これ以上」精神的ショックを与えないためだと言い、私は、それが今回の事故だけを指しているわけではないことにすぐに気が付いた。
「宮下先生を姉だと思ってしまっていることに関しては、大きく関係していると思われる出来事があります」
「中学2年生のことですね」
「そうです」
中学2年生の夏休み後だった。晴斗の父母は、同時に亡くなった。家族旅行の最中の、交通事故だった。
明るい子だった晴斗だが、事故から数週間は学校に姿を見せなかった。身寄りのことや事故の対応もあっただろうが、家族仲がよかったことは私もよく知っていた。大きなショックを受け、晴斗は人が変わったように心を閉ざしてしまった。その後も車にはなかなか乗れなくなったらしく、友人と旅行に行くときに苦労すると、先日会った時も口にしていた。
自分で言うのも何だが、あの時期は晴斗の一番の理解者であれたのではないかと感じている。3年生でも晴斗を持つことになったのも、そういった経緯が認められたこともあるのだろう。卒業式の日の晴斗の涙と笑顔でいっぱいの感謝の言葉は、永遠に忘れないと思う。
「宮下先生のことを、肉親と同じくらいに頼れる大人だと思っていたからでしょうね」
「…」
過去のトラウマ、二回目の事故、守ってくれる肉親の不在。すべてが彼を守るために、脳に誤認をさせたのだろうと医師は言った。つまり、私を肉親として必要としているということだ。
「宮下先生が彼の面倒を見たり、この先もお見舞いに来たりする義務はないと思いますが…」
「……いや…」
お祖母さんも亡くなっているということは、彼にはもう頼れる大人がいないということだ。それに、別に付きっ切りで看病しなければいけないわけではない。たまに来て、話を聞く。今までとすることは変わらないのかもしれない。
「また来ます」
「ありがとうございます」
武下医師は、とても嬉しそうだった。
晴斗との2度目の再会は、不思議な立場での再会になる。
すう、と息を吸って、ICUの扉を開けた。