前編
いつか聞いた事がある。午後二時から四時の間は、人間の一番眠たい時間帯らしい。そしてただ今の時刻午後二時四十分。つまり一番眠たい時間の真っ只中だ。
僕は眠気を覚ます為に頭を振った。あと二駅で僕はこの冷房の効いた電車から降りなければならない。あまり効果は無かったけど。
窓の外を見慣れた、そして懐かしい街並みが流れて行く。たった四カ月帰っていなかっただけだというのに、郷愁というものは湧くらしい。次第に僕の心は早まった。
いよいよ僕の降りる駅名がアナウンスされた。僕は足下のスポーツバッグを肩に担ぐ。
そう、今日を含めて三日間。僕は一学期ぶりに実家に帰るのだ。
家を出る前、色々な事があった。幼なじみである前沢友尋・通称トモの父親が亡くなった。身近な人の突然の死に、僕は衝撃を受けた。
おじさんのお通夜。残されたトモたちの事を思うと、今でも胸が痛む。
トモの彼女で僕の初恋相手でもある徳永秋穂・通称アキ。お通夜から一緒に帰った帰り道、星空の下で、彼女の初恋は僕だった事を知った。
僕は色々な事に気持ちの整理をしないまま、何もかもほったらかしで家を出た。だから今はちょっと緊張している。
「暑いな」
そっと呟いてみた。当たり前だけど、それで涼しくなりはしない。
アスファルトの熱気が、体に纏わりつく。ジージーというセミの鳴き声が、不快指数を上げる。二時というのは、最も暑い時間帯でもあるのだ。
携帯電話を開くと、付き合っている彼女からメールが一通来ていた。
──久しぶりの実家はどう? 早くシンに会いたいな。帰ったらいっぱい話してね
高校で知り合った彼女。
同じクラスで、席が隣だった。入学した当初は知り合いがゼロだった僕に、何かと話し掛けてくれた。告白されてOKしたけれど、付き合う事に踏み切った理由はよく覚えていない。もしかしたら明るい彼女の笑顔にアキの面影を見たのかもしれないし、はたまた新しい土地で何もかも再スタートしようとでも思ったか。
彼女には僕が今日帰省するという事は伝えてある。しかし、面倒なので返信はしない。僕は携帯電話をポケットにしまった。
それにしても。
「どうしろって言うんだよ」
一人息子が久しぶりに帰って来るというのに、僕の親はつれない。盆前で忙しいからと、駅から家までの十五分を歩いて帰れと言うのだ。荷物を背負ったままで。
「はぁ……」
仕方がない。ここにいても暑いだけなので、僕は歩き出した。
荷物を背負ったまま。
「あれ、シンじゃん。久しぶりだな」
「達也! お前、髪染めたのかよ!」
休憩の為に立ち寄ったコンビニで、懐かしい顔に出会った。達也だ。彼も含め中学校の頃の友達は大抵が、地元の高校か、それよりレベルが上の近くの進学校に通っている。トモは地元に、アキは進学校だ。
「お前、バスケはどうなんだ? ここにいるって事は一軍落ちか?」
「アホ。今は盆だから部活は休みだ」
久しぶりというのもあって、会話は弾んだ。学校の事、クラスメートの事、ゲームの事、そして彼女の事。僕は意図的にトモとアキの話題を避けていた。
「何だよシン。お前、彼女いるのかよ。どんな子だ? どっちから告ったんだ?」
「あっちから。好きな子とかいなかったし、付き合ってみる事にしたんだよ」
「おいおい、可愛いじゃん。オレにも誰か紹介しろー!」
二人で撮った写メを見ながら、達也は言った。
「おっと。もうこんな時間か。オレはそろそろ行くわ。じゃあな」
達也はそう言うとコンビニを出る。
「ああ。じゃあな」
去って行く達也の背中を見送って、僕は一息入れる。それからペットボトルのお茶を一つ、レジまで持って行った。
コンビニから出ると、ムワッとした熱気が僕を包んだ。堪えきれずに今しがた買ったお茶を一口飲む。冷たくて気持ち良い。二口、三口と飲んでいる内に、一気に半分近くまで飲んでしまった。
僕はふと、もう夏も終わるんだなと思った。まだ日は高いが、太陽はオレンジ味を帯びている。これから、どんどん日が暮れるのは早くなるだろう。
そろそろ帰るか。
僕はスポーツバッグを担ぐ。ここから家までは五分。僕はゆっくりと歩き出した。
「ただいま」
僕は自宅の玄関を開けた。四カ月振りに帰る我が家。十五年間慣れ親しんだ懐かしい匂いというか香りが、鼻腔をくすぐる。
「あらシン、お帰りなさい」
「おう帰ったか」
靴を脱いでいると、奥から両親が出て来た。
「うん、ただいま」
廊下に上がって母さんと並ぶと、母さんの頭の位置が、記憶にあるより下にある気がした。父さんの目線とも並んでいる。
僕は荷物を置くために、階段を登った。
「あっ、そうだわシン。帰って来てすぐで悪いんだけど、ちょっとロウソク買って来てくれない? お金は渡すから」
階段を中程まで登ったところで、母さんが声を掛けてきた。
「面倒だな。何で?」
「ゴメンね。切れてたの、すっかり忘れちゃってて」
「仕様がないな。じゃあ荷物を置いたら行くから」
まったく。僕の母さんは、どこか抜けている。帰る途中にメールでもくれれば、買って来たのに。
僕は階段を登って、自室の扉を開けた。
部屋の中はきれいに整頓されていた。母さんが掃除をしているのだろう。といっても、中学校の時の教科書やノートは春休み中に処分したし、服の多くは寮にある。机の上にあった漫画やゲームソフトが消えているのは気になったけど、探せば出て来るだろう。多分。
ベッドの上にバッグをボスンと下ろすと、ポケットからヴーンという振動が伝わって来た。携帯電話を取り出してメールの受信ボックスを開くと、彼女からのメールの上に、新着でアキからのメールが着ていた。内容はただ一文字、
──窓──
とだけ。
僕は徳永家に面した方の窓を向くと、アキの部屋の窓から精一杯身を乗り出した彼女の姿が見えた。心臓が一瞬跳ね上がる。僕は窓を開けた。
「シン、おかえり。久しぶりだね」
四カ月振りに聞くアキの声。それはちっとも変わらずに、耳に心地良く響く。
「よく分かったな、俺が帰ったの」
「うん。シンに会ったって達也君からメールがあったんだ」
そう言ってアキは、屈託なく笑った。
「シンって今からヒマ?」
「いや。ロウソク買うから、コンビニでも行こうかと思ってる」
「私もついて行っていい? シンと色々話したい」
僕はトモに悪いかなと思ったけど、快く了承する。
「いいよ。下で待ってる」
「分かった。じゃあ下に行くね」
僕たちは窓を閉めた。階段を降りると母さんが待ち構えていて、千円札をくれた。お釣りは自由にして良いとの事。
靴を履いて外に出て、アキの家の前で彼女が来るのを待つ。程なくしてアキは出て来た。
「お待たせ。ゴメンね」
「いや、俺も今来たから」
僕たちは、先程のコンビニへと歩き出した。
四カ月という月日は、人を大きく変える。それは成長盛りである僕たちの世代だと特に顕著だ。
久しぶりに並んで歩いたアキは、とても大人っぽくなっていた。中学校から高校へとステップが上がったのも起因しているかもしれない。
記憶にあるより伸びた髪。アキの高校は校則が厳しいため、染めてはいない。服装も流行というか、夏らしく清楚な感じだ。
僕は自分の服装を見下ろした。寮を出た時から着ている、バスケ部の赤と白のジャージ。うん、場違いだ。私服に着替えて来れば良かったと思った。
「そういえばシンって背、伸びた?」
ふと横を歩くアキが僕に尋ねた。
「どうだろうな。最近は測ってないから分からない」
「ふ〜ん。でも、前よりは伸びた気がするよ」
学校の事、勉強の事、部活の事。僕たちは近況報告を主に、他愛のない話をした。だけど、やっぱりトモの事は聞けなかった。彼女の事も言えなかった。
先程、荷物を抱えて帰ったより遥かに短い時間でコンビニに着いた。同行者がいるだけで、時間というものは短く感じる。
僕は頼まれたロウソクと、お釣りでアキにジュースを奢った。暑い中、コンビニまで付いて来てくれたお礼だ。
「奢って貰っちゃっていいの? 私、付いて来ただけなのに」
「良いって」
「ありがとね、シン」
僕はコンビニのガラス戸に手を掛けた。するとその時、若い茶髪の男女がやって来た。女は男に腕を絡ませている。あまり関わりたくはない。さっさと行こうと思って、僕は歩き出す。
僕は、話に没頭している男の横を、顔を見ないで足早に通り過ぎた。アキも近寄って、僕に続く。
しかしその時。
「あれ、シン? ……アキ」
「え?」
男が僕たちを呼び止めた。思わず振り返って見たその人物は──茶髪だけれど、知らない女と一緒だけれど、確かにトモ──前沢友尋だった。
「トモ? 何これ、どういう事?」
僕は混乱した。なぜトモがアキではない女と?
「……たの、私たち」
俯いたまま、アキが唇を動かした。
「えっ、何? 聞こえない」
「私たち、別れたんだよ」
今度は顔を上げて、不自然な程明るい口調で、アキがキッパリと言った。