8話 長い一日
プロローグの続きになります。
「相沢君! いや、師匠! ししょー!」
後ろからクソ忌々しい声が聞こえてくる。
「おい、丸坊主……小林。師匠って呼ぶな。そもそも俺に関わるな」
「おお! 名前覚えてくれたんだね! 嬉しいなぁ」
「……はぁ」
俺の言葉を理解してないらしく、とりあえず名前を呼ばれた事を喜んでいる小林を見て、付きまとわれる未来が容易に想像できてうんざりする。
無駄な抵抗だとは分かっていながらも、さっきよりももっと気合いをいれて眉間のあたりを上げて、歯を食いしばって睨みつけた。
予想してた通り小林に俺の睨みは通用せず、むしろ喜んでついてきた。
これが、単純に俺の顔に迫力がないだけなのか、それとも小林がバカなだけなのか……おそらく後者だろうと、俺は決めつける事にした。
「それにしても……」
学年朝会での失態の影響で、今や俺は完全に女子の敵と化していた。
野郎どもは俺と目が合うと、半分くらいはそっと目をそらし、残りの半分は親指を立てて良い笑顔を向けてきた。
にしても女子からの視線が痛い……なぜ小林はこの刺すような視線の中、気にしないどころかむしろ楽しそうにできるのだろうか……ああ、バカだからか。
一瞬だけ小林を凄いと思いそうになってしまった自分を恥じつつ、とにかく今のこの俺の置かれた状況……つまりは学年朝会でついてしまった変態というレッテルをいかにして剥がすかを考えていた。
「さっき、朝会でマラソン大会の話が出てたけど、あれっていつだっけ?」
なんとか自分の席を探して、座りながら隣の席の男に聞いてみた。
すると、隣の席の男がニヤニヤしながら俺の方を向いた。
「パン――」
「二月だよ! すごい楽しみだよね! ボク走るのって好きだからさ!」
おそらくずっとついてきていたのであろう、いつの間にか背後に立っていた小林から答えが返ってきた。無駄にデカイ声がイラッとする。
ニヤニヤ顔で固まっている男は放っておいて、小林の方に振り返った。ニヤニヤ男の『パン』の続きが気になったが、その続きに来る言葉なんて数える程しかないし、忘れる事にした。
「ははは、まぁ小林はどう見ても頭より体動かす方が得意そうだよな」
嫌味を言ったがどうせ伝わっていないだろうな。
「あはは! ありがとう!」
小林からの返事する声と表情に一切の曇りは無かった。うん。やはり伝わってない。
「……はぁ」
自然と出るため息に小林と話してるだけで精神的に相当削られている事を悟った。
とりあえず、小林の事は無視してこれからすべき事を考えよう……俺のイメージでは、小学生は足さえ速ければヒーローになれるはずだ。短距離だと、練習してもすぐに早くなれる気はしないが……マラソンならフォーム一つで楽に早く走れるようになるって前にテレビの特集で見たのを覚えている。なぜか興味津々で観てたため、そのフォームはしっかりと記憶している。こんな子供らが相手ならば……今度のマラソン大会で優勝とまではいかずとも、おそらくトップ十位以内くらいは目指せるかもしれない。そうすれば、晴れて俺はクラスの英雄。間違って優勝なんてした日には学年のヒーローだ!
「はい、小林君。そんなとこに立ってないで、早く席につきなさい。もう授業始まってるのよ」
頭の中で妄想を繰り広げていたら、いつの間にか授業が始まっていたようだ。
朝会の時に、小林と一緒に俺に恥をかかせた女の先生がいつまでも俺の傍から離れようとしない小林を叱って席に戻るように促していた。
斎藤先生だか佐藤先生だか……この女の先生には朝会の恨みはあったが、うっとおしい小林を引き剥がしてくれたから許してやる事にした。
このセカンドライフで一つ不安だったのは、授業の内容がわかるかどうかだったが……まぁ26歳で小学校三年生の授業の内容についていけないって事があるはずもなく、授業が始まってすぐに問題は無い事がわかった。
よし、あとはマラソン大会まではなるべく目立たないようにするだけだな。
「まぁ……そんな簡単な事じゃないよな。なんせ厄介なやつに目をつけられてしまってるからな……」
そう呟きながら、一番前の列に座っている小林を見た。
小林はそっと流れるように自然な所作で右手を顔の近くまで持ってきた。
いったい何をするのかと気になって見ていると、その右手からスッと人差し指を伸ばしそのまま鼻の穴へと差し込んだ。
あまりにも周りの目を気にしない小林の行動に、そのまま見続けていると……
差し込んだ人差し指を、慣れた感じでクイッと半回転させて抜く、その指先には少し離れてる俺からでも見て分かる程の大きさの黒っぽい物体がついていた……しかし、小林は止まらなかった。その指先の塊を、一瞬の躊躇もなく鼻から口元へと滑らせる。そして、その指先の塊は口からチロッと出てきた舌へと受け渡され、素早く口の中へと収納された……それが時間にしてほんの数秒の出来事で、俺は驚愕して視線を動かせずにいた。
すると俺の視線に気付いた小林は、その行為を見られたかもなんて微塵も思ってない様子で、授業中にも関わらず笑って手を振ってきた。
「相沢君、小林君? 仲良しなのは良いけど、授業に集中しなさい」
「……」
またしても巻き添えを食らってしまった。
とりあえず小林を睨みつけ、小林の反応を見る前に視線を外した。反応を見なかったのはストレス防止のためだ。
やはり小林に関わったらろくな事が無い……
なるべくヤツの事は忘れるようにして、黒板に集中する事にした。
「さすが変態コンビだな」
さっき俺が話しかけようとした隣の席の方向から、かろうじて聞こえるくらいのボリュームで嫌味が聞こえてきた。
その方向を見ると、長髪で幼いながらも整った顔立ちの少年がニヤニヤと笑いながら俺を見ていた。
「俺は変態じゃないよ。それと小林とはコンビでも無い。むしろ敵だな」
「ふぅ~~~ん」
いかにも分かってますよー的な返答と更に増すニヤニヤ顔にちょっとムカついたが、あまり目立たないと決めたばかりだからな……と、会話を切り上げて前を向いた。が、こいつも小林同様になかなかへこたれない。
「パンツマン」
なんだそのガキみたいなネーミングセンスは。あだ名を付けるならもっと高品質のものを頼みたいところだ。
とりあえず、無視し続ける事にした。
「おい、パンツマン相沢」
お、ちょっと進化した。にしても……こいつはもしかしたら放置してると、気付いた時には俺のあだ名は『パンツマン』で確定してしまうパターンでは無いだろうか? そんな不安を感じ、とりあえず黙らせる為に渾身の睨みをきかせた。
「則明・P・あいざ……ッ!?」
最終的にどこまで進化していくのか気になったが、俺の睨みが意外に効果があったようで、整った顔を歪め慌てて前を向き勉強しはじめた。
進化の妨げをしてしまったのは残念だったが、一つ大事な事が判明した。
小林に俺の睨みが効かなかったのは、小林がバカだからだ。
しかし、この少年の顔には見覚えがある……もしや、この学年で一番の出世頭である木下秀人ではないだろうか? ちょっと幼い感じだったから気付かなかったが……長い髪を真ん中から分け、その髪から覗く切れ長で鋭い目、全体的に整った顔。間違いない。
これまた厄介なやつに絡まれてしまったものだ。過去に戻ってこれた奇跡が起きたせいで、もう運が残ってないんじゃないかと思う程に不運続きだ……まぁでもペンギンちゃんや未来のアイドルのパンツが見れた事はラッキーだったのかな?
そんな事を考えていたら、自然と口元が緩んでしまっていた事に気付いた。慌てて顔を正し、授業にだけ集中する事にした。
その日、何度か木下に嫌味を言われたが、その度に睨みつけると少しの間は大人しくなった。
ちなみに、一部の男子らからはちょっとした英雄扱いをされて、女子からの軽蔑の目がより激しさを増していった……勘弁してほしい。
――なんとか無事にセカンドライフ初日の学校生活が終わった。
「それじゃー寄り道せずに気を付けて帰るように! あと明日は休みだからって遊びすぎないようにねー!」
帰りのホームルームが終わった瞬間に、急激に体中の力が抜けるのを感じた。
「なんだか、想像以上に疲れた……だけど、明日は休みか……」
久しぶりの授業を終えた解放感と、明日は休みという安心感で、少しだけテンションが上がってきた。
それじゃー帰りは久しぶりに家の近所探索でもするかな。何気にちょっと楽しみな俺がいた。
さて、あとは誰にも……主に小林に見つからないうちに撤退しよう。
俺が急いで教室の出口にきて振り返ってみると、案の定、小林が後ろを見まわしながら俺の名前を呼んでいるのが聞こえたが、当然無視してそのまま帰る事にした。
「乗り切った!」
俺は両手を上げて、セカンドライフの記念すべき一日目を無事に? 乗り切った事を素直に喜んだ。
まぁ変態キャラスタートくらいなら丁度良いハンデだ! 何気に一部の男子の支持を得る事が出来たみたいだしな! 不名誉ではあるが……なんにせよ、ここから俺のサクセスストーリーが始まるんだ!
俺は一人うなずきながら、今日の結果に満足した。
ふと、一軒の駄菓子屋が目に入った。
入口には『だがし屋 さくら』の文字。
ここはたしか……なんとか思い出そうとしながら、店内へと入っていった。
「いらっしゃい。ノリちゃん」
とても温かくて優しい……懐かしい声だ。俺はこの声を知っている。大好きだった声……
声のした方に視線を向けると、だいぶ高齢のおばあちゃんが座って微笑んでいた。
髪は真っ白で、顔もしわくちゃだが、どこか愛嬌のある顔で、自然と心から安心させてくれる空気を持っていた。
俺は近寄って、軽く頭を下げて挨拶をした。その頭をおばあちゃんは優しく撫でてくれた。
「ノリちゃんは良い子だねぇ。飴食べるかい?」
「うん。ありがとう」
今思うと、俺は人からの好意を素直に受ける事が出来ない人間だった。そんな俺が、おばあちゃんの好意にはなぜか素直に甘える事が出来たのだ。
俺はこのおばあちゃんを良く知っている。
その時、おばあちゃんの背中から小さな手が見えた。次に顔を覗かせた。
黒髪のくせ毛で、パッチリとした目のとても可愛い小さな女の子。
「いーちゃん」
俺の口から自然とその名前が出てきた事に、自分で驚いてしまった。
ずっとその名前で呼んでなかったはずなのに、今のこの子の姿を見たら自然とその呼び方をしていたのだ。
俺のよく知っている女の子、十八年後には殺人タックルが得意技という恐ろしい生物に成長してしまうあの佐倉なのだ。
「ノリちゃん、いらっしゃい」
「……ッ!?」
そう言いながら笑ういーちゃんの顔を見て絶句した……
きっとこの子は天使なんじゃないかと本気で思ってしまう程に笑顔がキラキラとして可愛く、抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
ああ、思い出した。
佐倉のおばあちゃんに、いーちゃん、俺はここの空気が好きだった。この二人が大好きだった。
でも、俺の大好きなここも永遠では無かったのだ……俺の母さんが亡くなった翌年におばあちゃんは亡くなってしまうからだ。死因はたしか老衰だったと思う。だから俺には助けてあげる事は出来ない……
「ノリちゃん、どうしたの?」
泣きそうな女の子の声が聞こえて、視線をあげるとおばあちゃんは心配そうな顔をして、いーちゃんは今にも泣きだしそうな顔をしていた。
どうして? と思い自分の頬に手をあてて納得した。どうやら俺はおばあちゃんの死と、その後のいーちゃんの事……この温かく幸せな空間がある日突然に消えてしまう……そんな事を考えてる内に泣いてしまっていたようだ。
これからの事を言う訳にもいかず、とりあえず心配をかけてはいけないと、慌てて拭いて笑ってみせた。
「どうもしないよ? いーちゃんこそ泣きそうな顔してどうしたのかな?」
できる限り明るい声で言った。
そんな俺にいーちゃんが近づいてきて、おもむろに手を振り上げた。
反射的に目をつぶると……頭に温かくて柔らかい感触を感じた。
「いい子いい子」
目を開くと、いーちゃんが涙を浮かべたままの顔で、俺の頭を撫でながら優しく微笑んでいた。
「……いーちゃん」
胸の奥が苦しくなるのを感じた……ダメだ、これ以上ここにいたらまずい!
そう判断した俺は、今日のとこは帰る事にした。
「それじゃー今日はもう帰るね! おばあちゃん、いーちゃん、またね!」
帰り道で、我慢していた涙が溢れて止まらなかった。
大切な人の死を知っていてどうする事も出来ないというのは、こんなにもつらい事なんだな……
セカンドライフ初日にして、セカンドライフだからこその苦悩を味わいつつ、長い一日を終えた。