春告鳥
梅木は自分が知らない事・また理解ができない話題になると、話の腰を折る癖が
あり、会話の中で常に本間をやり込めようと意図しているが、
本間の望みは梅木を屈服させる事ではなく"考える事や植える事"で従業員にとって
住みやすく健全な職場を創出させる人物になって貰う事だった。
梅木は本間との会話の中で、慎重に"主導"される事を避けながらも、
会話を厭う気持ちには至らなかった。
「以前いた〇〇さんはね。阪神のファンでね。
野球や競馬や女の話しならば嬉しそうに話すんだが、その他の話は
一分と続かなくてね。すぐ携帯とにらめっこだった」
いきおい喫煙の量は捗った‥
という事だが、職場の交流は"差し障りのない話題"に留め置く事という"指南"
もあるくらいですからね‥それより煙草を控えませんか?と本間は言う。
梅木の持論は「どうせ最後は罵り合い別れるのが他人、信じられるのは女房だけ」
と言う、根強く手痛い"経験"は硬い甲殻を形成していた。
しかしその奥方でさえ救急車を求め苦悶する梅木に「やだ!恥ずかしい」と
躊躇したと言うから真意のほどは分からない。
だが眼前の本間は失敗をなすりつけても、陥れても"経験"の中の住人達とは異なり
何故か憎み合いが生じる事もなく、その事で陰口も悪口も聞こえてはこない。
「うちの奥さんはね‥」梅木は本間ならばどう反応するだろうという
興味が湧いたようだ‥
「職場で私が一番綺麗だと俺に言うんだ‥確実に歳は取っているのにね。
けど確かに兄弟の多い中で、うちのだけロシア人のハーフかと言われたくらい
似てないんだよ」と他人にはあまり吹聴しない方が良いと思われるような
形容で話を始めたが、しかし本間は面白いと思う。
「東北辺りの出身だったらあり得る話です‥中央から隔絶した局地的で特殊な事情
から、外国との交流や略奪・交易は想像以上にあったという話しです。
一部にはインド・アーリアの血脈もあるという研究もありますから、
先祖が辿れるのなら興味深いですね」
「以前、息子さんは長身で、一時期ホストをしていたという事でしたね‥
弔問客が四百人も来てくれたと言う娘さんの眉毛が濃くて、両眉が繋がりそう
だったと言う事も所謂、先祖返りですかね」本間は冗談を言ったが、
梅木は「あれ?」と思った。
「そんな話してないよね?」
「いや、しましたよ」
いや眉毛の話はしてない筈だと思うが、何しろ本間と出会った当初は彼に指摘
されたように薬の副作用と疲労が重なって亡失する事が多かったから、
その辺りは梅木も確信が持てなかった。
真剣に聞いていてくれる事は充分に分かるし、本間が見聞したものを軽率には
口外しない性格だという事に、これまでの経緯から気づいてもいた。
その為、以前は自分も在籍していた大手に努めている奥さん経由で、出店情報など
を入手して、本社の部長に渡しているという事まで漏らしてしまった。
自身への賞讃と畏怖、会社での存在位置が高まる事を期待していたのではと、
容易に想像はつくのだが、そのように彼は一貫して"自語相違"を自ら暴露して、
問い直す事が不得手だった。
本間は思う‥外見は大人でも子供のような人物は、悲しいかな男に多い。
この段で顔を曇らせ、上司である梅木に忠告した。
「それでは奥さんが気の毒ですから‥止めた方がいいです」
悪い風が吹けば背任罪にもなり、致命的な幾つもの問題を引き起こしかねない。
「凄いですねぇ」と一言の処世術で相手は恐らく満足するものを……
いちいちに好ましくないと諫言してしまう。
―――
夏の終わりを予感させる穏やかな風が、僕と本間の間を吹き抜け、
秋がくるよと告げて行く。
あと数週間も経てば、寒暖の気流が激しい交代劇を演じて余波を受けた人模様
も変わる事だろう‥
本間と僕はいつものように、まずいコーヒーをすすりながら近況を話し合った。
―――
梅木は若い須賀に対して、受けを狙ったつもりで返って侮りを買っている。
「人は蹴落として行かなければ駄目だよ。受験でも何でもそうだったでしょ?」
走り続けた結果に人を抜くのと、襟首掴んで蹴落とすのとでは賞罰で異なる。
事の是非を、若い世代は理屈では無く、生理的に判別するのだ。
須賀は親しい度合いで饒舌になる、ありきたりの若い女性だが、人並みに幼少の
うちから手痛い経験はしていて、仕事仲間やオヤジに対しては無口でいる事が多い
……
よせばいいのにと本間は思うが、"空気を読めない"梅木は続けた。
「この間、凄い経歴の人が面接に来たらしいんだが、うちの会社の人事部長は
雇わなかったそうだよ‥自分の立場が脅かされかねないからね」
「どこでも、俺はそう教えられたし、子供達にもそう教えた。
俺達の時代ってそうだよ! ねぇ、本間さん!」
と下駄を預けられた形の本間は「言下に否定した」と言って、僕を笑わせた。
子供は玩具ではなく別人格だ‥親の資質を厳しく監視している‥
下克上的背反と不実は畜生でもある人の常だが、どのような結果になろうとも、
自分よりも優れた"人の育成"を希求するのが、
賢人の信条だ・異論など存在しない。
―――
先輩パートの水谷かおると山上久美子は、入ったばかりで同じ時給の須賀と
高給の本間の存在が、快いものではなかった。
他の部所では、新入りの若い女性の特進が嫉まれ、周囲の意地悪に耐えかねて泣き
出すというありがちな事件もあった。
それが大人世界の話しである……
「そりゃあ面白くないわよ」水谷は本間の問いに答えた。
「本間さんはいいのよ。やっている仕事の内容が私達とはちがうもの。
だけど私は五年で 山上さんは十年もやってるのに、仕事ができない人と時給が同じ
なんて……」
悔しいという事なのだろう。
本間には充分に過ぎるほど理解できた。
だがそれは本間のせいでもないし、須賀のせいでもない。
そのせいで、僅かであっても須賀に感情で辛くあたるのは、もちろん大人の女の
する事ではないし、のちに禍根を移しかねない。
今日の須賀が明日も同じという事はないのだ。
「他人の蔵を幾つ数えても、一文も自分のものにはならないし、かえって品位を
堕とす‥仕事のできない人がいて仕事のできる人が輝く道理だろう。
―――
ある夕暮れに、帰巣を急いだものか一羽のヒヨドリが彼の車に衝突した。
猫さえ轢かないと心に定めている本間は、極力"止まりきれない"ような
スピードを出す事は無かった。
梅木曰く「本間さんの後ろはイライラするだろうね」と言ったというが、
一方、役員達の「見ていなけりゃ誰でもスピードを出す」という話の段に
なった時「本間さんは、そうゆう人ではないよ」と擁護した事があると言う。
本間はそれを聞いて「事故は絶対に起こせないな」と思うと同時に、
梅木の言葉に変化の予兆を見た気がしたと言う。
ヒヨドリはフロントガラスに跳ねられ、対向車線に転がった。
「死んではいない筈」と思うが、放置しておけば間違いなく轢かれてしまう。
ハザードを点け、双方向の車両を制止してヒヨドリを確認するとショック状態
だが生きていた。
「良かった」と息をつくが、周囲のドライバー達が怒声を上げたり、
クラクションを鳴らす事もなく、待っていてくれた事に感謝した‥
「やさしいのねぇ、私なら行っちゃうな」と水谷は薄笑いを浮かべて言う……
大学卒業後の職場結婚で寿退社ののち、義理の両親の思惑もあって隣接した家を
与えて貰い、住んでいるという。
彼女は実の両親には可愛がられずに育ったと言うが、本間は首を傾げる‥
大学までの教育負担を、親は何の思い入れもなく子供に施せるものだろうか‥
義理の親からの供与というものには、大概・老介護の見返りを期待される。
他の恵まれない環境を実感できない水谷は、現実の老夫婦との間で葛藤が始まり、
反動は、時に伴侶との言い争いにもなり、顔も見たくないという事もあったと
言う。
職場には梅木という神経を逆なで仕合う存在があり、仮の和合を保つためには、
生活圏の両極で常に自分以外の周囲に攻撃の対象を作り易かった。
それは自分の望み通りに動かない他人(世界)の全てに向けられる。
真の友人は得られないが "どうせ益のない他人" と考えているから"老い"に
気づくまで顧みる事はない。
本間は梅木の中に住む子供の叫びを聞いていた。
「うちの親は俺よりも兄貴が可愛くて、何かと差をつけるものだから
俺も親父が嫌いでね。 高校の時に取っ組み合いの喧嘩をして、それから
しばらくして放浪の旅に出たんだ」と梅木は言ったそうだ。
「沖縄から北海道まで、その数度の旅の中で奥さんと出会ったそうだよ」
「ふ~ん運命の女神ですね」‥本間は反応しない‥
「この二人に共通している事は」
「幼少期に於ける家族からの疎外感なんだが、少なくとも本人達はそう思っていて
大人になった彼等を形成している」
「この上司はタマネギが食べられないと言うんだが、ハンバーグのように隠し味
なら平気だそうで、身体的要因では無い。
遡って聞いてみると小学生の頃に好き嫌いを許さない女教師から、口の中にねじ
込まれた経験があったそうだよ」
五十七歳を越えているにもかかわらず、昨日の事のように"あのばばあ"と罵って
いたそうだ。
「本当の敵は自分の心にある。と言う一点を知ろうとする勇気がない為だ」
本人達が聞いたら激怒するような認識で結論としておいた‥僕達だった。
―――
こんな小さな職場の小さなチームで頻繁な離職が起これば、当然管理者の
能力不足が懸念されて会議で吊し上げに合う。
水谷は体調が好ましくないと言う理由で離職すると言い、この期に及んでたまげた
梅木は引き留める為に「どんな我が儘も聞きます」と本間に溢した。
水谷は再び担当店の専任となり、いきおい須賀ちづるはセンターに有無を言わさず
戻されたが、部所の全員がこの一貫性の無い呆れた采配について一言も主観を述べ
る事はなかった。
何も言わない人間が、それをどう思い、どのように行動するのかを推量する手間を
梅木は相手が"他人"ゆえに惜しんだ。
動物達は人が考えている以上に高い思考能力も持っているが、寿命のスケールに
比例してその質量は異なる。
春になると、あの頭脳容積から想像もできないほどの能力を発揮して日本各地に
ツバメが飛来するのだが、頑固なまでに習性を踏襲する彼等とは異なり、
近年の人模様は急速に変化した。
病原菌の伝播を恐れる余りに、或いは美観を損ねるという理由から、彼等が頭上に
営巣する事を嫌い、その巣を取り払う人も増えた。
年代を重ねる毎に、あきらかに人の心は貧しくなり病んでいくようだ。
食料品の小売業を生業とする会長や社長の叱責を恐れ、ツバメを僅かには気の毒に
思う梅木と山上も、当然のように巣の撤去と清掃を行っていた。
餌探しから帰巣したツバメと目が合ってしまった本間は、山上に苦笑して言う。
「なんでこんなひどいことするの? という目でジッと見ていたよ」
山上は本間の真意には気づかないふりをして答えた。
「そうなの梅木さんも居ないので、店長に頼んで取って貰ったの、まったく……」
毎年繰り返される現実的な対応に、異論を唱える立場では無い事を
言外に漂わせた。
―――
「ツバメの雛が巣から良く落ちる事は御存知ですか?」と休憩中の閑話に尋ねた。
女性達は無言だったが「いや見た事はないけれど、そうかも知れないね」
と梅木は答える。
「スーパーなどの、出入りが多い納品口の頭上に営巣する為、落ちた雛が轢かれる
事があるんですが、それを目の当たりにした親ツバメがどのような行動をとるか
分かります?」と本間は重ねて尋ねた。
「さあ、すぐに次の子供を作ろうとするんじゃないかな」
……
此処には詩人もいなければ作家もいない‥
女性陣は迂闊に自分の意見も言わず興味もないが、人の見解には大いに興味を示し
対人物感を形成していくものだから聞き耳は立てている。
「親ツバメは雛が潰された瞬間に悲鳴を上げるように鳴いて、運転手が降りるのを
見て、襲ってくる姿勢を見せるんです。
その絶望感と哀しみを想像できないでしょうか……
加害者が車ではなく運転をしていた人間である事を認識していて、その時は怒り
が恐怖を凌駕していて‥まるで人間の様に憎悪を放射します」
過去に娘を失った梅木は、本間の言わんとする事を読み取り
「いや、俺だって雛がいたら‥いや卵を産んでいても、もうその時は巣を取ろうと
は思わないよ‥この間なんか……」
二年ほど前の話を思い出した‥
「佐宗店長なんか客からクレームがくると言って、雛がいるのに巣を
落としちゃったんだよ。
その前に取らなきゃだめだよ‥
会長や社長は絶対にとれって言うだろうしね」
本間とて無論"宮仕え"の苦悶は知っている。
自らが享受している虚飾が華美であれば在るほど、失う事の恐怖は凄まじい‥
本間に巣を取るように言う事もできたのに、事実そうしようと喉まで
言葉が出掛かったのが、
本間の背中が「それはできません! どうしてもと言うのなら辞めます」
と言っていたからだ。
本間が"経験の中にいる住人"ではない事を感じていた梅木は、無理強いの結果を
恐れて、自ら嫌な役を演じた‥
―――
「鳥が"何回"も登場してくれたよ」と本間は笑いながら続ける。
ある時、若いパートの女性が梅木と本間の休憩中に浮かぬ顔をして現れ、雀の雛を
保護したけれど猫を飼っているので困っている。
と言ってボール紙のケースに入れた雛を見せたが、蓋を開けた途端に雛は飛び出し
て人の手の入らない物陰に入り、所在が解らなくなってしまった。
三人が三様に安堵した気持ちは否めない。
所詮は野生に素人が干渉する事はできないからだ。
と本間は定めているのだが、店舗回りを終えて帰着した本間の目の前に、
雛はいた!……
僕はうっかり笑ってしまったが、本間は思わず天を仰いだと言う。
(また、何で俺なんだ!!) 雛が遁走した場所から十五㍍ほども離れているような、
建物をひとつ隔てた人目につきやすい駐車場である。
そもそも本間が保護した分けでもないのに、なのに数時間も経って無事でいて、
本間を待っているように"そこに"雛はいたのである。
「やれやれ、帰りに給餌する道具と餌を買って帰る事にするよ」一晩、生きて
いたら、県の鳥獣保護センターに委ねる段取りをしたが、
山を隔てた裾野にあるセンターまで、山中約二十~三十㌔走っていく事になった。
保護をしたつもりで、安易に保護センターに連れてくる件数が余りにも多い
のだろうか、センターでは散々な言われ方だったと本間は笑う。
職員達が戒めを含んで「ああ、それって人さらいだ」と言う言葉を使い
「側に必ず親鳥がいる筈なので拾わないで下さい」とも言われた。
何処に雛が落ちていたのかも知らない本間だったが、野生には干渉しない事だと
言う職員達の意思をくみ取って「はあ……すみませんでした」
と言って雛を委ねてきたという。
後日、最初に雛を拾った女性と梅木に次第の顛末を告げる機会があり、
「つまり残酷なようですが、できる限り野生に干渉しない事という事でした」
人は憐憫の情を持ちながらも対象の命を秤に掛ける。
二人は無言だった。