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恋の発露



まるで箱庭のような小さな町に‥何時撤退してもおかしくない小さな店舗の一角‥


(いだ)かれたくなる程の陽差しの良い日には、一匹の白猫が現れ、通りかがる人に

声を掛け、見あげる笑顔で愛想を振り蒔いていた。


出会う人達は何処かの飼い猫だろうと思っていたのだが、従業員が時折に缶詰など

のフードをあげる事を知った梅木は、癖になって困ったものだと嘆いた。


「だいたい最後まで面倒を見たり、責任を取る分けでもないのに、中途半端な優し

さや、思いやりなど回りが迷惑なだけだ! 無責任だよ!」と罵っていた。


東日本大震災の折には、止むに止まれぬ気持ちが湧き起こって、二十万ほどの現金

を寄付したと言う彼の鼻息は荒く‥


実体の無い善意など価値も無いと断定している‥ 


或る朝、猫が死んでいて「役場に連絡したから衛生課の人が引き取りにくる」と

山上久美子から伝えられて、従業員の女性達は「えー? そうなの」と言ったきり、


誰もが特別に関心を持った様子も無く‥黙々と作業をしていたのだが……

本間は気になった。


「どんな猫?」


「私も見てないから知らないけれど‥白い猫だって‥」と山上久美子は言う。


「どこに居るの?」‥重ねて訪ねた。


誰かが箱に入れて裏に置いたと言う。


本間は作業を中断して外へ出ると‥裏に回ったところで丁度・役所の人間に出会

い、彼は鮮魚を入れるポリウレタンの箱を抱えており、猫の死体を回収して帰る

ところだった。


「申し訳ありません! 御足労様です。

飼い主が現れたら説明してあげたいので、

確認して置きたいのですが、宜しいですか」本間は頼んで見る‥


「あっ! どうぞ」衛生課の人は、箱を置いて蓋を開けてくれた。

猫の亡骸は、此処の従業員が施したのであろう半透明のビニールに

覆われていた。


めくってみると、白い猫で、額の辺りに薄い茶色の斑があり、頭蓋の一部が

潰れていたが、あの愛想を振り撒いていた白い猫ではなかった……


誰も顧みる事の無い命が、ひとつ失われた事に変わりは無い‥

僅かに安堵した気持ちを、浮かびあがる哀れみの後ろめたさで、

打ち消した‥


「この傷は虐待によるものではないですよね?」本間は尋ねた。


「そうですね、これは車に轢かれた傷だと思います。 

だいたい轢死はこんな感じですから」と言う。


「‥宜しく御願い致します」衛生課の人に礼を言って別れた。


このような店舗の周辺で、虐待による予兆が見過ごされていたなどと言う事が公に

なれば、非難は受けずとも低劣な管理意識の会社として認識され兼ねない。



「最後まで責任をとる事もしないのに、いい加減な思いやりや優しさは無責任

ですよ! そう思いませんか!」


(優しくなれ‥)目でそう言う本間に対して、同じ言葉を梅木は執拗に繰り返した。


彼の信奉するものの基本は権力で、力で恫喝する理屈は理解し易く、暴力が万事

を円滑に推移させる唯一の方法だと確信をしていた。


人間畜生が大勢を占有する、獣の世界ではその通りだが

人の世界ならば過渡期にある化城のようなものだ。


六:四で推移していると思われる憐憫と冷酷の対立は‥

その趨勢を予見する事も難しい。


憐憫は憎悪の前に弱く、冷酷は自愛の後に変化する可能性があるからだ‥



梅木の経験では、自身も同僚も権力には抗えなかったし、いざ僅かばかりの"権"

を与えられてみれば、まず周囲の態度が一変する事に驚いた。


予想外に我が儘が通るので、その快楽に墜ちてしまったのだ。

いわゆる上位に(へつら)い、下位には傲慢となる人間畜生の誕生である。


「どうせ他人だ!」と思う彼の持論は彼一人に留まるものでもないだろうが。


嫌われたって、どうせ他人だ。

怨まれたって、どうせ他人だ。


「究極、自分達の面倒を見たり世話をしてくれる分けじゃない! 

給料をくれる者の御機嫌さえ損ねなけりゃ万事はそれでOKだ!」


だが命の"怨み"は形となって双方に不利益をもたらす事を知るべきだ‥

実際に彼は誰の援護も得られず、不摂生と過労の為に


膵臓と胃の機能を損ない、下痢と尿道結石の常態的な苦しみで時折に体を

横にして休めなければ、業務が遂行できないほどでもあった。


本間が専任して以来、梅木の業務の一部を担ってくれたので、当初は非常に

感謝したものだったが、


「梅木さんの行いや考えた事を、子供達は何時も見ていると思うべきです」

留学後に事故で命を奪われた娘に喩えて、本間はそう言う‥


彼が単に従順な人物ではなく、しばしば命の平等と権利を主張する

言動が垣間見えたので、梅木は警戒心を持つ事もあった。


力のある者がふんぞり返るのなら、余りに当然過ぎる‥むしろ頭を垂れるべきだ。


従業員は穀潰しでも奴隷でもない‥貴方達の舵取り次第で会社に利益をもたらす、

謂わばfifty‐fiftyの関係では有りませんか?


従順を装えば良いのに、本間の信念は雄弁で人間交渉に諂うという譲歩がない。


「一食の糧を得る事は一日の命を永らえる事と、多くの道徳が奨励して

いますが‥」

言いながら本間は複雑な規範項目を一言で語る誤認性を危惧していた。


鋭敏な対告衆(たいごうしゅう)であれば、仏法則の布施は"蚊"にも適用されるかと問うだろう。


―――


「じゃあ、その人が居なくなったらどうなんの?」


「最後まで面倒を見る事もできないのに、そんな無責任な事をするくらいなら、

最初から何も、しない方がいいに決まっているじゃん!」


本間は、梅木の睨むような目を直視して聞き流されないように緩徐として

言葉を選んだ‥


「実は‥何もしないと言う道理もあるんですが」目を丸くして言葉を待つ梅木に

伝えた事は"蚊"の話であった。


蚊を含む害を成すとされる生物は淘汰権を握る地球が介入する範疇で、

人はあくまでも"調律"という立場であり、全体視野から行動を決定すべきで‥


それが因果律です‥当然、通常に蚊を養ってはいけません‥

負の因が発生するからです‥


その為に得た智慧と立ち位置です‥と言っても理解されないので、


「例えば不心得者が散らかしたゴミを、善意で掃除した人がいたとしますね‥

それを継続しないからと言って『けしからん』と、ただ見ている人が言うような

ものです‥」


花は開いて果このみ となり

          月は出でて必ず(満)みち


    燈ともしび は油をさせば 光を増し

           草木は雨ふれば (栄)さかう


  人は 善根をなせば   必ず (栄)さかう



と日蓮御坊は言ってますが、善根とはまず植える事であり、

継続できないからしないと言うのは、面倒で本当はしたくないから

しないと同義でして……


きょとんとしている梅木に、一呼吸置いて言葉をつなぐ。

……

「一食(一善)を与える者が、二人・三人・百人と現れるのなら、結局は猫が生き

続けて持続の中で幸せな"相性"を見つけるかも知れませんしね‥


動物は汚いとか子供が殖えて迷惑と言うのならば、同時に、そもそもの要因に箍を

掛ける法律を適切に進化させて行くのが、人間の責務・善根というもので‥


猫に限らず責任を負うとは言っても所詮・孤立し逃避していて、ひとつの命を

支えきるという事は、まず容易な事ではないです。


実践は現実的な実義として病気や避妊の問題をクリアして果報となります。

通常に徳の高い"人"が対象であれば尚更です‥


例えば企業して雇用する数の数倍に命を支える経営者は、責も重い故に讃えを受け

ますが、それでも命は平等です。


梅木は間を置いて、そうか‥何か‥所々で分けの分からん事を言ってるが、

「複数で支えるという考えはしなかった……」


理解をしたとは思えなかったが、意外な程に沈着な返答を返してよこした。




――――――




小売業では商品を梱包していた段ボールなどの回収廃棄物が必ず大量に出して、

それを展開して折り畳むという、誰にとっても煩わしい作業が発生するものだが、


パートの婦人達にすれば、力を要する手の痛む作業であるから嫌なものだ。


業界用語で物日と呼ばれる繁忙期の仕入れは、何の生産性もない多量のこうした

作業が多くなる。


午前中の制作工程では、山上久美子達や熟練の女性を含む四名の人員と作業して

いた本間の指示で、個々に処理した商品の段ボールは、それぞれが解体して、


煩わしい作業を、個々の行程内で消化していたから別作業で経費を発生させる、

という事態にはなっていなかった。


午後に配送を終えてセンターに戻ってみると、山上と同等の力量を持つ水谷かほる

が作業に合流しており、


「今日の仕事は終わったので、みんな帰るところ」だと言う。


「そうか、明るい内に終わって良かったね」と労いの言葉をかけたのだが、


水谷は「本間さん、明日出勤だよね」と尋ねるので「いいや、明日は休みだよ」と

応えたが「ええっ!うそ-」 と言う。


「何か問題でも?」 


「違うのよ‥私達も明日は休みなのよ」


という事は、明日は責任者と二~三人の手伝いという事は分かったが‥


「よく分からんな何が問題なのか‥」


「時間が無かったので段ボールを潰していないのよ。それで裏に積んであるのよ」


……


「俺にやれという事ね‥」本間は苦笑した。


「違うのよ! いいわ、仕方ない明日、梅木さん達が何とかするでしょ! いいわ」 


と責任者の名を呟き、ひとり納得したようだったが本間は懸念していた。


以前‥やはり彼女が、誰かがやるだろうとばかりに残して置いた空き箱に、

帰ってきて気づいた梅木は「俺にやれってのか!」と腹立ち紛れに


「蹴飛ばしといたよ」と吐露した事がある。


実力のある彼女達には、激昂した時でもなければ、それほど文句を言う事もない

と思われたが、さすがに"骨惜しみ"の山を見ては間違いなく誰かが、


或いは全員が嫌な思いをするものと本間は予想した。


「できないものは、できないのよ!」と彼女は自分に言い聞かせた。


それぞれの僅かな横着で、本間が汗だくになる程の作業経費を発生させた事に

気づいた水谷以外の女性達は、代わる替わる「手伝います」と申し出たが、


定時も程よく過ぎて、暗くなってきた事もあり「気にしなくていいから帰って」

と言って本間は謝意を遮った。


――――


昨今の新規採用-就職現場に於いて重要視されるコミュニケーション要素を学ぶ

のならば、まず論語の一説が思い浮かぶ、孔子の論語は広く周知の儒教であり


二千五百年ほどの時を経た今でも、光彩を失ったとは言い切れない深淵があって、

今となっては世界中に、その信奉者は多い。


孔子には孔門十哲・七十子といった多くの弟子がいたが、中でも弁舌と商才に

長けた子貢(しこう)から生涯に守るべき信条を、一文字に託すとしたら、


どのような文字か御教え下さいと乞われた。


孔子は即座に、まず"恕"であろうと応えた……


恕には許すという寛容の意味があり、また常に相手の立場を理解する事を言う、

つまり寛容と言う側面から応用するならば、自分がされたくない事は、


自分からもしないという事であり、それは全てに通ずる道理であった‥



―――



歴史の中で恕と言えば、周恩来翁を思い浮かべる……


戦後補償と報復心に沸き立っていた中国の世評を敢えて押しとどめ、


もし今‥中国が戦後補償を求めたならば、このうえ苦しむのは日本国の人民なの

であるとして、その権利を放棄した史実である。


時代を詳述した教科書は恐らく存在しないだろう。


もっとも‥大哲学思想の宝庫であった中国自身が論語も"恕"も捨て去ってしまった

大戦後の過ちで、しばしば隠蔽し歪曲して汚職する現況を顕現している気もする‥


どの国も似たり寄ったりの、嘆かわしい事実ではあるけれども、

全ては"教育の質量"に依るものなのだ‥と思えてならない。



―――



本間は初対面にして現在の職場と、従事する人々の問題点を瞬時に読み取り、

すなわち全員が互いに尊重し、思いやる心と寛容さが欠如している事を知り、


如何にして伝えたら良いものか苦慮するようになっていた。


そして、こうした職場の多くが女性達の能力と努力によって大きく支えられている

事実を感じていて、自分の報酬さえ彼女達の労力に依るところが大きいと

考えていた。


彼女達に会った時には、自身は安物しか口にしなかったが、感謝の気持ちが

あって、やや高級なチョコレートなどを買い、彼女達を時折に慰労した。


当然のように当初は違和感をもたれ、下心があるのではと邪推されたものだった

が、本間は、もちろんその全てを予想していた。



継続する事で共感を持たれる部分も少なくはなかったが、おおむね本間のいない

場所では、話の肴になる事もあったのだが、自らの行いに一点の曇りも無い事を


自覚している本間にとっては、的外れな邪推や認識が、やがて別離を経て‥

彼らの良心の葛藤に繋がる事も、本間は知悉していた。



水谷と山上が泣きたくなるほど正当に評価をしない会社の処遇も理解していた 

ので少なくとも、これ以上彼女達の自尊心を傷つけたくは無かった事もあって、


彼女達が避けたがる重いゴミ出し、塩素を使う為に手荒れを厭う作業手袋や手拭い

などの洗い物も、気がつく限り本間は率先して行っていた。



以前そうした作業には、殆ど山上が従事しており、気の毒と感じていたからだが、

そうした本間の行動に対して、この梅木という責任者は不満を持っていた。


自分という監督者はそうした作業はしないものと言う習慣が崩壊しかねない

暴挙と見ているからだ。



「最近、水谷さんの機嫌が悪いんだが、本間さん説教とかしてない? とにかく

今は笑わせる以外の事は言わないで下さい」と言いながら紫煙を吐いた……


―――


KYと言うwordsは、あんたの為に造られたんでは! と落胆もする‥

薬の併せ飲みと、喫煙を繰り返す梅木に「危ない薬に依存しながら煙草を吸って


いたのでは、自己矛盾で好転しませんよ」と警告してしまうが‥梅木は

「死んだら死んだで娘に会えるからいい」と再び都合の良い楽園願望を持ち出す。



―――



常に物日の忙しさを不満としていた水谷は今回、自身の担当する店が忙しいと言う

理由で、センター作業には参加しなかった‥梅木の反応が気になったのか、


「もう在庫が充分なので、こっちのお店には発送を止めて下さい」と反応を見る。


最終日も近い追い込み作業の渦中、センターでは、労力を集中させていた‥

水谷は要領を使っていると言う不満が梅木には鬱屈としていて、


「そんなゴチャゴチャした事を言ってると面倒の元だから、とにかく予定分は

発送するから、その通りにして!」 と少々語気を強めた事が発端である。


水谷曰く「ゴチャゴチャ言うな!と言われた! もう我慢できない! 物日が終

わったら辞める! 」鼻息も荒く本間に言った


「違うよ。そう言ったんじゃない」


なだめても「何が違うの? 側で聞いていたんでしょ! そう言ってたじゃない!」

物の怪が憑いたように、目は吊り上がり聞く耳を持たない。


「悔しい気持ちは分かるけど、一時の感情で短慮は起こさない事だよ……」 


「分かるなんて言わないで! 分かるわけない! 当事者じゃないんだから!」


背景にいる顔も知らない亭主の姿さえ思い浮かぶ一瞬だ‥


「むしろ分からないって言ってくれた方が、ずっと楽よ!」


……


「一時の感情じゃないわよ!  ずっと我慢してきたのよ! 悪いけど本間さんなん

て、日も浅いから、どんなに私が嫌な思いをしてきたが分からないでしょ!」


当たり散らす‥


「そうだ‥だがとにかく、落ち着いて考えた方が良い……」再就職は大変だ‥

実際、彼女自身の生活もさることながら、水谷が抜けたら、どれほど部所の各員


に負担がかかるものか‥決して有益な事になるとは思えなかった。


娘がジ●ニーズのファンで、自分もおっかけをしていると言う水谷のおかげで、

オヤジ同様に女も若い肉体に憧れるのだと、大変に遅ればせながら


"聖女"しか見ていなかった本間と僕は始めて知った‥

笑いながら感謝して認識を改めた‥


「ごめん! 無理!」薄笑いを浮かべ、本間を振り切って歩き出した足運びが、

猫の二足歩行のように、ヒョイヒョイと不自然だ。


(ん!?) 驚いて見送った彼女の横顔から再び面妖の陰りを感じ取った‥


人が人で在るための"思い遣り"を失った間隙に"魔物"は棲み憑く‥そして

周囲に(あだ)をしながら憑依した体も環境も腐らせて抜け殻を残すように、消える……


―――


本間は陰湿な梅木に対して、始めて怒気を含む言葉で打った‥


「梅木さん、貴方は何故いつも人のせいにするんです? なぜ何時も真実から目

を背けるんですか? 分かっている筈でしょう!」


しかし水谷かほるが、その為に辞めると言っているとは本間の口からは言えず、

言葉を飲んで、出掛かった牙を危うく収めた。


「辞める!」とは言うものの、性格の悪い水谷は「円満退社したいから言わないで」

とも言い、単に思わせぶりな愚痴である可能性もあったからだ。


「辞めないわよ」山上久美子に言わせれば、水谷は出戻りで、以前に退職した

ものの再就職先が辛くて帰ってきた。と言うほど思慮と節度が稀薄だと言う‥


―――


‥「いや、ちょっと待ってください! こんな事で本間さんが、そんなに怒るとは

思わなかった‥このまえ、水谷さんの機嫌が悪かったと言うから、

本間さんが何か説教したのではと思ったのですよ‥違うんですか?」


「大きく違いますね」


貴方に対して不機嫌だったんですよ‥と気づいて欲しかったという言葉も、

飲み込んだ‥自覚していた筈だ。認めたくないだけだ‥そう思った。


この頃になると本間に対する梅木の感情は複雑だった。


所謂、腹の立つ事も多かったが、何故か憎む事ができない‥

議論が楽しくなってきたからだ。


何しろ本間は言葉を濁す事が無い。


遠慮もしないが一々の応答が誠実に思えた。

過去に出会ったどの人間ともタイプが違う‥


「本間さんが中途半端な気持ちでゴミを捨てに行ったり、手袋を洗ったり

するけど、それは彼女達の仕事を奪う事になるし、それは本間さんのする事で

私達の仕事では無いと考えるようになるだろう」


互いに感情を悪化させる事もなく遠慮せずに言えるという事は、人の鬱屈を発散

させて安定をもたらすと言う事だが、親子の情愛の中では多く出逢う光景だ。



「本間さんが居る時はいいけれど、居ない時はどうなんの?  それって無責任って

事になりません?」


「人がやってくれるのならば、自分はやらなくったっていいや!」 というのが

人間の本質ですよ。そうなったら、本間さんが無責任だって事になりませんか?」


現実は殆ど、そう言う事だろう本間とて分かっている‥

梅木は勝ち誇ったように続けた。


「段ボールの処理だって、おい! やれよ! って言えばいいんですよ」と言う。


(そんな事は損する事だから止めておけ! これを見逃したらお前

まで損な事をする羽目になってしまうぞ)


と心に隠棲する悪性に囁かれている瞬間だった。


一方で、梅木は善性の囁きも聞こえるので葛藤が始まり、迷いは答えを欲して

常に相対する本間に反発し、その反応を窺った。


善性の囁きを援護するように本間は言葉を紡ぐ‥


「相対的な仕事に対するモチベーションと言うものは、私ばっかりで損した・

得をしたとかの幼児的な発想ではなくて‥


人の避けたがる事を、自分はできたと言う充足感が、自信に変わり得ますから」


梅木は不承知の面持ちで眉を寄せる‥だが

魂には撃ち込んだ‥本間はそう読む。


――――


唐代に著された貞観政要という書物がある。

所謂、帝王学と言っても、学問として確率されたものでもなく‥儒学の道徳観を


色濃く滲ませている東洋流の頂点に立つ者の心構えを、体系的に説いたもので、

極めて広範な徳目が記されているが、


要は大きな世界観を持ちながら緻密であれと言う事になるだろうか‥一度は教育の

場で全ての人が目を洗い、一部の惑いを解くべき内容の一書だとは思える。


――――


余儀には関心を持ち難い梅木の知人を主人公にして、実感が伴う例え話を本間は

考えた‥ 


「人望はどのように築きあげるものかと言えば、例えば他店に転任した佐宗さんの

ように部下の境遇を引き上げる為に、努力を惜しまない事だと思います」と


他の正社員同様な業務を、パート環境で八年も続けていた若者の希望を酌み取り、

佐宗は若者を社員として雇用する事を推薦し、本社に打信した事がある。


若者が言うには「健康上の理由」と言う事で処遇改善には至らなかったが、

彼は佐宗に感謝していた。


本間もまた、友人の苦境を見るに及んで、とりあえずの職を佐宗に相談してみると

数日後に面接しようと言う返事をもらった経緯があって、佐宗に感謝していた。


佐宗は東北の出身で、およそ社内全店の店長を経験しているほど真面目で実直な

人物であったが、その労苦の為か三叉神経に出る帯状疱疹を経験していた。


重大事を指摘して早期治療を奨めるパートさんと、的確な治療を施してくれた

医者がいたおかげで、佐宗は顔が歪んだり後遺症に苦しむ事もなく完治した。


各店を転任して、あらたに不振運営を任される責任の重大さとプレッシャーは、

おそらく経験者でなければ知り得ないと本間には思われた。


少なからず本間がリーダーとしての姿勢を、梅木ではなく、佐宗を例にとって

賞賛した事に、梅木は僅かに不満と嫉妬を感じていたが、


喰らい合い蹴落として生き抜く事が合理的と捉える不勉強にとって、高級外車にも

乗っていないような本間が称える精神論など、究めて陳腐な言説とも受け取れた。



本間が佐宗を褒めれば(お前の観察眼など稚拙な幻想だよ)

とばかりに佐宗の不都合をさえ明かしてしまう‥



「そうだね店長ともなれば、店の回りを回って何カ所の問題点を見つける事が

できるかだが、俺の場合は五メートルも歩くうちに幾つも見つけるよ」


「佐宗さんもそうだね‥よく巡回して掃除もしている。 

猫がいた時など誰がやるのか知らないが、フードの缶やら何やら十個ばかり


散らかしておいて片付けもしないので、掃除が大変だったんだよ」


「そう言えば、あの愛想を振りまいていた白い猫を最近見かけませんね‥」


と時折に気になっていた事を思い出し、

本間は「‥どうしたんでしょうかね」と梅木に尋ねた‥


「ああ、ブンジさんが捨てました」事も無げに佐宗の名を出した。


「えっ?」本間は聞き返すが、その眉間を曇らせたのを見て 梅木は、


「佐宗さんが箱に入れて遠くに捨てに行きました」と言い直した…… 


―――


本間が無言でいると自身を納得させるように‥


「そうだよな、猫だからモグラなり何なり獲って生きていけるだろう、うん!」

と呟いた…


梅木自身の自宅にも、散々に苦労をかけたという息子が置いていった

血統書付きの一匹を含む四匹もの猫を飼っていて、


最初は嫌っていた奥さんも今は可愛がっていると言っていた事がある。

一時は暴走族の構成員となり、麻薬に手を染めた結果、獄舎にも繋がれ、


元来は気持ちの優しかった子だったのだろう更生を決意した息子のいる

梅木の自宅に、暴走族どもは連日、騒音と恫喝をまき散らし

嫌がらせにやってきたと言う‥


梅木はひとり体を張って、それを説得した経験もあるのだと本間は言った。


梅木自身も「ひどいことだ」と心の奥の何処かで、呟く言葉を聞いたのかも

知れないが、佐宗と同様に社長なり、会長なりの叱責と処罰を恐れたのだろう‥


―――


優しい人と横断歩道を楽しそうに走る君 幸せそうだね


うち捨てられたあの子は おいてけぼりの山道で とても不安そうに瞳をむけた


裏切り者と僕を間違えて 「あっ迎えにきてくれた」一瞬の喜びのあとに見せた


失望の色‥


ちっちゃな雀は逞しいね とても広い世界でも生きている


でも悲しいね 捨てられたあの子は 独りぼっちで絶望してる‥



―――



「本間さんが引き留めてくれるし、一人でも分かってくれる人がいるなら

現実的になって我慢してみるわ」などと口幅ったい言い訳をして、


水谷は離職を思い留まったが、退職と言う脅迫状の効果は予想以上にあった。


梅木は、本社の管理評価を恐れて水谷に何も言えなくなり、増長した彼女は一方的

に忙しい入荷日の殆どを、自身の休日にしてしまったので、


その負荷は皆で分担する事になった。

「今は誰にも会いたくないのよ!」それが理由だった。


とりわけ水谷の担当店の労力減退分を山上が担う形となれば、彼女の心中も

穏やかではなかっただろう。


「どのみち今までだって、一人で頑張ってきたんだよね‥」

……

「人より仕事をして損になる事など何も無いよ‥」


経験から導き出した答えと異なる本間の言葉に


「‥そうかしら‥」山上は戸惑いながら応え、まるで少女の時のように

彼の言葉を信じようとしている自分に頬を染めたが、


「そうさ‥」少しも気づかない本間はそう言って彼女を慰めた……














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