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犬飼いが猫みて進化を想う件


小雨そぼ降る日曜日の早朝、車庫入れをしようと前部を路地に進入させたところ、

この周辺を縄張りとする歴戦の猛者猫が、車の陰からトボトボと歩いてきた。


彼は生き残る為の戦傷で跛行(はこう)になっていて、片眼になった目も良く見えず

視認が遅れたものなのか、驚いて来た道を戻ろうとした。


その進路を妨害した事を気の毒に思い、確認しながら車両をゆっくりと猫から

離す‥「僕には君が見えているよ。バックをするから‥そちらには行かないから‥

大丈夫だよ」と念じて待つ……


偶然にも彼は見え難いのであろう見上げた目を細め、小さな鼻を小刻みに震わせて

状況を嗅ぎ取った上で、安心したように当初の目的方向に戻った……


もう、彼のサバイバルツールは嗅覚だけに成りつつあるのかも知れないと感じた‥


彼の一世代前にも傷だらけの猛者猫がいて、此の周辺に捨てられた猫や狸たちと

生きる為の抗争を繰り広げボロボロになって他者を駆逐し、僅かの縄張りに君臨


していたのだが、時折に日だまりの大樹の根元で、

大儀そうな体を丸めて微睡んでいた。


或る日‥同様に穏やかな日差しの吉日‥

「……そろそろお別れだね」と声を掛けた‥


目を細めた顔をあげ「にゃー」と答えるかのように……一声・鳴いた‥

弓形に閉じられた二つの目蓋は笑いかけているようで‥

とても歴戦の猛者猫には見えない‥


その後、彼の姿を二度と見る事はなかった。


此処は‥なだらかな山の上に位置していて多くの命が捨てられて行く‥

その数ヶ月後に、戦傷が深すぎて生きづらかったのだろうか‥


まるでデジャヴのようだったが‥違う‥

片眼の猫も大樹の根元でうずくまり「にゃー」と挨拶をして……


捨てられなければ片眼にも成らなかっただろう‥満身創痍の彼は‥強がって

いたけれど彼女だった‥(信じ合える"誰か"に一度も逢えなかったんだね……)


そして"彼女"も此の地から去った‥



―――


土橋祐子という初老の婦人が、道路を隔てた反対側の集合アパートに住んでいて、

果たして何がきっかけで、知り合ったものか僕はどうしても思い出せなかった。


彼女は一人暮らしで、この周辺の狸達や捨てられた気の毒な猫たちに、小遣いを

はたいてキャットフードやら寝床やらとの世話をやいていた。



時折に気寂しくなるのか、我が家の庭に訪れては垣根の向こうから埒もない話で

時間を潰し、貰った物と言っては、しおれた野菜などを置いて行くほどの

倹約家ではあったようだが‥


保護対象が野生や野良猫であった事から変わり者とか猫おばさんとか

周囲の反応は、ありきたりに良い筈はなかった。


初老の婦人にありがちな、髪の減少と容色の衰えを彼女自身もよく認識しており、

寝起きの鏡を見て、僅かにも自信の得られない有様であった時には、


誰が訪れようと、扉の向こう側から声だけで対応する事も多かった‥


ある時は「車を傷つけられたが、あそこの亭主に違いない」と隣家の主人に嫌疑を

あからさまにして、聞く人を当惑させた。


或いは面倒をみていた猫の一匹が毒殺されたが、通り向かいにいる一人住まいの

壮年が怪しい‥いや、やったのだと言う。


その何れもの確証が無い事から、無論の事に対応はできなかった。

ただ、初老の女性が一人住まいで、不審を打ち明ける存在さえ皆無であれば、


残るものは恐怖心が手招く猜疑だけであろうと僕は思った。



或る日、彼女は事故を起こした。もう一方の当事者は‥認めたくは無いが

自分よりも若くて綺麗には違いない‥女だったようだ。


世間一般にある相対的な天秤が此処でも活用されて、

土橋は吐きそうだったと言う。


女は警察官に媚びを売るように声色を変え、自慢の肉体を特徴づける三百とも

言われる骨間接を、雄が最も魅惑視できる角度に配列して自分の正当性を訴えた。


そうして初老の土橋など物ともせずに"不利な立場"に追い込んだ‥と彼女は言い、

嫌らしい奴だったと罵り、ひどく憤慨していた。


生まれながらの輝くような魅力だけでも、若い頃の女性であれば一度は

使う魔法が、今は使えなくなった嘆きでも あったのだろうか……



でも僕も、そうした"いやらしい女"を"幾つ"か知っている……

新人で事務所に配属された若い"女"は、はち切れるばかりの肉体の持ち主だった‥


少し小さめのワンピースはミニ丈で、座れば露わになる光沢のある太腿を、

意図的に男達に向けた。


膨れあがった胸の二つの隆起を惜しげも無く突きだし、ディナー宜しくデスクに

乗せて、何も意識してませんと言いたげなその顔は、

とても少女のように微笑んでいた‥


或る時"女"は郊外のショッピングセンターの明細を見せて「こんな領収書が入って

いて、お金が無くなっていました~」と当惑したような顔で言った。


勢い営業の全員に嫌疑がかかったが、今までかってそうした醜態は一度も

無かったし少額の金庫番は彼女の守備範囲だ‥トイレに行く時間は目を離す……


そう言いたかったのだろうが「彼女は危ないです」そう見る僕に対して

"擬態能力を進化"させた彼女達は決して近づかなかった。


「わぁ~私やりたいですう~」と言って部長等、男達と同席したゴルフと麻雀では

当然のようにミニスカートの奧をさりげなく彼等に覗かせた。


「証拠も無いのに、そんなことを言うもんじゃない!」鼻の下が伸びた部長に

あれは彼女が領収書と札を入れ替えている姿だったんだ‥と言っても、


否定的になるのは想定内の反応だった。

彼女達が産み出し育む世界は、きっと疑心暗鬼に満ちている事だろう‥


僕がそこを去った後も、それは数回続き被害額も多くなっていったそうだが、

僕の関心はすでに途絶えた……


僕は思う‥大小・是非を問わず、

そうした魔法を"使わない"女性に出遭う事は希だ‥

保身は彼女達の遺伝子レベルの命題であり猫達は更に体を武具化して対応したが、


人はどうか? 掌を返し相手を欺き倒す、狡賢さを進化させたのではない

だろうか‥いや僕は確信している‥


そしてそれは現在進行形で進化と生存競争は続いている。


もうひとつ思い出した事を話さなければならない……"女"達だけの闘いでは

リスクも高く、収奪する糧も少ないと個体は感じていた筈だ。


何しろ、生存する為には収奪する一方で集団の和を保たなければ成らない‥つまり

群れていなければならない。


代々の体を進化させて強奪に特化した"男"を創る…否、自らの体を変化させた

と言い直そう‥性としての"女"は自分達だけで増殖する事は可能だったからだ。


そうしてできあがった"男"は非常に多くの欠陥を内包していて、例えば

格闘戦に特化する為に不要な臓器は尽く退化させてしまい‥ 


鎧皮を強固にする為に筋肉量を増強したので彼等の増殖には"女性体"が

不可欠だった。


そうした二元性は必然で、性の境界はそれ以後も個別に進化を遂げて行く過程で

鋭敏にそれぞれの嗜好を分析し、変態し擬態する能力も身につけた。


その為、本来はGuardianとしての任務と階層を逸脱し、強奪に特化した戦闘力で

多くを奪い合うようになり"女性体"も奪い合う対象として時に隷属を強いた。


甚だ目論みが外れた"女性体"の進化は実利を重視した"誘引"と言う能力を高めて

"男"と言う種を選別し選択する事ができるようになった。


生き易い形態は一様ではないから人一種でありながら多様化して相争うだろう。


単純に肉弾戦を続ける動物達ならば、より健全で頑健な子孫を残す雌を選ぶが、

人はどのように進化していると思うだろうか……



―――――



少なくとも‥忘れ去られるような小さな命達にとって、土橋祐子の存在とは、

一日の食をつなげる一時のオアシスとしての存在では、あったかも知れない。


―――――



仕事で腰を痛め、効果のほどは僅かに懐疑的でありつつも、低周波治療器に揺ら

れて寛くつろいでいた日の夜、そんな彼女が呼び鈴を押した。


何事か? と出てみれば「面倒見ていた狸夫婦の片割れが、轢かれて死んでいた

ので、深く埋めなければならないけれど、スコップが無いし、手伝って欲しい」

と言う事だった。


もっと深く掘って‥と言った土橋に、少し苛ついた僕は「腰が痛いんですよ!」と

言ってしまった過去を‥言ったその日からずっと後悔している……


ある時には、面倒を見ている老猫が帰れなくなっているようなので、一緒に探して

欲しいという事で、夜中の山中をサーチライトを手に探し回った事もあった。


今思えば、それは大変、危険な行為だったに違いない‥マムシもいれば猪もいて、

熊出没の可能性もある境界であり、


何より土橋祐子そのものが危険な存在だったのかも知れない。

何しろ山中の事であり土橋の機嫌次第では、あり得ない冤罪を被る事もできた‥


老齢を衰退として次第に病んでいく彼女だったが輝かしい過去もあったようだ。

若い頃には周囲の反対を押し切って、国際結婚を経て英語力に堪能であったから、


自らをしてネイティブスピーカーと誇り、その為に勤めていた英語教室の上司を

軽視する言動もあり、典型的に他と衝突する要因を孕んでいた。



伴侶の影響もあってキリスト教に帰属したが、子宝に恵まれなかった事もあって、

伴侶との別離とともに現地の親族や仕事との絆も断たれて、傷心のうちに帰国した


ものの、出国した成り立ちからして国内の親族との関係も疎遠のままであった。



異性が求めるものは、しばしば道義を逸脱する傾向があり、失った間隙を何れに

求めるものなのか‥思ってもみない現実に愕然とする事がある。


その為、土橋と同年代である知り合いの薄井和子に土橋祐子を紹介して

交流を依存する形となり、当初はうまくいっていたものの、


次第に土橋祐子の非常識が、薄井の鼻につくようになった‥


例えば、お土産と言ってはレストランでの食べ残しを箱に詰めて持ってきたと

薄井を憤慨させ、身投げの多い橋が暗くて細く怖いので、迎えにきてくれと

車の迎えを出させたりで、


「全く感謝の念の無い、甲斐のない人だ」とサジを投げられてしまった。



御義口伝(おんぎくでん)の第三唯以一大事因縁の事の中には、 


  衆生に此の機有って仏を感ず、故に名づけて因と為す

            仏機を承けて而も応ず、故に名づけて縁となす

        是を出世の本意と為す  



そもそもの仏性を含有する命であっても、  仏性を顧みる機を因として

   仏に会い感応して 縁を結ばなければ  仏性は顕現されない

         仏は仏性を誘発する事を本意としている



覚者は此の地にあって、また広く深く言葉と文字を駆使し、振る舞いを通して

感化していくのであるが、当然の事ながら不同意と反発は当然に、まるで試す

かの如く仇を為す者も現れる。


とはいえ、現身を持つ個々人の、誰をもが咎める権利など持ってはいない。

歳を経る毎に、孤立した環境は得てして常軌を逸した境涯に陥り易く、

そうして不遇を受け取る事になる。


そうは言っても生半可を超えてはいけない境界と言うものが存在する事も、

また現実なのではないのだろうか……



そんな或る夜、扉を叩く音に出てみれば、彼女が立っていた……

電池交換式のチャイムである事を忘れていた僕が悪かったのだ。


東日本大震災を経て老朽化も因となり、土橋祐子の住むアパートにも壁に

亀裂と隙間ができたと言い、別棟のアパートが建築会社の寮として貸し出され、


そこの住人が一度盗みに入ったようなので不用心を恐れ、

この機会に引っ越すと言う。


ついては不動産屋に提出する賃貸の書類があり、保証人になってくれないか

という頼みだった。


「なるほど‥」と思いあたり彼女に説明する事となった。



「賃貸の保証人というものは、他人が軽率に引き受けられるほど単純なもの

でも有りませんよ‥


連帯保証人は身元(引受人)保証人(3年乃至5年)とは異なり、

契約が白紙になるまで保証責任が消滅しないんです‥


貴女が家を壊し、家賃を滞納して不明になっても、保証人は責務を負う。

僕には身内がいるので、とても了解は得られないでしょう」

……

「まず身元が引き受けられるような親族から承諾を得なければいけません」

と言っても、不承知ならば彼女にとって全く意味はないだろう‥


「家賃は私が払うのだし、私の金を狙う親戚しかいない」と言う、


「仮に財産を狙う親族がいたとしても、それとは別の問題です。 

それとそう言った場合に、 必ずしも保証人が必要とも思われないので、


僕が聞いて見ましょう‥どこの不動産屋ですか?」と尋ねたのだが、

「前は友達がなってくれたけど、じゃ、いいや」と話は終えた……


もう友達ではないと言う事なのかも知れないが、では逆の立場なら

どうするのだろうと言う興味も湧くが、その機会は無い‥


土橋祐子の玄関前は、面倒をみていた野良猫や狸達の、使い捨て食器やら

段ボール箱のゴミやらと散乱していた事から、引っ越し時には相当数の


ゴミも出たようだったが、シルバー派遣を上手に"駆使"して片付けていた

ようだった。そうした生活の知恵は常識的以上に備えていた様に思える。


場合によっては手伝わなければいけないと思って、彼女宅を訪れ

「保証人の件はどうでしたか?」と尋ねると  


「ああ、保証人はいらないそうで良かった」と言う。


「そうですか良かったですね。 引っ越し業者を頼んだんですか?」 


「いや、シルバー人材を頼んだんだけど、仕事しないのでクレームを

付けようと思っているの。


お金を払っているんだから、ちゃんとやってくれなきゃ‥それにね」 

と小声にして彼女は、


「最初に来た人が、物を盗んで行くので断ったのよ」と言った。


ああそうか! と思い至った‥単にお人好しな善意に突っ走ったところで、

良好な結果が待っているとは言えないんだな‥


事の是非ではなく人の深層は実に複雑であるから、有らぬ疑いを掛けられ

かねない行為は慎まなければならない事もあるものだと、深く学んだ。



半年も経つと、彼女と猫達が住んでいたアパートは跡形もなく取り壊され、

更地となった。


数年間続いた非難を受けながらの、やや独善的な彼女の保護活動が、

ここでは終わりを告げた。


幸いここしばらく捨てられた動物達とも遭遇していない。


朝靄のかかる朝に、通りかかる僕は常に振り返り、思う‥

彼女の欲するものは、きっと何も与えられなかった。


腰の痛みを堪えて、土橋祐子の希望通り深い穴を堀り、気の毒な夫婦狸の

片割れを弔った事も、山中の闇夜に猫を探し回った事も、


最後に転居の際の保証人になる事を断った事で、おそらく彼女の人生には、

一人のお人好しがいたと言うだけで何の好転ももたらさない事なのだろう。


振り返れば、もうひとつ思い出した事があった‥


土橋祐子が引っ越してくる以前に、そのアパートが屋根のついた骨組みだけだった

時の事、ある夜に近所の奥さん二人が、弱っている猫がいるのでどうしようと

言って訪ねてきた。


二人は病気の感染を恐れて、保護しようとした筈の弱った猫を触ろうとはしない。

滲み出るように、本気では無い気持ちが感じられて、僕は少し‥

苛立っ様に猫を抱き上げた。


彼女達が用意した段ボール箱に入れて様子を見ると、目を瞑りジッとしている。

彼女達は発見者でありながら「どうしよう?」と決断する意志は無いようだった。


話す事も憚られるほど、その時の事を僕は今でも後悔して恥じている……


この時、僕の命は曇っており、実に無慈悲だったというべきだ。

どんな時間であろうと病院を探すべきだったのかも知れない……


―――――


僕はこれより数年の後に、血だらけになって路上放置されていた犬を、

車に乗せて連れてきたと言う女性に動物病院で出会った。


すらりとした上背のある彼女は、白くて長い指が印象的で、当に白魚の様な手を

していたが、血に(まみ)れる事を少しも厭う様子もなく犬を抱き上げた……


そんな彼女には何の気負いも感じられず、呼吸をするかのように犬を保護して

何処かにいる不心得者が受けるべき(とが)を彼女は哀れな犬に微笑みかけ

ながら自ら背負った‥


たった一度の出会いである彼女から教わったものは、僕の一生の大事となり、

信念となったが同時に、この女性を娶るであろう未来の見てもいない果報者に、


不思議な嫉妬さえ覚えた‥愚かな妄執を頭から振り払う……だが

彼女の神々しい横顔を‥今でも忘れる事はない‥


翌朝、思い直した僕は猫の様子見に行ったが‥その姿は無かった‥猫は回復して

去ったのだろうか、それとも‥此処を死に場所とする事を恥としたのだろうか‥


傍観者になってしまった僕には、もう知る術もない……

段ボールの箱が空しく置かれていた場所こそ、


土橋祐子が住んでいた長屋風アパートの造りかけの玄関だった事を思えば、

彼女が去った今、僅かな事だが不思議な因縁を感じる。


そして再び心に問いかけ‥自分に問われる‥ 

これで良かったのだろうか、僕は岐路を過たなかったのだろうか……





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