陥穽(おとしあな)
その上司は十五年ほど前に二十歳になった最愛のお嬢さんを事故で失ったと言う。
大型ダンプの左折時巻き込みによる過失致死だった。
以後の時間を喪失したかのように涙して過ごし、復讐してやりたいという想念が
拭えず、加害者自宅の様子を覗いに行ったところ、中から漏れ聞こえてくる
家族の笑い声を耳にして、とても複雑な心境に陥ったのだと言う。
世間一般にそうであるように、賠償問題にからむ裁判にもなった。
かなりのヘビースモーカーで、体に良くない事は認識しているが、死んだら
死んだで娘に会えるから良いと思っていると言う‥
無信仰であると誇らしく語る人の、如何なる思想を依拠としたものか、
多くの日本人はそうした妄想で無知を感化し、未来に厄災の種子を送る‥
彼はあまりの悲しさに恐山のイタコを訪ね、その時に知る筈のない事を巫女が
答える降霊を体験したと言い、信じていたいが為にすっかり霊界の信者となった。
人はそれぞれに心の傷を何処に負っているのか、他人には計り難いゆえに、
軽々に受け答えする内容とも思えず「それは、辛い経験でしたね」と言って
本間は会話を終えたのだそうだ。
生老病死を含んだ死生観を説く宗教・思想・哲学と言うものが、本来、
実社会から隔絶された環境に拘泥し 葬儀や山籠もりに象徴されるようなものでは
ないと彼は考え、根拠無きを妄想・妄説と呼び、固執して我見と両断する。
事に未成熟な発想は妄想へと誘い、同調者を不遇な境涯へと落とし込むと嫌う。
その確信は東洋の経説思想に依るが、信仰思想を実践して実証を得られない
のであれば、苦悩する現実世界で意味はないんだ。とも証左は明瞭だ。
まやかしや気安めでは何事も好転する事は無いのだと言う。
まして神秘主義者や社会経験も不足しがちな専従者に人生説法を伺い、
指針とするようなものではありえない。
世法であるならば泥まみれの庶民の方が、よほど聡いと確信していた。
明確な自分の立場を表明する人の勇気は少ないが、伝えた以上不誠実で
あってはならないと考えてもいる。
それは立場や環境の変転に惑う事なく、本間自身が不退の決意を
貫徹する為の必然だった。
信仰の肝要は極楽や天国などといったFantasyな側面に傾倒するのでは無く、
この地獄のような現実世界で、如何に人として自他の振る舞いを矯正し、
実像世界に投影されるべきものであるかという事に他ならない。
彼は作家である宮沢賢治の生涯も大変に興味深いものだと言う……
確かに宮沢賢治の作品は法華経を依体とした日蓮の思想観に溢れている。
しかし、そうした生命観を自然に備えた賢治や金子みすずの存在が周知となった
のは彼等が逝去後の事であり、その心情が後代に等しく継承されていたかどうか、
詩人や作家の姿としては示唆的だった‥と言う事だろうか、
過去は学び教訓するものではあっても、やたらに耽溺するべきものでは
ないとした持論である主観を語り、その後に特定宗教に所属しているなどと
明かされたら、如何ような人であれ、気まずい感情が湧き起こるもので
あろうとも、本間は言う。
宗教は胡散臭いという通念を持っている人が、宗教批判を散々に吐露した後では、
その後の会話にも恐らく相互に立ち入れないと考える境界が生じ易いもの
なのかも知れない。
物心のついた時、本間は両親の計らいで西洋宗教に所属していた
事を知り、大人達の行いを素直に見習ってはいたものの、
「神の御心は計り知れない」「神は天上で人の行いを嘆いておられるのです」
という説教に触れる度に‥
儚い畜生の母でさえ、取るに足らないと人の軽んずる子を命懸けで護ると言うに‥
学べば学ぶほど巨大となった既存宗教の教義に懐疑的になった。
無教養を背景とした盲信が巨大な組織として機能する場合には、仮に正しい教義
であったとしても弊害は生じて、やがて無茶ぶりを発揮する事だろう……
或る時に先輩から宗教団体への入会を奨められ、仕事での恩義を感じていた本間は
日蓮の書籍を具に読んで、時の摩耗に耐えられる教義だと確信したが、
充分だとは思えず、これ以上は内に入って学ぶべきだと思って入会したものだ。
結論として教義の矛盾は無いが、個々の徳性を超えての悟達も無いと思い知った。
例えば古い寺族の指導を受けて会員は鳥居を潜ってはならないとした通説を
守る人もいて(アホくさい!)と先輩幹部に吐露して大いに嫌われ……
それでいて乱痴気騒ぎのような祭りを見ては「守るべき根拠がない」と言っては
眉を寄せ、地域の融和を説く組織の顰蹙をかった。
安直な迎合が招来する永劫の弊害・歴史の証明を、何より恐れていたからだ。
多様性を尊重すべき教義でありながら、単一指向性の封建主義に陥る組織を憂い、
保身の為に悪戯に群れる危うさを嫌い、かといって自身が紛う事の無い存在である
と言う程の精神病者ではないから、仲間とは一線を画せざるを得なかった。
ようは四面楚歌の境涯に、自ずから陥ったと言う事だ。
それでも、後年になって修正を余儀なくされるような根拠の無い習慣や迷信は如何
にしても維持してはならない。
そう思う彼の信念は一貫して変わらなかった。
本間が主義を明確にする事で当初の批判が疑問へと変容していく可能性も生じる。
その上司は、宗教に対する一般的な心情でもある勧誘という煩わしさを警戒し、
当然のように本間に対しても見当違いな予防線を張った。
「何事も組織となれば、庶民にとって好ましからざる存在になるよ。
どう個人が頑張ったって、それは変わらない。
組織となれば金がかかり、そのために本を書いたり売ったり、ましてや宗教
なんか聖教分離の原則があるのに、別組織とはいえ政治に顔を出したりすれば、
歴史が示すように宗教は必ず危険な存在となる。
宗教組織が大きく力を持てば、必ず悪い事をするんだ」
戦後七十年の間に様々な犯罪に遭遇し、乳色の中に墨滴するかの如く、僅かに純真
であった人々の心も懐疑的な傾向性を増幅させた事は否めない。
つまり逆の理は至難だが、一握りの悪党が存在すれば瞬く間に世界は腐る。
この世を複雑に棲み難くしている悪心を、それぞれが養っていればこそ‥
そうして自らを含めた現代人の傾向的な心情や世情から推測もすれば、やや稚拙
とも受け取れる単純論で組織信仰を否定し、本間の反応を眼鏡の底から
意地悪そうに覗い待つが「実にその通りですね」と本間はあっさり肯定する。
相応な反論を展開し、寸部の隙も無いほどに論破したところで、未だ出会った事も
無いような相当な覚者でも無い限り、間違い無く相手を意固地にしてしまう
苦い経験が幾度もあった。
本間は但一言「しかし、好むと好まざるに関わらず、数こそがこの世の
明暗を分けるキーワードなんですよ」と言った。
そして、この時は伏せ置き、本間の反論に身構えている心の条網を解いた数日後
の梅木に伝えたそうだ。
人は誰しもが何れかの組織体に身を委ね、場合によっては或いは全ての機会を、
自利に優先させて他の損失を顧みる事はないという多くの現実がある。と
本間は、それ以上の言葉を持っていたが、機会に恵まれなかったと言う。
マインドを統制操作される事を最も侮蔑し警戒しながら、やっとの努力で得た
入社式では促されるままに、社歌や社訓を幼稚園児のように唱和する。
組織の一員であるからこそ、人は給料や年金や社会保障費を支給され命を継ぎ、
その過程で、セクハラと言いパワハラと言い感情に翻弄された人模様を、
ほとんどの一生を決定するかのようにそれぞれの命に焼き付けていく。
原始より人は落とし穴を考案し、動物達の優位に立った分けだが、
現代でも、そうした非道を駆使するものは誰に知られる事もなく、
摂理の陥穽に堕ちて非業の終末を向かえる‥
良いことと悪い事の価値基準を何処に置くのか、そうした個々の明暗が
世界の実像を形作っているのだが、
苦悩する道程で覚知するのか、或いは生涯気づかず土に還るのか……
誰もが、この社会と隔絶した生き方を貫徹することなどはできない。
だからこそ、事毎に正邪判別に惑う無知と、気づいていながら欲望に負ける。
それぞれの心を超克、また持続しなければ、健全な社会構造を形成する事などは、
到底でき得ないものだと考えている。
そのうえ、政教分離の定義とは信仰者の政治活動を禁じたものではなく、
国家権力が特定宗教と結託する事を禁じた国を監視する法律なのであり、
事実、諸外国においては何れかの宗教思想を背景とする団体が良識に沿った
政策を立案し、協議されて承認されるのであると力説したところで、
反論に対する苛立ちをつのらせる事はあっても、そうなれば言語として大概の
頭脳に認識させる事はできないからだと言う。
戦前・戦中のナショナリズムが巧妙に国家神道と結託する事に依って、道理と
人道に優先した狭義を大多数と誤認させたものだ。
それが資本社会・民主主義とも呼ばれるイデオロギー勢力によって、手痛い敗北を
喫した結果、政治と宗教は相容れず、特定組織・団体には所属しないという事が、
転動した今の世では、如何にも"白っぽい"というような慣習となっているが、
事がそれほど単純であるならば、世はすでに平穏であったろうと考えられる。
多くの日本人が、無信仰で、無党派である事を、自分は潔癖である事のステータス
であるかのように言い、時折・誇らしく語る人にも出会うが
先の霊界信奉にみられるように事実は全く違う。
占い好きに始まり、結婚式・葬式といい、お参りといい、クリスマスといい、
バレンタインという 宗教者でさえ頓着しないような、自分に都合の良い、
いいとこ取りの縁起担ぎに拘こだわり、政治といえば汚いものであるから、自分は
参加しないと言いながら遊戯を優先し、主義思想を明確に表明する事も無く、
保身に長けているにもかかわらず遠くは見えず、
その場その場でふらふらと票を入れ替え、政治を混乱停滞させる。
人格を形成する信仰(信条)思想の乱雑こそ、人の乱れと依正不二の原理に従って
此の地球の営みさえ乱すと、古来より東洋思想にはある。
慢心と怠惰と我見への執着は反発心ばかりの勉強不足に陥り、詭弁と不明を
呼び起こし、それは、かえって怠慢で冷血な公僕を長く養う結果、
我が身へ大小の損失となって降りかかる。
挙げ句、年金が削られた! 税徴収が増えた!と言っては、ふたたび的外れな
意趣返しに奔走する。
この世は"大数の法則"によって事物は推移するので、個々の善導に対する
意識改革と連帯が最大事であろうとは考えられる。
決して逃げ隠れして、怠け、批判し合うような事態ではない。
遠く霞ヶ関の無駄遣いに目を背け、隣のパートの僅かな時給差に嫉妬して
意地悪をするパートのようなものだ。と、ここまで言ったところで、
相手はすでに欠伸をこらえ、今晩のおかずの事等を考えているのか、
或いは激昂するのが常ではあった。と言う……